2014年8月17日日曜日

1989/03/28 勝川駅プラットホームの桜


季節外れの投稿

撮影:1989/03/28 NikonF3 35mm posi紙焼きよりスキャン


中央線勝川駅の名古屋行ホームには立派な太い幹の桜が幾本も植わっている。
プラットホームは、なだらかな土盛りで桜が植わっている土とつながっている。
枝は当然のことながらホームの線路側に伸びることを抑えられ反対側の駅外に隣接する道に向かって枝を張る。枝の先は道を隔てて建つパン屋の軒テントに接し、春ともなれば桜のトンネルを作る。
パン屋の中には4脚だけカウンターのこじんまりしたカフェがあり、コーヒーとゆで卵、トーストのモーニングを食すことができる。桜の頃、ここに座りあわただしい朝のひと時をすごすことができるのは優雅な風情である。花が散る頃、そのアスファルトの小道に雪のように花弁を降り積もらせる。

ホームと道を隔てるものは簡単なコンクリートの角柱とそれをつなぐL字鋼4本でありくすんだ空色にペンキで塗装されている。それゆえ、列車に間に合いそうにない時はその簡単な柵を飛び越えて改札を通らずホームに駆け上がることは意図も容易なことだ。こういったホームのつくりは国鉄の駅には特に珍しいものではない。幼少期にしばしば訪れた母の田舎の王寺駅、(そこは関西本線と和歌山線が合流する機関庫や操車場のある大きな駅であったが)もまた、このような簡単な仕切りでホームと駅外が隔てられているにすぎなかった。抜け出したり、忍び込んだりすることが容易で簡単な境界だった。越境すること。境界に立つ事。気づけばそういった位置にいることになってしまうのは幼少期のいたずらな、臆病なのか大胆なのかどっちともとれる行動癖からきているのか。

簡単に出入りができる境界。その気になればひょいと飛び越えることができる簡単な障害物。
境界とは本来そういうものだ。はたまた物理的な障害物すらなくてもあるように思うものでもある。
麻紐を結んだ石を置くことで、入ってはならぬ印とした結界もまたそうであるように、そこを超えることが困難な物理的障害物はない。あるのは、超えてはならぬという共同体の中での約束事であり信用関係によって成り立つ取り決めとしての印だけである。


勝川駅プラットホームの桜は、そんな境界に咲いている。





「おてんとうさまが見ている」
お天道様のまなざしは強力だ。
しかし、近代的自我ヒトは、おてんとうさまに逆らって、
ほんとにお天道さまが強いのか、確かめようとして、結界をまたいだ。
「こんな無謀な気分に誘われるのは満開の桜のせいだ。」
と桜のせいにして。

おてんとうさまは相変わらずにこにこ微笑んでいる。
睨んでいるのは共同体のまなざしだけだった。
怯えているのは共同体に帰属して生きることを選択しようとしている近代的自我だ。





勝川駅 ----

開業当時、東春日井郡(現在の春日井市を中心とした地域)の郡役所があった勝川町の駅として、中央本線の名古屋 - 多治見間開通と同時に、一般駅として開業した。その後、貨物取扱業務を新守山駅へ移管するなど、貨物および荷物の取り扱いを縮小し、現在では旅客のみの取り扱いとなっている。前述したが、JR東海の駅の高架化事業は2009年(平成21年)11月23日に上下線とも完了した。

1900年(明治33年)7月25日 - 国有鉄道 名古屋 - 多治見間開通と同時に開業。一般駅。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。中央西線の所属となる。
1911年(明治44年)5月1日 - 線路名称改定。当駅を含む中央西線が中央本線に編入される。
1964年(昭和39年)4月1日 - 新守山駅に貨物取扱業務を移管、当駅での貨物の取扱を廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱いを廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道(JR東海)が継承。
1991年(平成3年)12月1日 - 東海交通事業城北線の駅が開業。乗換駅となる。
2006年(平成18年)11月25日 - JR東海の駅にTOICA導入。
2009年(平成21年)11月23日 - JR東海の駅が高架化完了[1]。
2010年(平成22年)6月5日 - JR東海の駅高架下の入り口を移設。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B7%9D%E9%A7%85