2021年9月28日火曜日

小説「観察者シュレディンガーの猫氏による当事者としての観察日記」#01(年金美術刊)

 吾輩はシュレディンガーの猫である。


「シュレディンガーの猫」という名は、吾輩の生みの親シュレディンガー博士によっての論文からそれを読んだ人々によって、そう呼ばれてるに過ぎないから厳密な意味での氏名ではないが、多くの人が認知了解していることからも一般名詞のようなものでもあると思っている。

一般名詞のような氏名とはいかなるものかといえば、北斎やダビンチのような多くの人が認知している個人を超えた氏名ではあるが、一方で吾輩は生きてもいるし死んでもいるという曖昧な存在なのだ。


量子論の世間では、吾輩は生きてもいるし死んでもいるという箱の中に閉じ込められている。

時々、箱を開けるものが現れて、その瞬間、吾輩は生きたり、死んだりしているのである。

この実験から導き出された仮説はいまだに議論の対象であり、仮設そのものが否定される時が来ると、その時本当に吾輩は晴れて成仏できるのかと期待に胸膨らましてるわけなのだけれど、はたしてその仮説が乗り越えられた時の後も歴史上の曖昧な猫として存在し続けなければならないことに恐怖を感じたりもするのである。



そしてこのあいまいな状態に閉じ込められている吾輩が、吾輩こそが観察される主体であり当事者として、吾輩自身の観察を語ることこそがこの世界の片隅のほんのささやかな症例ではあるけれども、もしかしたら同じ状況に置かれているかもしれない者たちにとっての生きてゆく助けになるかもしれぬと思った次第なのである。

なにせ、今のご時世、嘘やデマが大手を振って多くの人たちの大脳に直接攻撃を仕掛けている大戦争真っ最中であり、迷信と科学をすり替える大革命が500年ぶりにいとも簡単に成功してしまったという恐ろしい時代が到来してしまったのだから。

そうだからなおのこと、ほんのささやかではあるけれどこの当事者吾輩のつぶやきは、そのことに於いて公共性を帯びるのではないかと思った次第である。


肺と満月

ことの発端はこうである。


9月20日 、明日は中秋の名月で今年は満月という日にいつものように衰えた気管支の筋肉と、横隔膜の筋肉を鍛えて大きな呼吸を回復するため愛知池に歩きに行った時のこと。この日は天気よく、台風も去った後で気圧の谷が近づいてくるにはまだ時間があった頃だと記憶しているのだが。しかし、愛知池の駐車場に到着すると東郷ダムの地平線近くに見事な十四夜の月が昇っていて、階段を上って歩き始める前から呼吸困難な感じで、つまりは満月=満潮=大潮=月の引力最大という連想より、“満月というわけで呼吸困難”という結論に至ったわけである。よってその日は東郷ダムの直線往復のみ、2,669歩で勘弁してもらって。えっ、誰に勘弁してもらった?って、主語は誰?などとご質問もございましょうが、それはほれ、吾輩をコントロールしている大いなる存在とでも言いましょうか、とりあえずそんな塩梅で帰ってきたわけである。

しかし、翌朝3か月ぶりのDr.が言うには

「満月は関係ないと思うよ。。」「どちらかというと気温とか。。」

いやいやDr.、

「もちろん台風が近づいた日は苦しかったんですが。。」


「医者」と「患者」が今の吾輩の重大テーマでもあるのだが、今風に言えば「当事者」でない知見、見識による観察者である「医者」はその<病>を経験したことがあるのでしょうかということなのである。

例えばDr.は、ちょっとした怪我とか、季節性のカゼや食中毒とかそういった類の病はもちろん経験したことがおありでしょう。しかし、吾輩のような高齢の不可逆的な病とか、その時の苦しみとか、どこまで我慢すればよいのかとか、そういったことの適切なアドバイス返答はDr.当事者としての自身の経験によらないということで、本に書いてあることや論文で発表されたことから導き出された定説による知見でありまして、もちろん彼の対面する患者=被験者からのデータや所見によってもたらされた彼自身の当事者としての経験を否定してるわけではありませんが。

吾輩の「肺が肥大しているからなのか、首の太い気管支を両側から圧迫するように苦しい」と言った言葉を受けて

「いろんな表現をする人がいますが、その太い気管支よりむしろ末端に枝分かれした細い気管支が細くなっているから。。」

と、Dr.のその「いろんな表現をする人」という言葉に、「患者」のいろんな表現がむしろ知見、見識につながるのではないのかと吾輩などは思うのである。





------------- 注

「年金美術」とは:

このブログの著者である橋本公成によって2021年1月より年金受給者になったことにより設立した概念、およびその活動。

「年金美術」の活動には小説のほか未公開の「100円レシピ」などがある。