2019年5月19日日曜日

小噺「平成人の金婚式」





平成人の金婚式

2069年、リタイアした平成人の夫婦は老後の楽しみに宇宙旅行に出発しました。
金婚式を迎えての記念旅行です。

ツアー費用はずいぶん安くなったとはいえ、庶民で年金暮らしの夫婦にとっては3年間生活できる高額な費用です。連れ合いのどちらかが先に逝ってしまった後、施設に入らなければいけない状況を考えて貯めていた虎の子も使いました。
金婚式という節目に使ってしまうことは価値あることだと思えたのです。



宇宙空間での時間は思ったより速く、費用対時間を考えるとまったくあっけないものでした。
地上とほぼ同じ時間で一日が過ぎる一周23時間56分の静止軌道コース(上空36,000kmの楕円軌道)は値段が高く、夫婦が選択したツアーコースは上空1,000kmの周回でした。ギリギリ支払える値段だったのですが、この上空からだと1時間45分で地球を一周してしまいます。
一日のうちで何度も経験する日の出と夕暮れは結構疲れるものでした。
ただでさえ年齢とともに時間の経過が速く感じられるのに、九十を前にして、「はやく逝け!」と言わんばかりにさらに加速度を付けられブンブン振り回されている気分です。
それでも、窓の外に見える青いグローブに白い渦巻の台風が次々と小さな島々を直撃するさまは、昔見た鳴門の渦潮よりも迫力あるもので、その渦の下で起こっているであろうヒトの厄に対しほんの少し罪悪感をおぼえつつも神の視点とはこういうことだと体感することができた夫婦は大いに満足していました。


50年前に行ったヘナリの場所が見つけられない上空を何度か周回し、あと30回廻ってツアー終了の時間が迫った軌道上で突然、電源系統がダウンしました。
センサーの不具合で宇宙ゴミが衝突するのを避けきれなかったのです。


「帰還のめどが立ちません」
舟のAIは、この世の終わり感をこめた不安な感情でアナウンスを繰り返します。

「こんな時は抑揚のない機械音の方が落ち着くのに。。」


こういったアクシデントは何十回に一回起こるもので、旅行前には起こりうるかもしれない不測の事故に対し「異議申し立て及び保証の請求をしない」という書類にサインさせられていたので、夫婦は半ばあきらめて待つしかありませんでした。



「こうなったら、まったく俎板の鯉ならぬ宇宙のサバ缶だな」
いつもながらたとえがずれてる残念な夫のつぶやきに、妻は力なく笑いかえしました。

非常用電源のカウンターがゼロを指し、酸素製造機も止まって意識がもうろうとしてきたとき、妻は息絶え絶えにに言いました。

「おとうさん、あの缶詰、開けましょうか」

「そうだね、少しは楽になるかもしれないな」


夫婦は結婚した2019年4月30日、記念に買った「平成の空気」缶を一つ手荷物に入れて持ってきていました。夫のつぶやいた「宇宙のサバ缶」で缶詰を持ってきたことを思い出したのです。
宇宙空間で缶詰を開けて、その時の空気を思い出し「あんな時代もあったね」と仲良く宇宙舟の縁側に座って茶飲み話をするためです。
場合によっては非常用空気として役に立つかもしれないと思ったのでした。



妻は缶詰のプルトップに指をかけゆっくりと引きました。
二人は頬っぺたをくっつけて小さな缶の空気を一気に吸い込みました。

意識がもうろうとしている中で一瞬なつかしいにほいが噴出し、肺に少し到達した気がしました。
そのかほりは、50年前のその日に岐阜県の小さな町で行われたイベントに参加して空気を缶に詰めた時におっていた、葉っぱが黄色と黄色が強い黄緑と白緑の混じったマダラから濃い緑一色へと秒速で変わってゆく山の、かすかな空気の速さの味がしました。
誰の身にも等しく降りかかった激動の昭和の空気を思春期に吸って育った父の世代と違って、大震災やテロの大きな出来事があったけど、テレビで見ていただけで直接それにみまわれることなく、ゆとりのある、いろんなことはあったけど、しかし大きな物語は何も起こらなかった多感な思春期の幸せを妻は噛みしめていました。平成の空気が蔓延し、世界中にいきわたった10年後から失速していった父の世代とは対照的だなあと感じていました。
なにより宇宙舟の中で吸う地上の空気は、感覚が研ぎ澄まされる環境のせいか、出汁をしっかりとったお吸い物のように薄味でありながらコクのある濃密な味がしました。

「ねぇ、おとうさん」
妻はこんな気持ちを声に出さず夫に同意を求めましたが、うなづくこともなく返事がありません。

そのかすかな空気の味は大変いとおしく、いつまでも感じていたいのに一瞬で消えてなくなりました。その間、実際のところ数分、あるいは数秒だったかもしれません。

「ママ、これが永遠?」





「ふうーっ」


大きなため息を吐いて空っぽになった肺を感じながら
妻はゆっくり目を閉じると、もうしゃべらなくなりました。









おしまい
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商品研究190424 空気の缶詰
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