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2024年9月18日水曜日
2024年9月17日火曜日
2024年9月10日火曜日
令和6年夏の米騒動
先週の土曜日 東京では放送されていませんが テレビ朝日系列 近畿広域圏 石川県 中部 中京広域県 熊本県 北海道 広島県などで放送されている 「正義の味方 教えて ニュースライブ正義の味方」という番組の中で高橋洋一先生が グラフを示して現在の米不足の現状を分析した意見を述べられておりました。 このトピックに対する説明では 農水省の意見を忖度した人が出てきたので 説明がわけわからなかったですけども、それをまっこうから否定するように高橋洋一先生の意見が表によってはっきり示され、ライブならではの痛快な出来事になりました。「本当のことをしゃべるコメンテーターは必要ないという」 テレビメディアで ライブとはいえ番組でこういったことが起こるっていうのはある意味 すごいという ことも思える反面 、本当にそれができているのか?という疑問も私は持ってしまうわけです。
高橋先生の表が示すことは、令和6年夏の米騒動 というのは 農水省が指導したシミュレーション通り、米の値上げによって 中間業者を儲けさせるための方針であり そのために備蓄米など放出してしまうと せっかくの値上げができなくなってしまうため、現在も市場からは米がなくなってるということなんですね。 つまり米不足の原因は減反政策にあるということなんですね。 米の生産量は例年通りと言ってますけども 元の田んぼの面積がどんどん減ってるわけですから当然のことながら 米の生産量が減っているということで そこに まあ 多少のインバウンドで海外からのお客さんが増えたっていうこともあるかもしれないですけども まず田んぼの面積が減ってるから 米の取れ高が減ってるのは当然なんだけども それを隠すために 隠すためっていうか見えなくするように まあその辺のことは 説明しないっていうことなんですね。 なおかつ 備蓄米なんかを出してしまうと 値上げできないので、すでに今年の米の買い付け価格が昨年の倍ぐらいになってるっていうのが言われてましたから 今もうせっかく もうかるようになってるのに儲かるっていうのは誰が儲かるのかっていう問題が一番であって この消費者とか一番最初に米を作ってる農家さんとかは儲からないわけですね。 全然儲からないまま なんですけども 逆に 非常に痛みを伴ってるわけです。ただ 中間業者だけが儲かるような仕組みになっているという今の米の流通の仕組み だそうです。
というわけであのこの番組を見て思った2つの事ってのが今時珍しく本当のことを放送する ニュース番組は本当か?という疑問と、あの暴かれた 米不足の内情が異常に 国民大衆 いわゆる普通の 低所得者層にかかる問題 なんですけども そういった人たちに は 苦しい 痛い。 一番最初に作ってる農家さんにとっても利益がいかないという方策 農水省の方策の醜さが 見えた というわけで した。
私たちは 民主主義と資本主義という名のもとで社会運営の中で暮らしてる という風にされてますが 当然のことながら あの この2つの主義ってのは相対する主義 なわけですね。資本がある人はどんどん儲かっていくという主義であり。一方の民主主義は、なんかみんな人間は皆平等だなんて錯覚を招くようなイメージが あるんですけども それは全くそんなことは現実世界にはあり得るはずがなくってみんなそれぞれ異なる環境で異なる体を持って当然区別されてるわけです けど 資本家にから見れば 民衆のガス抜きのための。そういった 洗脳の主義 みたいな感じにも見えたりするわけですね。2つの主義の中で引き裂かれるように生きているわけですね。サラリーマンをやってれば すごくわかると思うんですけども(私もサラリーマン時代にいろいろ 多少は勉強したんですけども)労働基準法とか色々ありますけども そういった 法律 っていうのは経営者に割と有利になるように作られてるものであって、社員ってのは使用人っていう感じですね。 だから 使用人と社長(経営者)という立場は異なる制度の中で生きているっていうことを自覚して生きていくっていうことなんですね。だからお花畑な考えは夢って目を覚まして足元の現実をもっと見なければますます 私たちは私たちっていうのはまあ 低所得者 の民衆ですけども 苦しい 状況にどんどん追い込まれていく。その中で ちょっと優遇措置を得て 生かさず殺さず的に生きながらえさせられるということをもっと自覚していかなければならない。と 思うに至ったま あ 老後 老後っていうのもあれですけども 66歳の 秋でした。
5時間前2024/09/10 火曜日 09:09
令和6年夏の米騒動 追記 ----
私は今年の1月元旦に救急車で病院に運ばれてほとんど ひと月 1月いっぱい入院しておりました。それは持病である COPD の急性増悪を繰り返してたわけなんですけども COPD ってのは肺がもうあのスポンジのような肺が呼吸によって膨らんだり縮んだりしてる運動ができなくなって 開きっぱなしになってるわけなんですね。だから 酸素を吸って二酸化炭素を吐くっていう機能が著しく低下していくわけです。肺気腫っていうのが複合的なこの病気の一つ なんですけども肺というのは不可逆的な組織なので悪化するともう良くなることはないという感じですね。だからいつもレントゲンで撮ると 私の肺はすごく縦長に大きくなっていて首の付け根ぐらいまで伸びていて横隔膜があまり湾曲してない状態ですね。 開ききったままで縮まないというような感じなんで、何が起こるか っていうと二酸化炭素が絶えずあの肺に溜まっているというⅡ型呼吸不全っていう病名なんです。
あの 症状 病名としてもの あの 最初は ロシア人の呼吸不全が 回復 かなり 運動もできたんですけども
年々加齢による筋力の低下とともにどんどんとその肺の機能がより低下してくるっていうような感じなんですね。一方で肺自体の組織は復活しないので、まあ 筋肉とかはいつでも 食べて運動すれば筋力が戻るというようなんですけども肺の組織である肺胞は機能に関しては不可逆的で悪くなるのはあっても良くなることはない。ですから体の劣化していくスピードをできるだけ緩やかにするっていう処置しかできないっていうことなんですね。
そんな折、去年の11月の20日ぐらいに風邪をひいちゃったわけです。で それが結構な高熱が出る風邪でして、久々に咳が出る風邪。数年前から風邪って言っても夏風邪程度の勝手に自分で寝てるだけで直るっていうな風邪は数回は引いてますけども、病院に行って治療するようなことはなかったわけです。風邪ってのはもう何年ぶりかにひいて、そのせいでより 呼吸が困難が頻繁に起こるようになった。その前の9月の3ヶ月検診でも血中酸素濃度 SpO2が90% いかない状態になっていたっていうのもあってより悪い状態にあった。その時すでに普段の安静時で87%~88%の SpO2で暮らしてるっていうような感じなんですけども、それっていうのは人間の身体は慣れていくわけですね。体が慣れてゆくというか脳が苦痛を判断するのをゆるく騙されていくのか。健康な人であれば もうとてもそんな苦しくって苦しくって もうすぐに病院に救急車で駆け込むような感じになると思うんですけども私のように 徐々に悪くなっていく病気の症状の場合は慣れていくわけですね。人間は何でも慣れちゃう。だからどこまで苦しくなったら病院へ行かなければ危ないという判断がだんだんわかんなくなってくるわけですね。
だからその 結局 測ってもまあ90% 椅子に座って大人しくしてればあの 90%ぐらいまで戻るんですけども 歩いたり ちょっと階段を登ったりとか言うと もう途端に苦しくなって 立ち止まってもしばらく休憩してなければ次の動作に行けないっていうようなことが起こるわけです。 風邪を引いてるわけですから咳き込んでなおかつ風邪の発熱によってより食欲もなくなってくる、でまあ何が苦しい かっていうと食事ができない食事ができないことが
食事ってのは結構 酸素を使う動作であったりするしなおかつ食べてる時っていうのはあの鼻で息を酸素吸うってことを普段からやってない者にとっては結構 苦しい 作業 なわけです。 食事自体が苦しい酸素不足になって呼吸困難になる作業であったりするわけです。
そんなせいで食べるのも少しになっていく。 なおかつ 呼吸困難が起こるでその繰り返して どんどんと 痩せていくわけですね。 体重が49kgとか50kgをどんどん 切り出してきて それで まあ 入院した時は46kgとかそのぐらい 46.5kg 記録とかまあそれぐらい行ってもう栄養失調状態になってわけです。入退院を繰り返して この1月に3回目の 入院することになったわけですけども その時はもう自宅で在宅酸素療法を行い始めたばっかりだったんですけども 、まだ前回の入院のリハビリでは復帰していなかった部分っていうのがあり、一つには 食事の時の苦しさであったりとか 体重が落ちた状態っていうのがすぐにまた元へ戻ってしまうっていうようなことがあって、この時先生は「もうそんな2週間では退院させられない」っていうことで 「一月ぐらい入院してください」 という話になったわけで1月は入院してたわけです。12月の2回目の入院時にもう食事療法を行ってたんですが、酸素療法に慣れていなかったので、すぐ体重が減ってゆくのです。
12月の入院時の食事療法では少し食欲が出てきたので、ご飯の量を増やしてもらったんですね。食事の主食であるご飯大盛りって言うと1回にご飯の量が 250g になるわけです。 で 夕食だけっていうわけにはいかず、3食ともその分量になっていくわけですね。この食事療法、最初はもう食べれなくて苦しかったんですけども、3回目の入院の時はもう完全にその栄養療法中心の入院だったわけです。
だから えーなんか入力されてませんでしたけどもまあだから 栄養療法 あの 結局 塩ビリになって問題なのはあの呼吸困難で食事ができなくなって痩せて筋力が落ちて またあの呼吸 困るのがひどくなって っていう悪循環を繰り返すっていうことなんですね だからあの1月の入院の内容っていうのはとにかく食べて リハビリで体を動かす筋トレをするっていうような感じでして、リハビリの先生は、週4日ぐらい顔出して20分ぐらいやってもらうんですけども 病院の中を歩くとかいろいろアドバイスをしてくれるわけなんですけども、あとは自分で自力で筋トレをやったり リハビリをやらなければいけないんですね。 あとは食事療法という感じで看護婦さんも私の病室にはほとんどこず、朝晩の検査とかもう朝だけ来てもう夜は来ないとかまあ 結構 ほったらかしの状態なんですね。だからまあ 健康体 っていうわけではないけども まあ 医療処置をしなきゃいけないような状況ではなくなってたわけですね。
とにかく 筋力をつけてあの呼吸を助ける筋肉をつけるそのためにも体重を増やすというのが1月の入院の内容でした だから まああの なんて言うから 3食 250g の米も あの 普通に食べれるようになって苦しくなくですね 普通に食べれるようになって体重もまあ 50kg 台に戻ってきたっていうところで退院したわけです。 退院の時に思ったのはこの分量の米を家に帰って食べるとなると 米代がどんだけいるんだっていうことですね。 250g 3食 これが4食だったらねすぐ1kgいっちゃうわけですよね。 そんなこと考えてると 米代がバカにならんというような不安を持って まあ そこでのこの令和の米騒動が起こったというわけで より 私はこのコミュに対して敏感になったというわけでした。 という感じで追記の部分は以上です
4時間前2024/09/10 火曜日 10:28
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2024年9月8日日曜日
車窓と視覚、鉄道と映像
「車窓と視覚, 鉄道と映像」という論文を以前も書き始めたんですけれど、この論文はまだはっきりとまとまっていない状態なんです。しかし、まとまってなくても思いついた時にメモらなければまた脳みその奥まったところに入り込んで行方不明になってしまうものですから絶えづ引きずり出して反芻するのです。
こんな状況の中で昨日「美術評論+」というメール便で 秋丸知貴さんという批評家の人が「セザンヌと鉄道」の論文を三部作で3回に分けて英文でアップされていて、それをざっと 読みました。車窓と視覚 の問題を セザンヌの有名なサント・ヴィクトワール山の風景画を 描いた現場を訪れて分析されているような論文です。秋丸さん自身が撮影された現地の写真や動画がいくつか 参照されています。それが現代の風景とセザンヌが描いた風景画との比較の中で示されていて、車窓のイメージが結構大きい ような感じもあったり、鉄道ができたことによって得られた視覚であるということに導かれてます。
●秋丸知貴氏の論文サイト(英文)------------
Cézanne and the Railway (1): A Transformation of Visual Perception in the 19th Centuryセザンヌと鉄道(1):19世紀における視覚の変容Cézanne and the Railway (2): The Earliest Railway Painting Among the French Impressionistsセザンヌと鉄道(2):フランス印象派の最初期の鉄道画Cézanne and the Railway (3): His Railway Subjects in Aix-en-Provenceセザンヌと鉄道(3):エクスアンプロヴァンスにおける鉄道の題材
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論文と試作品 (prototype)
作品「エレクトリック・ハート・マザー」(Electric Hart Mother)について
さて、私が車窓の視覚に興味持ったのは名古屋から大阪の実家にいつも使用する近鉄電車の車窓から見た風景で考えたことでした。ある日たまたま乗った車両の喫煙席がかなり豪華な個室が作られていまして そこの部屋が大きな車窓になっていてすごく映像体験装置的な空間であったということに驚いて、その時の体験を論文のようなメモとして書いたわけです。(注01)
鉄道と映像っていうのは以前から関心がありました。92~93年に作った作品の「エレクトリック・ハート・マザー」という大きな構造物があるんですけども これは 観客が作品を見る 正面に立てば、その観客自身が2台のビデオカメラで写されて写した映像がライブで2台のブラウン管テレビに表示され、それが見てる人の正面のに取り付けられたハープ ミラーに映る。でそのハーフミラーの内側っていうか奥というのが ダイオラマ 実際に奥行きを持ったダイオラマとして作られている風景の中に合成されるという感じなんです。2台のビデオカメラと2台のテレビブラウン チューブってのは それぞれ動いてまして、カメラは左右にパンしています。テレビのブラウン管は上下に動いてる。その機械的な仕組み、構造自体がをSL の車輪とロットを模したような仕掛けにして見せています。
イメージとしてはこうなんですけど、映像装置的に視点で見ればライブカメラによるビデオインスタレーションであるわけです。
作品の下の部分はそういった機械的な仕組みを見せているっていうことなんですけども、上の部分っていうのはイメージの世界として作っています。窓のような部分 開口部みたいな部分から見た奥は先ほど説明しましたように風景のダイオラマになっています。廃墟のような感じで一部 原爆ドームのレンガ壁を模倣しながら現実の風景の再現ではない様子も加えながら、風景を創ろうとしたのです。その風景の中には 実際 水が流れる川のようなものが作られてます。その川は正面から見た時にははっきりとは水の流れは見えないんですけども 水が流れてる音はしているのと光源によってキラキラしてるので水の流れの気配は感じれるようになっています。流れる水は下の水槽にチューブでつながって水を溜めながら またポンプで上に循環しているという構造になってます。
この上部には形が与えられていて、まあ言ってみれば風景(ダイオラマ)を覆うようにパッケージとして外観もデザインしているわけです。その形というのが子宮とそれを囲む骨盤のイメージで作られています。まあこの唐突な形状が上から見なければ形状の全体像が分からないということで、そのことがより一層この作品のわかりにくさを露呈しています。
このように外観の説明だけでも、作品「エレクトリック・ハート・マザー」(Electric Hart Mother 以後EHMと表示)は様々な切り口で作品を成立させようとした結果、要素が多くて何を言いたいのかわりにくいものになった。わかんない上に ガチャガチャ動いててなんか動いてるだけで興味は惹くんだけど、大きさもまあまあ大きいので興味は惹くんだけど何かよくわからないっていうような感じでもあったりするわけなんですね。
ここに説明していない部分では音と光(光源の調光)の要素も複雑に映像、視覚的要素と関係しあっています。
私の作品ってのは全部このプロトタイプ(試作品)で完成作というものがあるのか?という感じなんですね。この作品EHMもバージョン1から2、3という風にどんどん付け足しながら より はっきりさせていくような感じで作っていったわけです。1年ぐらいかけて バージョンアップしていったわけです。制作にはそれなりに費用もかかるわけで、その費用は制作補助金として企画展に選別されるたびに支給された制作補助金をあてて、つづけたわけです。
最初の展覧会 cool break (クール・ブレイク) 次に名古屋国際ビエンナーレ アーテック アペルト展 (名古屋市美術館、名古屋科学館)ふくいビデオナーレ(福井県美術館)そのあとキリンビールのアワードに出して受賞昨展示でキリンプラザ大阪と横浜、キリン生麦工場のキリンビアビレッジで展示しました。制作展示補助金だけでは費用が足らないので持ち出しっていうか 自分がサラリーマンで働いた給料 つぎ込んで作ってたわけですね。
「セザンヌと鉄道」 という 論文を読んでいて 自分の まとめようとしていた論文と関連ありそうであり、それを反映した作品が本当は何を言わんとしていたかをはっきりと言葉としたかった。20年ぐらい経てば 何をやりたかったのがっていうのが時間の距離ができるということで対象が逆照射されて以前よりはっきりと見えてくるわけですね。まあ自分の頭の中なんですが。逆照射されるっていう事ですね。 だから今これをもう1回はっきりと言語化しようと思い立ったわけです。
自作品 EHM 上部のイメージと仕組み
上部はそのイメージの世界って言いましたけども 外観はそういった人体の生物学的な有機的な形状を持った部分。内部にはジオラマがある だからそれは絵画の問題でもあるわけです。 絵画の奥行きの問題が最初にあり、その部分が発展した装置 というふうに見ることもできます。ですから彫刻作品を作ろうというよりも絵画の構造をもったっていうか、その絵画の構造 奥行き の構造っていうのを見えるようにするために作ろうと思った実験装置的なものなんです。それがたまたま 見え方としては 動く彫刻 キネティック・アートのようなものにも見えたというだけです。 ですからアーテックの時のカタログに作品ジャンルを書くところがあったんですけども 私はこれを映像装置というふうにも書けなかったし 彫刻でもないし結果 構造物 と、とりあえずは書いたわけでしてカタログにはそういうふうに表示されています。
ライティングを行ってるんで光をあの時間にタイマーによって制御してるんで消えたりついたりもするんですけども バスの 消えてる時ってのはハーフミラーに内側からまたビデオ プロジェクションをしていていろんな映像が逆にまたそのハーフミラー上に映るようにもなってるんですね だからその部分は ジオラマが見えてる時ってのは固定して 固定視線つまり 見てる人は同じ 動かない景色を見てるということなんですけども 映像としてリフレクト表示されている観客は移動してる。 観客はそれを見てる観客はそのダイオラマの中を 移動してる映像として移動してるってのが ミックスされてるが見るっていう 構造になってます。
話が 「セザンヌと鉄道 車窓と視覚」っていうのとちょっと離れますけども そういったことを考えていたってことですね。 だから自分の作品の中ではそういったことを考えていたということです。この続きはまた別稿で続けます。
鉄道と映像体験
19世紀 産業革命で鉄道ができて 移動の制限がすごくなくなりました。人々はあちこちに出かけることが自由になったっていうことですね。そしてそんな新しい環境の中で移動中の風景を見る。視覚体験が大きく変わるって言うことなんですね。
だから僕はいつも体験してた 近鉄特急のスピードとその当時のスピードって全然違うわけなんですけども 今はもう矢のように風景が飛んでいくわけですけども、すごく近い部分 なんですね近景、中景、遠景 という3つの奥行きから見れば近い部分ってのはすごく
ONE ということで また 中断してしまいましたか ということもあります
セザンヌが鉄道で車窓の風景を見てた頃 1845年の SL の最高速度は時速 64km だったそうですね。今の自動車で市街地の普通道路を走るスピードです。新幹線や特急列車ほど速くないわけで 風景は意外と見やすかったかなと思います。 近景もそこまで流れていかなかったのかな とか思います。
もう一つ セザンヌのサント・ビクトワール山の絵で思うことっていうのは、アーチ型の鉄道の橋ですね。 かなり長いアーチ型の鉄道の橋が描かれてるんですけども そのアーチ型の橋が あの レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザの向かって右側の遠景に描かれてるアーチ橋を思わせてなんかすごく興味深いなあと思うわけですね。 モナ・リザ の風景の話ですけども モナリザの左肩にかかってる布のショールの襞を陰影を表してるんですけどもそのひだの線が円弧を描いてそのまま遠景のアーチ橋がる。あの視線がその橋に誘導され遠景に抜けてゆく。アーチの橋は遠景と近景をつなぐような 効果があるわけです。
セザンヌの場合は近景に人物はいなくて、近景に松の木などがあるのですが全部風景になってる。遠景、中景、近景っていうのが 絵の中ですでに筆触ととぎれとぎれの線、タッチに還元されたシミとして対象は描かれています。絵画空間はすごく 平面的に浅い 奥行き 空間になってる ていうことが ダ・ヴィンチの絵画とは違う 奥行き 構造になってます。 その中で2つとも そのアーチ橋が 果たしてるなんか 効果っていうのはちょっと興味深く持って見てしまったっていうことが この論文を読んで 気づいた部分でした。
以上
2024/09/10 火曜日 09:33 ボイス入力
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(注01) note 131214 / @ smoking room 2013年12月18日
note 131216 / from the train window 2013年12月18日
day #21285: 160414 / 遠近法と移動スピード 2016年4月19日
passengers sight/ test 01: Matsushige koumon 2016年8月16日
about my work: Kinetic structure 2016年10月8日
「古い3D」と「新しい3D」(その1) 2021年11月7日
2024年8月15日木曜日
「夫人Aを見る観者とそれを視る監者」
奇跡的なⅠ枚が撮れた。
夫人像Aを見る観者とそれを視る監視者。
「夫人Aを見る観者とそれを視る監者」2024 Apple ipod touch (松本竣介<街>と昭和モダン 碧南市藤井達吉現代美術館にて) |
何が奇跡的かというと、三者の視線と大きさが絶妙な構図に収まり、なによりもこの一枚の写真で自身がかつて大掛かりな構造物とインスタレーションで行おうとしていた意図が示された謎解きのような画像であるということだ。
(松本竣介<街>と昭和モダン 碧南市藤井達吉現代美術館にて) |
対象と向き合う観る者が対象と一緒に映り、その状況を他の見る者が見ている。
こういった環境を作品の作用空間として始めたのが1991年の秋以降のことだった。その時期がなぜ特定できるかと言えば、ちょうどその頃に山本圭吾先生のアーテック '91出品作のビデオインスタレーション「地の呼吸」の外観イメージを伏見の砂糖会館3階で制作し手伝ったこと、その後92年5月の2回目の個展の作品を映像装置を組み込んだものにしようと構想して取り掛かっていたことによる。そして、その実験的な作品とはちょうど先日破棄したばかりの作品だ。
論理的思考に沿って制作を行うことが苦手な者にとって、なぜそのような形を成す作品に至ったかや制作意図などを明解に言語化することは難しい。しかし三十数年たてば過去というものは遠くなることで焦点を結び対象としてはっきりピントが合ってくる。その当時ぼんやりしていた幾多のことが明快な言語として時に降りてくる。改めて、その詳細については別稿しようと思う。今回はそのとっかかりがたまたま見に行った 松本竣介<街>と昭和モダン(碧南市藤井達吉現代美術館)で撮影した写真によって顕在化したことに驚いたのだった。
青春美術
松本竣介の絵を初めて図版で見たのは中学校だったか高校だったかの国語の教科書だったと思う。分厚い教科書の薄い表紙を開けるといつも赤茶っぽい「画家の像」の艶のあるカラー図版が目に飛び込んできた。どういう経緯で教科書の初めに掲載されていたかは推測するしかないが、その絵は1941年8月作であることなど今になって知れば同年の『みずゑ』4月号(437号)に発表した「生きてゐる画家」で軍部による美術への干渉に抗議したことと関係しているのかとみることもできる。それとも仕事をしていたという育英社との関係によるのだろうか。あるいは自身がすっかり忘れているが教科書の中に松本竣介が書いた文筆があったのかも知れない。などと当時、全然意識していなかったことや思い出すこともなかった絵のことを思い出し、意外と思春期の頃より頻繁に見ていたことに我ながら驚いた。
「画家の像」は1941年8月作で28回二科展に出品されたP100号の板に描いた油彩で29歳頃の作品である。その絵は今回の出開帳には来ていないが、翌1942年作の絵が数点展示されていた。
松本竣介の絵は学生時代に東京で見たり、作品集で頻繁に見ていたが、当時、フジタやキスリングとの比較で見たことはあまりなかった。今回見た模造紙に鉛筆で描かれた風景やこの写真の婦人像Aは確かにフジタの影響を見ることもできるし、今回特別出品された「黒いコート」もキスリングを思わせるし、風景画はユトリロを連想させるかもしれない。しかしエコールドパリ、池袋モンパルナスといった日本でのロマンチックな言葉が示すような弱さは竣介の絵には見られない。
頭部の小さい構図と色彩がキスリングを思わせるが、キスリングのようにロマンチックでない。 |
2024年8月4日日曜日
2024年7月28日日曜日
240728 洞
fb詠み人知らずコメント
つきの さちこ
こんにちは,Hashimoto様
部屋の外で撮った写真を見たのですが、とても感動しました。どこにいても自然の美しさを捉えることを楽しんでくださいね。それを見た人の注目を集めるような景色を作るために、何をしたのか教えていただけますか❓
橋本 公成
大昔に景色を創ろうとしたことがありました。しかしそれは枯れ、廃墟の模型になりました。そう、三十数年前この場所を借り始めた頃のことです。
そしてこの窓の風景は何もしなかった結果です。窓の横にある換気扇の隙間から侵入した植物は、再び光を求め体をよじって自力でガラス戸の隙間をこじ開け太い幹の木に成長してガラスを割りました。幹は窓外に出て涼しげに葉を茂らせています。
自然は恐ろしいのですよ。家を飲み込んでゆくのです。何もしなければ。
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