2021年9月12日日曜日

210910 バイクが壊れたので何年ぶりかでスクールバスに乗る。

 

走ったり、急いで行動することができなくなったので、通常より1時間前に現地に到着できるよう前日に入念に時刻表をチェックしてタイムスケジュールを立てる。

外出の3時間前には起床して、ゆっくりと準備する。

とにかく焦ったりするとすぐ発作が起きたりするのだから、通勤通学ということも、それ自体一大行事なのだ。


05:53 Minowaike bus stop


日の出前に家を出て、バス停で日の出を迎える。


そういえば小学生のころの通学、日の出前に家を出てネオポリスの上り坂を振り返れば二上山越しに白い太陽が昇った光景を思い出す。

その頃、小学1年から5年間の満員電車とバス通学は子供心に「大人になったら、ぎゅうぎゅう詰め電車バスのこんなつらい毎朝のサラリーマンには絶対なるまい。」と決心させたのではあるが、美大を出る時には自ら望んでサラリーマンになったのである。


早起きは苦手



久しぶりの早朝の電車は社会の活動を体感できるが、この奇妙な状況にあってはその活力もまた奇妙な方向にエネルギーを放出していて、そのことがより一層奇妙な圧力を作り出し迫ってくる。

同じ場所と時を共有するために、みなの集う同じ場所へ移動する。

この奇妙な状況が起こる前、人々はそのことを当たり前のように受け入れていて意識することさへなかったのであるが、今ではそれこそが「悪」であるとでもいうように忌み嫌われることとしてメディアが宣伝する奇妙な社会が成立してしまった。

人が集うという文明の基本はいとも簡単に破壊されるのを目の当たりにし、それどころかこの情報戦争は、扇動と言論統制によって最小の社会単位である親子や家庭をもバラバラの「個」として囲い込もうとしている。あれほど「表現の不自由」を叫んでいたあの人たちは、今では”ロックダウン”だの”ワクワクパスポート”だのと手のひら返しと、あるいは沈黙を決め込んで、不自由を強制する側に加担しているようにさへ見える。



07:28 Kasugai station



とはいうものの、私よりも遠くから授業に参加している人もいることを考えると、夜明け前に起きて、始発のバスや電車に乗って学校に行くというのは、改めて考えれば大変なことだ。たった一日でさへこのありさまの自分と比べれば、毎日当たり前のように何時間もかけて通勤通学を行うという行為それ自体は非合理的でもありつらいに違いない。

しかし、face to face で人に会うという現場で何とわなしに芽生える「うれしい」や「たのしい」は、そのつらさを忘れさせてくれる。




昨日の午後、ひと月前に修理した原付のエンジンが再び止まって、あせるが、再びロードアシストに頼んで30年くらい付き合いのサイクルショップに持ち込み「もう一度オーバーホールしてみる」という言葉を聞いて、明日の授業へは電車バスでと腹をくくった翌朝の出来事。