2011年5月19日木曜日

「ほっとけない」をほっとけない!

美術品の価値、テクノロジーアートの価値 ~「砂漠の泉」についてのテレビ番組から見える問題点
蔡文穎 Tsai Wen-Ying 作 cybernetic sculpture "DESERT SPRING" (1990-91) をめぐるメモ
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1991年 1/17 イラク空爆に始まる多国籍軍の作戦名「DESART STORM(砂漠の嵐)」を連想させるタイトルを持つ作品「砂漠の泉」。
この作品が展示されたアーテック'91のシンポジウムには当時NHKニュース番組の顔になっていた軍事評論家の江畑謙介氏らをパネラーとして招き情報戦争や監視社会とテクノロジーなどについて議論された。時まさに湾岸戦争の開始とバブル崩壊の1991年。

名古屋国際ビエンナーレアーテック'91国際展部門にノミネートされた山本圭吾氏のビデオインスタレーションの制作を手伝い連日、伏見の砂糖会館3Fの仮仕事場に約一月通って廃墟の壁を制作していた私は、市美でのインスタレーション設置時に同じ会場で設置作業中の蔡氏作品の設置状況も見ることができた。赤外線センサーによってモーターがウェーブしたパイプを回転させたり、パイプから落ちる水、水滴が暗闇の中でストロボライトの点滅による残像効果によりオーディエンスとのインタラクションの中で生き物のように変化する作品。蔡氏はその反応スピードや水の落下状況、センサーの感度等の調整を行っていたと記憶する。市美での搬入展示作業は1991年10月2日~9日。

この日より19年目の2010年10月6日 5ヶ月前に続き再び「朝ズバッ!」 の「ほっとけない」コーナーで取り上げられた「砂漠の泉」。
1991年アーテック会場の名古屋市美術館に展示され、国際展示部門でグランプリを受賞した5x5x5m の展示空間を必要とするこの作品についてテレビ番組によって取りざたされた点は、市民の税金によって購入され、今の市民感覚からかけ離れた7,000万円という高価な買い物が市民に知らされることなくぞんざいに地下駐車場に放置してあること。番組中ではあたかも税金によって購入された高価な粗大ゴミのようにと言いたげな印象を見る者に与える。

名古屋市が7,416万円で17年前購入したこの作品が白鳥の名古屋国際会議場駐車場に保管されており、2010年6月に「朝ズバッ!」で取り上げられた名古屋市はあいちトリエンナーレで展示公開をこころみようと設置に向けた会場探しを始めたという。会場候補には愛知県芸術文化センターなどが候補になったらしいが、しかしトリエンナーレからの結論は美術品でないから展示できないというもの。と番組では紹介される。と記憶している。
氏の作品と同じように展示が終わった作品をバラバラにプレハブの倉庫にぞんざいに保管している自分にとって、この番組中で取りざたされている蔡氏の作品は何か惨めな姿にさらされて、我が事のように身につまされる出来事だった。*1

なによりも番組中で紹介された「美術品として認めがたい」という言葉が引っかかる。
作品形態によるものか、取り扱いによるものか、釈然としないテクノロジーアートに対する眼差し。
美術作品(に限らずあらゆる成果物)は制作者の手を離れて一人歩きしてゆくものだが、美術品の価値は民主的に決められなければならないというものでもない。
美術品の価値は時代によって変動し、また、美術品の価値は貨幣価値のみに収束するものでもない。
市の行った行為に対する「ほっとけない」が作品の価値に対する「ほっとけない」に見えるような印象。テレビとはこういうものだ。
行政の行為の価値が美術品や作者の価値にすり替わるような印象を払拭するために番組から見える問題点を整理。

■想起される事柄---------------
1)テクノロジーアートは、その素材、制作に用いられるものが工業製品のごとくであり業者発注制作も多く、いわゆる美術品のそれとは印象が異なること?
2)インスタレーション作品が展示されないときのバラバラに保管されている状態がいわゆる空調管理された美術品の保管とことなること?
3)市民感情に訴える市民感覚からくるその値段とそれが税金によって購入されたということ。
4)高額な金額によって購入されながら17年間ほったらかしに駐車場で粗大ごみのように保管されていたこと。
5)番組中で美術商によって査定された価値が時価100万円くらいというもの。
6)現在組み立てるだけで数百万かかること。
7)美術商が扱う美術品とテクノロジーアートという形態。作品を維持させるには機材を維持させなければならない。

■トリエンナーレ側から美術品として認められなかった疑問を推測---------------
1)トリエンナーレの趣旨と異なるため展示できない?(朝ズバッ!に取り上げられたから市が公開展示しようとしたような印象がぬぐえない)
2)市のぞんざいな保管方法は美術品としてのそれではないから?
3)20年前の作品だから現代美術でない?
4)そもそもテクノロジーアートは美術品として認められない?

■市民感覚と美術品の価値
1)税金で購入されて17年間公開もされず放置されたこと。
2)購入価格の適正さとその判断基準。

■テクノロジーアートの価値
テクノロジーアートに用いられる素材は制作時当時の先端技術、機材でありつつも越年劣化が著しく素材の耐久性と同時に、技術の耐久性という問題も露呈させる。が、それはいわゆる絵画や彫刻といった伝統的な美術品と異なることか。
動かそうとすると当時の技術まで再現せねばならないし電気エネルギーを必要としなければならない。

伊勢神宮の20年ごとの遷宮のように技術、作法、素材としての自然等の伝承が「装置」を生き続けさせる。

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●もう一つの「泉」
既製品の便器を用途としての便器から切り離し美術館(美術という文脈)にインスタレート(設置)された時点で美術品になったデュシャンの「泉」

●ゴミと美術品
美術品といえば、ゴミのようなものもある。というよりゴミをある状態で設置することでアートになる作品がある。
そもそも作品を成り立たせている部品としての素材がゴミ(のよう)であれ、そうでなくあれ、誰かが「芸術といえば芸術である」。
誰かが7000万円といえば、それが7000万円の価値になるのがアートマーケット。


誰かにとってのゴミは誰かにとっての命に匹敵する大事なものである。
震災被害者の瓦礫は片付けようとする人にとってごみであるかもしれないが、その元の所有者にとってはごみではなく個人の大切な命に匹敵する価値(生のよりどころ)であるように。

to be continue ....

*1  幸いなことに(不幸なことに?)私のアーテックアペルト展出品作品は名古屋市に税金によって購入されることなどなく、保管のために建てられた自身のプレハブ小屋にほこりまみれになり20年近く経過している。

そもそも市は誰からこの作品を購入した?

<2010/10/06, 2011/05/19>