2021年2月27日土曜日

210109 小説「感染」~土用の禍~

 




あれから(あの事故から)約半年がたって、季節はすっかり冬本番。きょうなどは雪が降るかもと天気予報で脅されて、大学の対面授業が無事できるかとヤキモキ心配していたが、寒いけれど晴れているため気分よく原付を走らせて大草へ向かう。

今日は雪をかぶった伊吹山が、ここ下志段味の台地から良く見える。普段ガスに覆われてかすんでいたりして見えないものが、冬のこの時期に突然はっきりと出現するのはかなり映像的な体験である。明るい日中に空というスクリーンに映し出された雪山。ダ・ビンチ先生が「世界」の論文としての絵画として、人物画の背景などにも遠望する山を描かねばならなかったことがこの風景を見ていると理解できるのである。

それにしても伊吹山を正面に見るこの通り、いつも秋から冬へ向かう時期に通っているが毎年ひと月以上にわたって花をつける四季桜が木としてはちっとも成長しないことが気になっていつ見ても考えてしまう。長久手大草の湧き水横に植わっている桜も同じようにひと月以上にわたって花を散らさないが花は大量につけて健康そうである。それにひきかえ、ここの歩道の並木用に植えられてる木々はパラパラと数花つけているが枝も増えないし幹も細いままでいつまでたっても成長しない。まるで筋肉の落ちた自身の太腿を見ているようで痛々しい。

春から夏に向かう頃の染井吉野や山桜の花をつけている時期は短く、一週間と見ないうちに小さい若葉が出てきたと思ったらいつの間にか緑に覆われて葉桜になってしまう。花が咲き続ける、花を散らさないのは気温と日照時間によると理科の時間で習ったような気もするが、そのメカニズムがどうなってるかまでは教わらなかった気がする。「花を散らすな」という命令をこの木の花はどこから受けて、どのように実行しているのか。それとも脳も持たない木が命令の送受信など行うはずはないのだから、これはいわゆる<絡合>というものか。

この<絡合>ということを意識することが半年前の禍の中で体感したことでもある。

横隔膜と大腸や小腸、直腸付近の筋肉との間で相談して実行されたと思われる十日間にわたる便秘と咳、くしゃみの強制停止。この時の現象は自分の脳が命令していたのではなく、それぞれの器官周辺で互いに連絡しあって実行されたとしか考えられない出来事の体験だった。


僕の肺はと言へば、日常的な呼吸苦は慢性化している。時にひどい発作にみまわれることがありそんな時は死の恐怖を身近に感じたりするのだけれど、たびたび起こるのでそのたびに救急車を呼ぶのもなんだし、椅子に座って呼吸を整え、静かにしていると30分から一時間で平常に戻ったりするので、こんな発作も日常的な慢性化の一つだと考え、自身の身体をコントロールすることに段々慣れてきたりする。

つまりは、個人が苦しさに耐えるという程度というものは、基準が自分の身体でしかなく、他人の苦しさと比較体験ができないのでどこまで我慢してよいものやら分からなくもある。もともとが、病院に行くことなく風邪なども自宅で布団にくるまって汗をかきながら直すという癖がついているので、何とかこの苦しさもとにかく自身の身体と浅はかな経験知による行動で何とかしようと考えるのである。