改元にあたり新元号が発表になり、その典拠や和漢字の意味が一般人向けに政府などから発表はあるわけですが、漢字はもともと大陸から伝来したものでありその原典にあたるのがより意味を考察できると思うのです。
万葉集にある梅花の宴(曲水の宴)にしろ大陸から伝来したことを考え調べてゆくと王羲之の蘭亭序に行きついたりするのです。
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新元号が発表されました。
「令和」
漢字の言葉の意味を知るには音読みの「レイワ」でなく訓読みで読む方が分かりやすいです。政府による菅官房長官の発表によると「よき(令)やわらぐ(和)」ということらしいのですが、日本で普通に義務教育の範囲で勉強してきた人であれば、漢字は文字自体で意味を宿しているので次のように読むのは自然です。
和(争いをおさめる)を 令(いいつける)
和(争いをおさめる)を 令(命じる)
和(争いをおさめる)の 令(おきて)
典拠は万葉集ということが強調されます。
大伴旅人が大宰府の梅花の宴での、梅花の歌三十二首の序より
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43167710R00C19A4EA2000/初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす ...
国民に向かって、中国の四書五経によらない、万葉集=国書を強調するのも、政治的であると批判的な意見が多いです。しかし、そもそも元号の制定は政治なのですから当たり前なのです。
金田一先生の語ったところによれば
「令」はもともと神の言葉。転じて「よきことば」
と、旅人の序は「もともと中国の書に出典があり、漢文であるからどうしても元をたどれば中国に行きつくことは避けられない。」と国民全体がめでたい雰囲気の方向に向いているテレビ国民に水を差すことは避けようと気を使いながら歯切れが悪い印象を受けます。
ロバートキャンベル氏は
漢字の「令」には「向かわせる」という行動をともなった言葉であることを語っていましたが、すぐに撤回して好意的な印象を表明しています。
律令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(令から転送)
律令の基本思想は、儒家と法家の思想である。儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義である。
古代中国には、国家や社会秩序を維持する規範として、礼、楽、刑(法)、兵(軍事)があった。
儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじた。刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範であった。次第に令の重要性が増して、律から独立し行政法的なものになった。
・・・あるいはまた、秦・漢においては、令=詔(『史記』秦始皇本紀)であり、“令”は皇帝の命令(詔)を指し、“律”は個々の詔(令)の文中に盛り込まれた規範的部分のみを指したとする説もある[8]。
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大宝律令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。
大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。
成立
大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。
ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
・・・大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らである。
大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。
大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説もある[2]。・・・
7世紀後半以降、百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。・・・
・・・この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。