2020年7月13日月曜日

【オンライン授業の成立】ということ 200330



身近なところではオンライン授業が従来の通信教育と同じような<方法>としてのところでのみ議論されているような気がして懸念するのですが、
もしそうであるなら、そもそも専門設備を利用することができる環境としての「箱」はいらないし、
というより<大学>という機関を成立させている古代ギリシャ以来の「アカデミア」という概念が崩壊する。

橋本 公成
2020年3月30日

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“..now that the precedent has been set, on-line education could become the norm, not the exception. Or, that in-person versus online could eventually become the difference between private and public education, which would only serve to exacerbate the wealth and access-to-culture gap between the haves and the have-nots,”
「..今や先例が決まったので、オンライン教育は例外ではなく標準になる可能性があります。または、その対面対オンラインが最終的に私立と公立の教育の違いになる可能性があり、それは富と文化へのアクセスへのアクセスを持っている人と持っていない人の間のギャップを悪化させるだけです」
Art Students Demand University Accountability and Reimbursements During Pandemic
Students at some of the most renowned art universities in the country, including the Rhode Island School of Design, Yale, and NYU Tisch, are sounding alarm bells about their schools’ handling of the COVID-19 crisis.

Valentina Di Liscia  March 27, 2020 

https://hyperallergic.com/549734/art-students-covid-19/?fbclid=IwAR04KHcmxTpACIUMREupP68qTQlZwH4mIKHjr9E_8NZO5Kpvf0AnSVZtBKQ





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追記1  July 6, 2020  (on facebook) -----------

この映像は、「科学のある世界」と「科学のない世界」に分断された今の日本で、現実を見手分析するという科学の基本に立った数少ないまともな会見だと思ったのです。
前半の現状説明はデモクラシータイムズの配信がまとまった形で示されていて、これだけみるだけでわかりやすいです。最後の方の児玉龍彦先生の力強い訴え、大学封鎖批判と倫理に対する姿勢は必聴だと思ったのです。

https://www.youtube.com/watch?v=8qW7rkFsvvM&fbclid=IwAR0NzyXKurzUi9cBlYA7XZXcX50YkM14e30g2f2hPAZ32WgkhKc8rVmDo5w

しかし、その後の国会での悲壮感あふれる答弁を聞き、この先生も多くのことを背負わされているのかな、科学と異なる何かに従ってるようで残念な気分になりましたね。。



追記2 July 13, 2020 ----------

半年後に振り返ってみれば。
メディアによる中国武漢のおぞましいパンデミック映像から始まり、日本でのクルーズ船に人々の目が釘付けになっている中、準備は着々と進んでいた。
かく言うう私も、呼吸器系に疾患を抱えているので、迫りくる死に日々恐怖が増大し家に引きこもっていた。もともとが自宅での個人事業だから引きこもり生活はそれほど新たな習慣ではなかったが、公共交通機関には一切乗っていない。外出はもっぱら原付バイクであった。
世界規模で、すべての人が参加するコロナ禍という大イベントにとって、オリンピックなど小さな出来事にすぎない。しかし象徴性があるので、それも利用しなくてはならないとでもいうように「開催は無理だろ」「いやそんなことになれば大きな経済損失に」など、にわか評論家の大衆意見がメディアでにぎやかに展開され、それを見る大衆もまた、気分が誘導された。そんな中でも準備は粛々と整ってオリンピック延期が発表されるや否や「withコロナという新しい生活」「新しい日常」が成立した。
それはあまりにもスムーズに進行するので、あらかじめ準備されたシナリオどおりの出来事のように感じていた。感染症は方便で、一向に進まぬデジタル産業革命の最終段階の仕上げ、デジタル生活に完全移行する強硬突破のように感じたのも事実である。しかし一方で、世界的な人とモノの移動による文明の方向が、グローバル化の方向を強制終了し、大きく舵を切った転換の時代に立ち会っていると、ある意味ワクワクもしていたのも事実である。
時代の大きな転換に立ち会っていると思ったことは、物事が「成立する」とはどういうことかということを現実に自身の身をもって実体験することなのである。
「成立する」とは、それはひとたび成立してしまうと、正しさ、正しくなさは不問にされ、流れと逆の方向に行こうとするものを排除する世界である。そんな考えを持つものは権力者によって抹殺されるのではなく、大衆によって殺されるのかもしれない。私が今、感じる恐怖は感染症による死ではなく、「成立したこと」による脳死である。
第二次世界大戦の前夜もこういう日常だっただろうか。

<別稿へ続く>