2021年2月27日土曜日

201110 小説「感染」第三章 <DTP ; Desk Top Pandemic>

 




<DTP ; Desk Top Pandemic>


君は「12人の猿」という映画を見たことはあるかね。


私は照りギリアム図監督のを見ましたが、保険会社によるパンデミックの自作自演という結末には衝撃を受けました。


しかしあの映画は「近代」のもので現代の"趣味レーションパンデミック"はもっと衝撃だがつまらない、しかし経済的だ。あんな大掛かりなことをやらなくても机上の鉛筆なめなめで可能なお手軽な「こたつ研究」のようなものだ。

君は若いからDTP以前の印刷業界を知らないかもしれないが、というかそういった概念自体が分からないくらい近代の印刷産業は身のまわりから消えてしまったが、今ここでこうして打っている文字一つとっても、紙に鉛筆で書いた手書きの原稿を渡して写植屋さんに写真で文字を打ってもらうという工程があったんだよ。印画紙に打ち出された文字はそのままでは使用できないほど段落の間隔や文字の間隔がまちまちで、まず打ち出された文字列の下に薄い鉛筆で直線を引き、その後印画紙の裏にペーパーセメントという糊を塗ってから、つるつるした表面のガムテープを貼った台紙に貼りつけ、それからカッターナイフで行や文字をバラバラに切り離してからピンセットで小さな文字片を台紙に貼っていくのだが、この時に行がそろうようにさっき文字の下に引いた薄い線が目安になるのだが、こんな風に目に心地よくスムーズに文字を目で追いかけれるようにと字間や行間を詰めたりというかなりめんどくさい作業があったのさ。ぼくも、熟練していくうちに、しかし一方でこんな技術はいったい何の役に立つんだろう?と虚しく自問したものさ。しかしそんなときには決まってジョバンニの活字拾いを思い出して、銀河鉄道の疑似体験を夢想したものさ。
そして、あの忌まわしい1980年が始まって5年目の、日米半導体協議とプラザ合意。
そんな時に登場したのがDTPというわけだ。

DTPとはデスクトップパブリッシュDesk Top Publishing の略だけれど、多くの工程で分業で行っていた印刷、複数の職人や専門職で成り立っていた出版産業が、コンピュータの出現によって、個人が1台のデスクトップパソコンがあれば最終版下まで完成させることができる、あるいは印刷まで可能になった。1980年代後半~90年代にかけてこの国でも広まったおかげで、誰もが印刷や出版を身近に感じることができるようになった。そして一方で業界の職人たちは食い扶持を失っていったのさ。

僕は、今起こっていることもこの時のDTP革命とすごく似てるような気がするんだ。コンピュータによる二進法革命といってもいい。
いみじくも同じDTPなんだけれど、今回は命を人質に取った机上の革命に見える。そのことが「12人の猿」の頃と大きく違うところだ。机の上のコンピュータ上でATCGの配列をいじくってワクチンとセットになった病気というイメージを作り上げることができる。まあこれはデザインという考えに近いという意味では、かつての印刷や、メディア宣伝という出版と非常に近い出来事じゃないか。

病気の検査という大義名分ではあるが、病原体は分離されたわけではなくそんな論文などどこにも存在しない。なによりも「病気」という概念や「ワクチン」という概念が何の説明もなく概念変更されたのだ。まるで常勝マクラーレン・ホンダで面白くなくなったゲームを持続可能にするためにターボエンジン禁止というレギュレーション変更を行った87年のF1のように。そうさ。これこそが今、突然叫ばれ始めた標語「持続可能な社会」というものさ。
僕はこの言葉「持続可能な・・・」を聞いた時、何かすごく邪悪な悪魔のささやきのように聞こえて身震いしたんだ。君にもわかるだろう。

そうか。君は、人間そこまで邪悪なことはしないだろうと言うんだね。いやあ、わかるよ。僕もそう思うよというか思いたい。ヒトはそこまで悪いことはしない。
だから実際ヒトを殺すような生物兵器を作ったわけではない。そうさ。そんなことをしたら世界中を敵に回して、何よりも、みんな死んでしまったら彼自身生きていけないからね。身の回りの世話をしてくれて、生き続けるための世界の運用が最低限必要なヒトびと必要だからね。ここまで言ってくると何か似てると思わないかい。ウイルスは強毒化して宿主を殺してしまったら、自分自身が生きていられない。そう、DTPを起こそうと思った彼は、彼自身ウイルスと相似的なフラクタルな存在なんだ。

しかし、って君は言うんだろ。
こんなに世界中で同時多発的に起こったことが、そう簡単に実行できるか?と。