コロナ禍で検証委員会が議論した議事録は残していない、存在しないというニュースが国会で問題になった。
議事録を残さないというこのニュースを聞いた時、80年代のバブル期に企業の開発会議で推奨されていたブレスト(ブレイン・ストーミング)を思い出した。
誰が何を言ったかではなく、その場での発言が間違いか、滑稽か、途方もない馬鹿げた常識外れかとかいった同調圧力から解き放たれてアイデアそれ自体の発現を求めての共同脳による嵐といったものだ。
議論その場では、発言者に責任は無く共同脳による、個にしてみれば無責任が、個では得ることができない集合知、経験から未知の最適解を導き出すということが目指されるというものだ。
未験の禍を前にして、個の、発言者の利権や責任を離れ議論されるという考えは、個の価値観や一部の特許、所有権などよりも、人類に降りかかった禍に「類」として立ち向かうと考えれば、すばらしいことである。そもそも自然科学の出来事において著作権など存在しない。
しかし、一方で記録を残さない国事行為というものがどういうことかとも考えてみると、同様の問題が起こった時、過去の検証が活かされず、なにより歴史に空欄を作ることではないのかと。
後の世で、禍が過ぎ去って歴史が再び動き出した時、記紀のように後世の他者によって都合よく書き出される、ある方向を持った物語としての歴史が捏造されるのではないかと。記録を残さなかったことがかえって、幾つもの不確かな伝承や陰謀論を生むのではないのかと。
ところで一方、文字お越しされること、言葉として記されることについても考えてみる。
仏典や聖書、古代ギリシャの哲学書。話し言葉で説かれた仏陀やキリスト、ソクラテスの言葉が、文字お越しされ残されること。そのことは紛れもなく文字というものの遅延をあらわにしている。言葉は発せられたとたん消えてゆく。聞いた人(その場の観客)は言葉それ自体から瞬時に「聞いた人」自身の経験より導き出される「意味」を抽出して大脳皮質に保存する。大脳皮質に保存された言葉は遺伝子の複製のように一字一句コピーされるのではなくエラーも同時に保存され、そんなことが何代もの世代で繰り返される。しかしエラーは絶えず修正されもする。
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「イメージ人」はイメージに騙される。
「言葉人」は言葉に騙される。
「知識人」は知識に騙される。
「経験人」は経験に騙される。
「騙される」主語は何か?
一代限りの大脳皮質である。
習慣が大脳皮質を更新し、更新された大脳皮質が習慣を補完する。
習慣というものが大脳皮質によるものであり大脳皮質によって騙されるのならば、良くない習慣と気づいた時は逆に大脳皮質を騙す行動に転じるのだ。大脳を逆にだますことによってよくない習慣は変えられる。か?