2011年10月30日日曜日

「がまん」の絵

横位置の小さな画面の左はしに、書のように黒い縦書きでエイッ!ヤッ!と描かれた「がまん」の文字。
その文字に引き込まれる絵を見る者の視線は、おぼろげなイメージが何を表しているか確かめるように文字以外の部分をさまよう。

フレンチブルドッグの頭部を正面から大きくとらえ?
そのおでこあたりに丸いオレンジ色のみかんがペッタリと貼りついたイメージ?
はっきりしていない輪郭だがたぶんそういうイメージだったと思う。
イメージはたよりなげだが筆さばきはのびやかだ。

みかんをねだる愛犬がお預けをくらっている場面?
私は絵づらをそういう風に見たのであるが、その時の作者の心情は異なるやも知れぬ。
もしかしたら作者が何者かから「がまん」を強いられたそのうさを犬に投影したのかも知れぬ。
どちらにせよ、その表現の自由さと、「がまん」のギャップがおもしろい。
ユーモアと頑固さ。

作者からがまんを強いられる犬。
作者が何かから強いられるがまん。
自身の少年期に強いられたがまんの記憶。
親から受けたがまんの美徳。
大人になった自身が我が子に強いているがまん。
がまんを強いられる日常。
がまんの美徳を世界から評価される国民。

がまん、がまん、がまん、がまん、、、、

さまざまな「がまん」をめぐる物語がこの絵を通して現れ、
3.11以後の国民心情に訴えかける徳とあいまって、
今のこの国の気分を日常からとらえた表現に見えてくる。
それは見るほうの勝手な思い込みではあるのだが。


この絵の作者は杉山征、14才。(たぶん14才。)
まだ14才。いや、もう14才だ。
14才は気質、人格が完成される時期だ。
これは14才だからできる表現か? 
確かにそれは14才だからできる表現でもある。

この絵が展示されていたのは美術館のガラスケース内。芸術家の両親との合作インスタレーションとして展示されていた。マンガやドローイング、陶器のオブジェといっしょに部屋の片隅に散らばったような状態で展示されている展示品のひとつ。
それは両親によって、両親のシナリオ、ストーリーの部品として展示されただけかも知れぬ。
両親にひきづられて発表に参加しただけかも知れぬ。
自らの意志で発表しようとしてしていないものは「美術作品」として語られてはならぬ。というのが美術界の前提だ。

はたまた、技巧の凝らされた良くできた作品、制作の動機付けやルール、コンセプトが苦行のように窮屈な感じがした作品と同時に展示されていたため、私の気持ちがより開放感とユーモア、笑いを欲し、この作品に反応しただけかも知れぬ。
が、それでも私はこの絵が好きだった。

彼の展示品には、コンセプトや制作の動機付け、技巧以前に、14才の言い分や、14才の日常の現実がストレートに表れている。制作中の熱中と、その時の自由が感じられる。
そしてそれは、同世代の彼の日常に向けて制作されたやも知れぬが、あるいはまったく自身のためだけの感情の発露であったかもしれないが、同時代に生きている世代の異なる私に和みをもたらした。
あるいは、死んでしまった自身の14才という時に対する郷愁か。
手法、技巧やコンセプト、使用するメディアの選択以前に、まず「言いたいことがある」「描きたいことがある」というしあわせ。
表現とはそういうものだ。



同じ屋根の下に暮らしていてもそれぞれ異なる記憶。
同じ出来事に直面し、同じ時間、同じ空間をいっしょに生活していても異なる個の眼差し、眼差し、眼差し。
そんなあたりまえのことをあらためて感じる家族3人の展覧会の中で印象深かった「がまん」の絵。

意味不明だが「ぶつだんにしまっておこう」という落ちの言葉がやけに引っかかるマンガも気になる。

2011/10/22 清須にて