2021年2月28日日曜日

20180727

2018年7月27日




昨日、一昨日と名古屋の気温は37℃を下回って涼しくなりました(気温は36.5℃ですが)昨日は風もあってさわやかです。室温も今、30℃を切って今晩は扇風機を付けていると寒いです。

先々週から24日までの37℃~40℃弱の期間は、連日「命の危険...」が連呼され「室内でもエアコンを我慢せずに。。」の放送をエアコンが壊れている部屋で聞いてましたが、涼しそうなスタジオでコメンテーターが語る「命の危険の暑さ」に違和感を覚えつつ、高齢者の方々がエアコンはあっても電気代を気にして使用しないという発言に、相槌を打ってしまいます。実際のところエアコンが付いていても使用していない部屋で亡くなった老夫婦のニュースなどを聞くにつけ、複雑な思いになりますが。

「今は昔の天候と違うのだから」とか聞くのですが、それでも37-8℃も2,3日過ぎると体は慣れてくるもので、暑さで気分はハイになり小さな原型の仕上げに熱中します。(これもいわゆる熱中症 hahaha )

一人、室外機からの放熱を我慢したところで地球温暖化気候の流れの前には全く無意味なナンセンスな行為と映るのかもしれないのですが、エアコンを使用しないということが、消費経済活動に参加しない公共性のない非社会的で生産性のない行動のように感じられるのには大きな違和感があります。確かに生産性のない生き方をみんなが行えば、今のシステムでは、まわりまわって最低限度のインフラさえ行えない社会になってゆくのかもしれません。しかし、馬鹿と言われても熱帯気候に変わった風土に身体を合わせて徐々に改造してゆくことを選択するのです。これは根性論の旧人類、正常バイアスですか?





2021年2月27日土曜日

210109 小説「感染」~土用の禍~

 




あれから(あの事故から)約半年がたって、季節はすっかり冬本番。きょうなどは雪が降るかもと天気予報で脅されて、大学の対面授業が無事できるかとヤキモキ心配していたが、寒いけれど晴れているため気分よく原付を走らせて大草へ向かう。

今日は雪をかぶった伊吹山が、ここ下志段味の台地から良く見える。普段ガスに覆われてかすんでいたりして見えないものが、冬のこの時期に突然はっきりと出現するのはかなり映像的な体験である。明るい日中に空というスクリーンに映し出された雪山。ダ・ビンチ先生が「世界」の論文としての絵画として、人物画の背景などにも遠望する山を描かねばならなかったことがこの風景を見ていると理解できるのである。

それにしても伊吹山を正面に見るこの通り、いつも秋から冬へ向かう時期に通っているが毎年ひと月以上にわたって花をつける四季桜が木としてはちっとも成長しないことが気になっていつ見ても考えてしまう。長久手大草の湧き水横に植わっている桜も同じようにひと月以上にわたって花を散らさないが花は大量につけて健康そうである。それにひきかえ、ここの歩道の並木用に植えられてる木々はパラパラと数花つけているが枝も増えないし幹も細いままでいつまでたっても成長しない。まるで筋肉の落ちた自身の太腿を見ているようで痛々しい。

春から夏に向かう頃の染井吉野や山桜の花をつけている時期は短く、一週間と見ないうちに小さい若葉が出てきたと思ったらいつの間にか緑に覆われて葉桜になってしまう。花が咲き続ける、花を散らさないのは気温と日照時間によると理科の時間で習ったような気もするが、そのメカニズムがどうなってるかまでは教わらなかった気がする。「花を散らすな」という命令をこの木の花はどこから受けて、どのように実行しているのか。それとも脳も持たない木が命令の送受信など行うはずはないのだから、これはいわゆる<絡合>というものか。

この<絡合>ということを意識することが半年前の禍の中で体感したことでもある。

横隔膜と大腸や小腸、直腸付近の筋肉との間で相談して実行されたと思われる十日間にわたる便秘と咳、くしゃみの強制停止。この時の現象は自分の脳が命令していたのではなく、それぞれの器官周辺で互いに連絡しあって実行されたとしか考えられない出来事の体験だった。


僕の肺はと言へば、日常的な呼吸苦は慢性化している。時にひどい発作にみまわれることがありそんな時は死の恐怖を身近に感じたりするのだけれど、たびたび起こるのでそのたびに救急車を呼ぶのもなんだし、椅子に座って呼吸を整え、静かにしていると30分から一時間で平常に戻ったりするので、こんな発作も日常的な慢性化の一つだと考え、自身の身体をコントロールすることに段々慣れてきたりする。

つまりは、個人が苦しさに耐えるという程度というものは、基準が自分の身体でしかなく、他人の苦しさと比較体験ができないのでどこまで我慢してよいものやら分からなくもある。もともとが、病院に行くことなく風邪なども自宅で布団にくるまって汗をかきながら直すという癖がついているので、何とかこの苦しさもとにかく自身の身体と浅はかな経験知による行動で何とかしようと考えるのである。


201110 小説「感染」第三章 <DTP ; Desk Top Pandemic>

 




<DTP ; Desk Top Pandemic>


君は「12人の猿」という映画を見たことはあるかね。


私は照りギリアム図監督のを見ましたが、保険会社によるパンデミックの自作自演という結末には衝撃を受けました。


しかしあの映画は「近代」のもので現代の"趣味レーションパンデミック"はもっと衝撃だがつまらない、しかし経済的だ。あんな大掛かりなことをやらなくても机上の鉛筆なめなめで可能なお手軽な「こたつ研究」のようなものだ。

君は若いからDTP以前の印刷業界を知らないかもしれないが、というかそういった概念自体が分からないくらい近代の印刷産業は身のまわりから消えてしまったが、今ここでこうして打っている文字一つとっても、紙に鉛筆で書いた手書きの原稿を渡して写植屋さんに写真で文字を打ってもらうという工程があったんだよ。印画紙に打ち出された文字はそのままでは使用できないほど段落の間隔や文字の間隔がまちまちで、まず打ち出された文字列の下に薄い鉛筆で直線を引き、その後印画紙の裏にペーパーセメントという糊を塗ってから、つるつるした表面のガムテープを貼った台紙に貼りつけ、それからカッターナイフで行や文字をバラバラに切り離してからピンセットで小さな文字片を台紙に貼っていくのだが、この時に行がそろうようにさっき文字の下に引いた薄い線が目安になるのだが、こんな風に目に心地よくスムーズに文字を目で追いかけれるようにと字間や行間を詰めたりというかなりめんどくさい作業があったのさ。ぼくも、熟練していくうちに、しかし一方でこんな技術はいったい何の役に立つんだろう?と虚しく自問したものさ。しかしそんなときには決まってジョバンニの活字拾いを思い出して、銀河鉄道の疑似体験を夢想したものさ。
そして、あの忌まわしい1980年が始まって5年目の、日米半導体協議とプラザ合意。
そんな時に登場したのがDTPというわけだ。

DTPとはデスクトップパブリッシュDesk Top Publishing の略だけれど、多くの工程で分業で行っていた印刷、複数の職人や専門職で成り立っていた出版産業が、コンピュータの出現によって、個人が1台のデスクトップパソコンがあれば最終版下まで完成させることができる、あるいは印刷まで可能になった。1980年代後半~90年代にかけてこの国でも広まったおかげで、誰もが印刷や出版を身近に感じることができるようになった。そして一方で業界の職人たちは食い扶持を失っていったのさ。

僕は、今起こっていることもこの時のDTP革命とすごく似てるような気がするんだ。コンピュータによる二進法革命といってもいい。
いみじくも同じDTPなんだけれど、今回は命を人質に取った机上の革命に見える。そのことが「12人の猿」の頃と大きく違うところだ。机の上のコンピュータ上でATCGの配列をいじくってワクチンとセットになった病気というイメージを作り上げることができる。まあこれはデザインという考えに近いという意味では、かつての印刷や、メディア宣伝という出版と非常に近い出来事じゃないか。

病気の検査という大義名分ではあるが、病原体は分離されたわけではなくそんな論文などどこにも存在しない。なによりも「病気」という概念や「ワクチン」という概念が何の説明もなく概念変更されたのだ。まるで常勝マクラーレン・ホンダで面白くなくなったゲームを持続可能にするためにターボエンジン禁止というレギュレーション変更を行った87年のF1のように。そうさ。これこそが今、突然叫ばれ始めた標語「持続可能な社会」というものさ。
僕はこの言葉「持続可能な・・・」を聞いた時、何かすごく邪悪な悪魔のささやきのように聞こえて身震いしたんだ。君にもわかるだろう。

そうか。君は、人間そこまで邪悪なことはしないだろうと言うんだね。いやあ、わかるよ。僕もそう思うよというか思いたい。ヒトはそこまで悪いことはしない。
だから実際ヒトを殺すような生物兵器を作ったわけではない。そうさ。そんなことをしたら世界中を敵に回して、何よりも、みんな死んでしまったら彼自身生きていけないからね。身の回りの世話をしてくれて、生き続けるための世界の運用が最低限必要なヒトびと必要だからね。ここまで言ってくると何か似てると思わないかい。ウイルスは強毒化して宿主を殺してしまったら、自分自身が生きていられない。そう、DTPを起こそうと思った彼は、彼自身ウイルスと相似的なフラクタルな存在なんだ。

しかし、って君は言うんだろ。
こんなに世界中で同時多発的に起こったことが、そう簡単に実行できるか?と。