70年代の 見る/見られる の関係とか 匿名性の自由 とか、そんなことが現実に進行しているスピードの中で追い越され、
戸田君らと見に行く予定が、伏見まで夕方出かけるのは少々難しくなり、昨日ラストの三好movicへ滑り込みで行ってきました。石井監督作品を映画館で見るのは何と学生時代に小松の映画館まで行ってみた「高校大パニック」以来というなんと46年ぶり。やはり同じ頃よく読んだ安倍公房の作品「箱男」
匿名性 ということについて ですけども まああのこの原作本が書かれたのが1973年 なんですね。 だから今から もう51年前 なんでこの映画が作られた 年とか考えても まあ 50年ぐらい経ってるわけですね。 安部公房 さんの 小説も学生の頃からよく読みました。 実存とか 存在とかその個人を主に考えると 不条理性 というのが浮き上がってくるわけなんですけども 、現代 その50年経った今 僕が見ている世界っていうのはまあ今この SNS で誰もがネットの海に 自分の言葉で世の中のことを発信することができるようになり、それがAI の肥やしになるっていうか。人工知能 AI の拠り所となる。集合知ですね。
個人の個人個人の複数のものが集まってできた知識っていうのが集合の知識。人類としての知識を形作っていくというのが 現実的に今もう進行中で 見えるようになってるというか、普通にそういった方法を使用して生きている世の中になっている。というかそもそも知識も個人が作ったものではないですね。
50年前に安部公房さんがテーマとしてなかったかもしれない評論家とかその読む人が逆に あの個人の不条理とかそういったことを について 感じていた あれは見る見られるという関係性とかその 気持ち悪さとか ということを ということに視点が置かれてたわけなんですけども 今回 その男 の映画を見て 感じたのはまあそういったことがあの今映画で展開されるというのが まああのすごく ちょっともう 時代遅れかな。 特にこの最後の ところなんかは 最後とかあのエンドロールとかで流れてる 携帯の音とか まあちょっと 古臭いかな と特に最後のセリフ 、主人公の永瀬さんさんが最後 叫ぶ ちょっと前に映る映像 映画館で見てる観客 新鮮味はあまり感じなかったところでもあるんですね。
面白かった のは意外と 僕は箱の中から覗くっていうのが カメラオブスクラというかカメラの原型ですね。 ピンホールカメラ 箱に穴を開けて箱の内側に外の世界を映す という そのメタファー 的な感じであったりとか。 箱の中に人が入るって言うの とか合体して人間の身体のメタファー 的な感じで箱が扱われてるような感じがして そういうところが 逆に 面白かったですね。
オープニングの映像が 森山大道さんみたいなモノクロの荒れた粒子の画像であったりとか、箱の中が暗室になってるとか。90年代初頭発売のコンタックスT2で撮影してるとか。箱の中が赤い暗室ランプで、撮影した写真のネガをその箱の中で現像してるということなど、人ひとり隠れるのがやっとという大きさなのにその内部空間の容量の大きさなど、映画ならではの面白かったところです。 そんなところかな。意外とカメラ について を考えるようなところもあって面白かった。
箱男がこう 覗き見してるという 覗き見 という こと に関しては 江戸川乱歩の 「人間椅子」とかをやっぱり 思い出させるような そういったなんか フェティシズム的な あの エロチシズム の 雰囲気を感じる ところ また 谷崎潤一郎とかそういったものと 漢字 共通の 感覚を覚える ようなところも ありました それは映画に映画にしたから そうなったのか 安倍公房さんの原作 この原作は僕も呼んだか 読んでないか ちょっと記憶がすごく 曖昧で もう1回 音を買って読もうと思いますけども そんな感じですかね というような感じでした
「見る/見られる」って言うことについては 僕も92年頃 見る 見られるという関係を主題にしたわけじゃないんですけども 結果的にそういった作品 ライブカメラでモニターに移してそれを 構造物の 一部と合体させて観客 自身が自分もひっくるめた映像を見るというような作品も作ってたので、見る 見られるという関係についても改めてこの作品の論評 で出てくるひとつのテーマでまあ自分の作品についても改めて気づいたという感じです
以上
> ----- 引用元メッセージ -----
> From:"kiminari" <kimikimi993312@yahoo.co.jp>
> To:"橋本公成" <kimikimi993312@yahoo.co.jp>
> 日時:2024/09/20 金 00:06
> 件名:箱男
>
Re: 箱男
30分前2024/09/20 金曜日 00:14
当時の不気味さが、今はその環境が当たり前になって、不気味さが異なる次元に行っている。というか、不気味でも何でもないようになってる日常こそが不気味。
さっきの集合知の話ですね AI の時代におけるこの集合知ですね このことについても気づいたのはまあ 父親が12年前 いなくなったんですけども その最後の3ヶ月間 まああの 僕もですし 弟もです しまああの母親はまあ つきっきりで病室に泊まり込んだりしてまあ 父との最後の3ヶ月をそれぞれ 過ごしたわけですね その 僕もあの病室に泊まって夜中に 航空ゲタンとかの処理を したりとか まあ 初めて そういったこともやりました それぞれのそういったあの 日々をあのうちの家ってのはみんなに気を書くのが 僕もまあ ずっと 今まで続いてることといえば まあ日記を書く 小さい頃からまあ 途切れずに 続いてるって事は日記 なんですね それでまあその時に感じたのはその父のマイツ 終わるかもしれない 最後の命の 終わる頃 それぞれ まあ 3名がそれぞれの日記を書いてるわけですね 思ったのがまあ 1つの出来事に対してこう 3人がそれぞれの視点で 言語化しているということにまあ 非常に 興味深い ことだなと思ったわけです 2 曲書いてたりもしながら 時々話したりもするんですけども いずれそう の記憶 ってのは その 僕の記憶とか弟の記憶が僕のと混ざったりして 書き換えられたりしていくわけですね そんな風に その1つの出来事 出来事っていうのは 一つなんですけども それを 感じてるのは3名にいた看護婦さんとかも 記憶していればそういった 別の感覚を持って その出来事に接してるわけですね だけどそれぞれのあの 出来事に対する思いってのは あの 曖昧になったり 混ざったりして残る残っていくことができた記憶だけが残っていく という それがまあ 1つの 歴史というものもそうなんだろうというようなことですね だからこの歴史で真実はこうだったとか言いつつも まあ 小説 いろいろあるわけですね 遺跡が出てきたり 後々の時代に対する測定方法が科学的に発見されたりまあそういったこともあるわけなんですけども 結局 残った 記憶が歴史を作って いく それが 正しい出来事 正しく そういうことが起こったという確定した出来事 ではないかもしれない 残って編集されたものが 歴史 になっていく 若い頃は そういったことに反発してたわけですね なんか それは嘘の話 あると しかし今も こうしよう 迎える年になってくると なんかその辺のお考えは変わってきて 残ったものが歴史になっていく っていう 風な考えに変わってきたわけですね 集合地によって人工知能が答えを導き出すような 世の中と 非常に近しい そういった 便利な ことが起こったからそう思ってるのか いや そうじゃなくて 昔から結局そういうことだったということなのかまあそんなことも一緒に考えたわけです つまり 映画の中で 店の箱男とか ただ みんな そのノートを書いてるわけですね 人間が本物の箱男かとか店の箱男とか それがどんどん入れ替わっても ごちゃごちゃになっていくんですけども 結局そのテキストは誰が書いたものなのかということだったり 本当の箱男とは 誰なのかとかそんなことじゃないんですね 結局は民衆 大衆の多数が全て開く男であり 匿名であり無名である そういったものの中で 書かれて ごっちゃになって残っていったテキストが 歴史であるみたいなことも まあ 感じた映画でもあります。
追記 終わり
石井監督と言うと僕の1つ上の歳なんですけども 学生時代に作った映画 1976年製作の「高校大パニック」78年に日活から 共同監督で リメイク されて これを見に行ったと思うんですけども、それ以来ですね。50年近くぶりに石井監督の映画を映画館で見た感想です。