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2024年9月20日金曜日

Re: 箱男




70年代の 見る/見られる の関係とか 匿名性の自由 とか、そんなことが現実に進行しているスピードの中で追い越され、

戸田君らと見に行く予定が、伏見まで夕方出かけるのは少々難しくなり、昨日ラストの三好movicへ滑り込みで行ってきました。石井監督作品を映画館で見るのは何と学生時代に小松の映画館まで行ってみた「高校大パニック」以来というなんと46年ぶり。やはり同じ頃よく読んだ安倍公房の作品「箱男」

  匿名性 ということについて ですけども まああのこの原作本が書かれたのが1973年 なんですね。 だから今から もう51年前 なんでこの映画が作られた 年とか考えても まあ 50年ぐらい経ってるわけですね。 安部公房 さんの 小説も学生の頃からよく読みました。 実存とか 存在とかその個人を主に考えると 不条理性 というのが浮き上がってくるわけなんですけども 、現代 その50年経った今 僕が見ている世界っていうのはまあ今この SNS で誰もがネットの海に 自分の言葉で世の中のことを発信することができるようになり、それがAI の肥やしになるっていうか。人工知能 AI の拠り所となる。集合知ですね。
 個人の個人個人の複数のものが集まってできた知識っていうのが集合の知識。人類としての知識を形作っていくというのが 現実的に今もう進行中で 見えるようになってるというか、普通にそういった方法を使用して生きている世の中になっている。というかそもそも知識も個人が作ったものではないですね。
50年前に安部公房さんがテーマとしてなかったかもしれない評論家とかその読む人が逆に あの個人の不条理とかそういったことを について 感じていた あれは見る見られるという関係性とかその 気持ち悪さとか ということを ということに視点が置かれてたわけなんですけども 今回 その男 の映画を見て 感じたのはまあそういったことがあの今映画で展開されるというのが まああのすごく ちょっともう 時代遅れかな。 特にこの最後の ところなんかは 最後とかあのエンドロールとかで流れてる 携帯の音とか まあちょっと 古臭いかな と特に最後のセリフ 、主人公の永瀬さんさんが最後 叫ぶ ちょっと前に映る映像 映画館で見てる観客 新鮮味はあまり感じなかったところでもあるんですね。

 面白かった のは意外と 僕は箱の中から覗くっていうのが カメラオブスクラというかカメラの原型ですね。 ピンホールカメラ 箱に穴を開けて箱の内側に外の世界を映す という そのメタファー 的な感じであったりとか。 箱の中に人が入るって言うの とか合体して人間の身体のメタファー 的な感じで箱が扱われてるような感じがして そういうところが 逆に 面白かったですね。
オープニングの映像が 森山大道さんみたいなモノクロの荒れた粒子の画像であったりとか、箱の中が暗室になってるとか。90年代初頭発売のコンタックスT2で撮影してるとか。箱の中が赤い暗室ランプで、撮影した写真のネガをその箱の中で現像してるということなど、人ひとり隠れるのがやっとという大きさなのにその内部空間の容量の大きさなど、映画ならではの面白かったところです。 そんなところかな。意外とカメラ について を考えるようなところもあって面白かった。
箱男がこう 覗き見してるという 覗き見 という こと に関しては 江戸川乱歩の 「人間椅子」とかをやっぱり 思い出させるような そういったなんか フェティシズム的な あの エロチシズム の 雰囲気を感じる ところ また 谷崎潤一郎とかそういったものと 漢字 共通の 感覚を覚える ようなところも ありました それは映画に映画にしたから そうなったのか 安倍公房さんの原作 この原作は僕も呼んだか 読んでないか ちょっと記憶がすごく 曖昧で もう1回 音を買って読もうと思いますけども そんな感じですかね というような感じでした 
「見る/見られる」って言うことについては 僕も92年頃 見る 見られるという関係を主題にしたわけじゃないんですけども 結果的にそういった作品 ライブカメラでモニターに移してそれを 構造物の 一部と合体させて観客 自身が自分もひっくるめた映像を見るというような作品も作ってたので、見る 見られるという関係についても改めてこの作品の論評 で出てくるひとつのテーマでまあ自分の作品についても改めて気づいたという感じです 
以上

> ----- 引用元メッセージ -----
> From:"kiminari"  <kimikimi993312@yahoo.co.jp>
> To:"橋本公成" <kimikimi993312@yahoo.co.jp>
> 日時:2024/09/20 金 00:06
> 件名:箱男
 Re: 箱男

30分前2024/09/20 金曜日 00:14

当時の不気味さが、今はその環境が当たり前になって、不気味さが異なる次元に行っている。というか、不気味でも何でもないようになってる日常こそが不気味。
さっきの集合知の話ですね AI の時代におけるこの集合知ですね このことについても気づいたのはまあ 父親が12年前 いなくなったんですけども その最後の3ヶ月間 まああの 僕もですし 弟もです しまああの母親はまあ つきっきりで病室に泊まり込んだりしてまあ 父との最後の3ヶ月をそれぞれ 過ごしたわけですね その 僕もあの病室に泊まって夜中に 航空ゲタンとかの処理を したりとか まあ 初めて そういったこともやりました それぞれのそういったあの 日々をあのうちの家ってのはみんなに気を書くのが 僕もまあ ずっと 今まで続いてることといえば まあ日記を書く 小さい頃からまあ 途切れずに 続いてるって事は日記 なんですね それでまあその時に感じたのはその父のマイツ 終わるかもしれない 最後の命の 終わる頃 それぞれ まあ 3名がそれぞれの日記を書いてるわけですね 思ったのがまあ 1つの出来事に対してこう 3人がそれぞれの視点で 言語化しているということにまあ 非常に 興味深い ことだなと思ったわけです 2 曲書いてたりもしながら 時々話したりもするんですけども いずれそう の記憶 ってのは その 僕の記憶とか弟の記憶が僕のと混ざったりして 書き換えられたりしていくわけですね そんな風に その1つの出来事 出来事っていうのは 一つなんですけども それを 感じてるのは3名にいた看護婦さんとかも 記憶していればそういった 別の感覚を持って その出来事に接してるわけですね だけどそれぞれのあの 出来事に対する思いってのは あの 曖昧になったり 混ざったりして残る残っていくことができた記憶だけが残っていく という それがまあ 1つの 歴史というものもそうなんだろうというようなことですね だからこの歴史で真実はこうだったとか言いつつも まあ 小説 いろいろあるわけですね 遺跡が出てきたり 後々の時代に対する測定方法が科学的に発見されたりまあそういったこともあるわけなんですけども 結局 残った 記憶が歴史を作って いく それが 正しい出来事 正しく そういうことが起こったという確定した出来事 ではないかもしれない 残って編集されたものが 歴史 になっていく 若い頃は そういったことに反発してたわけですね なんか それは嘘の話 あると しかし今も こうしよう 迎える年になってくると なんかその辺のお考えは変わってきて 残ったものが歴史になっていく っていう 風な考えに変わってきたわけですね 集合地によって人工知能が答えを導き出すような 世の中と 非常に近しい そういった 便利な ことが起こったからそう思ってるのか いや そうじゃなくて 昔から結局そういうことだったということなのかまあそんなことも一緒に考えたわけです つまり 映画の中で 店の箱男とか ただ みんな そのノートを書いてるわけですね 人間が本物の箱男かとか店の箱男とか それがどんどん入れ替わっても ごちゃごちゃになっていくんですけども 結局そのテキストは誰が書いたものなのかということだったり 本当の箱男とは 誰なのかとかそんなことじゃないんですね 結局は民衆 大衆の多数が全て開く男であり 匿名であり無名である そういったものの中で 書かれて ごっちゃになって残っていったテキストが 歴史であるみたいなことも まあ 感じた映画でもあります。 
追記 終わり

 石井監督と言うと僕の1つ上の歳なんですけども 学生時代に作った映画 1976年製作の「高校大パニック」78年に日活から 共同監督で リメイク されて これを見に行ったと思うんですけども、それ以来ですね。50年近くぶりに石井監督の映画を映画館で見た感想です。


2021年10月31日日曜日

「古い3D」と「新しい3D」(その0)

今日は、白地に黒一色によるドローイングをメインにしたインスタレーションを二つ見た。


クレメンス メッツラーさんによる「運河に描く」(中川運河)と、伊藤千帆さん、小川友美さんによる交換制作「hokakara」(ガルリ ラベ)だ。


クレメンス メッツラー「運河に描く」ビューポイントから見た風景(中川運河)

ビューポイントが設定されている

クレメンス メッツラーさんは名刺にはイラストレーションと明記されていることからも「イラストレーション」を表現のフィールドとして活躍されてる、一方、中川運河に関するいくつかのプロジェクトにもその始まりの段階から精力的にかかわりのある活動をされている。

数年前はコンピュータによって描き起された中川運河が活発に機能していた時代の水際風景を綿密な取材と現在の風景や写真を合成した写真イラストレーションとしてプリントアウトして展示されていた。

その時の印象は平面的なイラストレーションという印象である。

画面が垂直水平にカチッと構成され、斜めの線が、倉庫群の屋根やクレーンなどに見られるものの、奥行きを表現するために用いられているのではなく、あくまで四角いフレームに平行な面のレイヤーが破綻することなく目に届くという意味で画面分割として用いられ、圧倒的な奥行き感を強調するといった消失点を持たないすごく浅い画面の印象だった。

そして今回のインスタレーションもまた、圧倒的な平面性を示していた。


今回は古い時代の中川運河の写真などから取材した労働者や船がペン画によるイラストレーションで制作され、その線画を現実風景のスケールに拡大トレースされ(小学校児童参加によるプロジェクトとして実施されたらしい)、時を超えた現代の風景に合成されるといったインスタレーションである。

プロジェクト系のアート表現、サイトスペシフィックインスタレーションなど近年のアート状況のお約束はすべて盛り込まれているが、私が気になったのはその作品がビューポイントを設定していることである。そのことにおいて、この展示は絵画であるということだ。というか古くから現在まで続く絵画の根本的な問題を扱ったものであることを示している。

指定されたビューポイントから見る時、現実の3次元空間の風景が、イラストレーションの線画によって一層強調され、圧倒的な平面性を示していた。僕が見た日がピーカンに晴れた日であり、風もなく運河の水面が鏡面のように倉庫街の風景を映していたことも影響するかもしれないが、現実風景を見るという体験が、美術館の壁の前に立ち絵画を鑑賞しているような奇妙な感覚に襲われたのである。


私たちは街の中に仕組まれるアート作品を見る時、現実空間に介在する異物としてそれを見る癖がついてしまったが、今回のメッツラーさんの作品は、本人の意図はわからないが、いみじくも街の風景の中で「絵画の構造を見ろ!」というようなメッセージをその作品は発していたと感じたのである。









XYZ軸空間に投げ込まれる

まずこの展示のDMが届いて詳細情報とガラス張りのギャラリーウインドウからの展示写真を見たときに、鉄のような硬質な黒く塗装された線材と同じく黒く塗装された木の枝による立体物を二人の作家が交換制作したものかと想像したのであるが、現実の空間に入るとその思い込みは裏切られる。

白い壁、天井ガラス張りの窓、ショウウインドウのような空間。

伊藤さんは近年、インスタレーションを制作するとき展示空間をCADによるシュミレーションで綿密に検討していると聞く。今回の交換制作も、CADによるシュミレーションで小川さんとの「交換」で展示が検討されたとのこと。




展覧会DM


シュミレーションと現実空間

シュミレーションを仮想空間と呼んでもよいが、メタが提示しているアバターによる仮想空間での体験を体験するような、実際の現実空間がモニター中のXYZ箱に投げ込まれたような錯覚を覚える。それはあくまでCADによるシュミレーションが行われた空間であると知っているからにすぎないが。

白い空間で黒い線によるテープドローイングや黒く塗装された枝や角材は、それ自身の奥行やボリュームを持たないように感じられる。


シュミレーションは現実を体験するためのメタ空間である。

メッツラーさんの現実空間が絵画平面に置き換わったような体験を強いているのに対し、ここでは絵画的な要素としての線によって
そして二つの作品体験を構成しているのは白地に黒い線であるということに共通点がある。


(途中ミカン、つづく)




2019年2月11日月曜日

190209  蜘蛛の糸 @TOYOTA



喜楽亭にて(この画像は展示作品ではありません)



メッセンジャーで案内をいただいたので小島久弥さんの作品を見に豊田の喜楽亭に行く。
絶えず観客が訪れる会場でお茶会の主人のごとく解説を行なう小島さんと、他の観客の後について三つの道行きを順に拝見した。それはあたかも舞台の解説を聞きながら早送りで演劇を見ているような体験である。場にあるすべてのものが、意味付けられ、物語の構成要素にかっちりと納まっていることに多少の息苦しさと、薄暗い中で繊細な展示物を壊してしまわぬよう緊張を強いられる空間は、観客に所作を強いるストレスの高い空間だ。しかしこのストレスは見るということに注力させる鑑賞の所作でもある。が、動員だけを目的にしたフェスティバルでは落ち着かない。緊張を緩めて、この作品を体験するには1~2時間くらいゆっくりとした時間が必要だ。1~2時間、それはあたかも演劇や映画の所要時間である。演劇では観客はアクターの出来事を追うが、この場での主人公は移り行く時間そのものなのだから。しかし、と、再び思い直すと美術館、劇場的な鑑賞方法でない、観客と作品が地続きな空間で、いろりを囲んで親密に談笑する場を主人は求めていたのかもしれない。


小島さんの作品というと、僕はいつも「ソーダ水の中を、貨物船が通る」という、荒井由実の『海を見ていた午後』の一節を思い出すのだが、それは99年の名古屋港倉庫での展示の印象が時間の経過の中で書き換えられた記憶によるのだろう。
僕が小島さんの作品を見るのは今回で三度めで、94年「ポジション」展:名古屋市美術館、99年、アートポート「メディアセレクト」名古屋港20号倉庫、同年同場所での演劇?「LETHE」で、いずれも水の循環の様態を見せるという一貫したテーマがあったが、94年と99年では大きく変化したように見える。よりポエティックに作品の様相が変化したように感じている。今回も循環の様態がテーマで、水をモチーフにしているが実際の水を素材として使用していない。それは文化財である場の制約によるものだろうか?それとも見立てをより進化させた結果であろうか?

小島さんはギャラリーの運営でのキュレーションの仕事や、小島製作所の仕事も行っておられる。このグループ展全体のキュレーターは天野一夫氏だが、喜楽亭の小島久弥の作品にはもう一人のキュレーター小島久弥が舞台監督のように存在している。
ホームページを見ると、今回の三つの場の作品の二つは過去に発表されたものが2019年の社会情勢の中でバージョンアップされ再編集されているのがわかる。数年前に発表されたという喜楽亭の作品と今回の一の間で異なっている部分は土石流に見立てた日焼けした畳の上に展開されたダイオラマと蜘蛛の糸である。


循環に従って、最初の間に戻って床の間を見ると、水害被災現場で救出用のヘリコプターから垂れ下がって被災者を救出するごとく見えていた「蜘蛛の糸」が、不気味な様相を醸し出して見えてくる。
そして、二の間の天井から落ちる雨漏りの雫は、蜘蛛の糸を切った釈迦が悲しんだ涙のように見えてくる。三の間で溜まった水は、極楽の蓮池越しに釈迦が覗き見た地獄か!


小島久弥さん作品の眼より外を見る

絞りエレメントは意外と大きいパネル状で窓枠にはめ込まれている





遠くから喜楽亭を見る

















蜘蛛の糸(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E3%81%AE%E7%B3%B8


2016年4月26日火曜日

ラテックスの木目 ~2016年3月のわすれがたみ 「信用」~

伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より(部分)


ラテックスと木目の効いた板材というと、僕などは彦坂尚嘉氏の「フロアーイベント」や「史律によるプラクティス」などをすぐ連想する世代だが。
しかし、この作品の伊藤千帆さんは立体、サイトスペシフィックインスタレーションを表現の軸にしていて、絵画的問題意識としての「表面」としてのラテックス使用とは異なるようだ。
僕が初めて大学で彼女に出会った20年近く前からラテックスと木を彼女はずっと使用している。
近年の発表で見られる木(板)をラテックスで転写する技術は職人芸の域に近づいている。
細胞膜のアナロジーのようなものとして使用している。とかつて本人から聞いた気がする。
自然光の入らない地下室のようなギャラリー空間での個展が多かった作品は、今回、さんさんと日を浴びて明快にそれぞれの要素関係を主張しているように見える。
板から転写されたラテックスの皮はトリッキーな表現ではあるが、それが目的ではないように見える。

伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より(部分)


FB友達、沖さんからのリンクの説明ビデオを見ていて、そこに出てくる「鋳型」「転写」という概念がこの作品を再び連想させた。

「DNA二本鎖を切断してゲノム配列の任意の場所を削除、置換、挿入することができる新しい遺伝子改変技術 特集:CRISPR-Cas9 とは」
http://www.cosmobio.co.jp/product/detail/crispr-cas.asp?entry_id=14354




伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より(部分)


またこんな情報もFBから入ってきた。

「透明なベニヤ板」
http://wired.jp/2016/04/01/transparent-wood/




伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より(部分)

一面ガラスのギャラリー空間は、さんさんと日が差し込み、枝、ラテックス、板といったすべての有機物の素材に変化を与え続け静止していない。
とりわけコンサバトリーな空間で、ラテックスのにおいは強烈でストレス120だ。頭痛!
ラテックスの半透明は床に置かれた製材された板から立ち上がったようにも見えるし、ギャラリーの特徴ある曲面の壁から剥がされたように呼応しているようにも見える。
この場所でしかできない素材相互間の関係を見せようとしている構成のようだ。
そういった意味で彼女の作品はサイトスペシフィックなインスタレーションでもある。



伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より(部分)

サイトスペシフィックインスタレーションについて考えていたらこんな記事に出会った。
「美術作品を残すということ 計測する作家・毛利悠子インタビュー」
http://bitecho.me/2015/12/10_577.html
同上のFBでのドキュメント
https://www.facebook.com/d.i.p.executive.committee/


科学で重要な「再現性」。環境と作品。。。
「サイトスペシフィックインスタレーションの再現」


伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より(部分)


そして、搬出にちょっと立ち会って、インスタレーションの「仮設性」について考えていたら


FB友達の高橋さんが名古屋城木造復元へものもおす長文の意見書がアップされる。意見書はFB上で意見を求めるが、焦点が絞れない。。
https://www.facebook.com/notes/%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E5%92%8C%E7%94%9F/fb%E3%81%8A%E5%8F%8B%E9%81%94%E3%81%AE%E7%9A%86%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%B8%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E5%AE%88%E6%95%B4%E5%82%99%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E5%B0%91%E3%81%97%E6%99%82%E9%96%93%E3%82%92%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%8B%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A7%81%E3%81%AB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%92%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%A8%E5%A4%A7%E5%A4%89%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%99-%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%96%EF%BC%90%EF%BC%93%EF%BC%92%EF%BC%90-fb%E8%A8%98-%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%92%8C/745908858878569

ただ、その文中より気になるフレーズに反応

「・・・伊勢神宮20年、法隆寺1300年、・・・」


伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より(部分)


資源の少ないこの島では「スクラップ&ビルド」という経済システムを文化システムに組み込んだ。
20年ごとの遷宮(スクラップ&ビルド)で文化を伝承し木を育て国土を存続させるシステムを作った。
FB友達の粟野さんがブログに記していたように、この経済的理由に保障されたかの「スクラップ&ビルド」は、一方で文化的継承を必要とするものでもいとも簡単に壊してしまう。
戦後建築と戦後再興のシンボル的な丹下健三設計の国立競技場をいとも簡単に、あっという間に、何の躊躇もなく、暴力的破壊力でもって更地に帰す。
まるで合法的に行う、テロの遺跡破壊のようだ。
何よりそのことに対して社会的な声が大きくないという不思議。
同時に耳に残る数年前のいや~な響き、「とーきょー」
ザハ・ハディド氏がとばっちりを喰い、矢面に立たされ、命まで消耗した陰で、丹下健三の国立競技場なんて存在しなかったように忘却の彼方に追いやられる。巨大ショッピングセンターの為に造成された郊外の風景が、歴史ある街の中心にも出現し、スーパーフラットな風景に均されるように見える。



伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より


襖と障子を取っ払ってしまえば内部と外部がなくなる木と紙でできた建物。
「仮設性」はこの島国の特徴だ。
本当にそうか?今どきRCコンクリのマンションが主で、室町以降、土壁による内部空間もできたではないか。それでも紙のように食い千切る「スクラップ&ビルド」

「産業遺構」、「震災遺構」。。
生きながらえる状態が文化として残る。



「生きながらえる状態」について考えていたら、バンクシーにぶつかった。

ドキュメント映画が公開されるという、その予告編を見た。
街の壁にゲリラ的にマーキングされるバンクシーの作品(?)はサイトスペシフィックアートか? 

https://www.youtube.com/watch?v=Afi45gW5oEc

http://www.uplink.co.jp/banksydoesny/

ゲリラ的に街中や美術館にマーキングするバンクシー。
インスタグラムでマーキングを事後報告するその行為はテロリストの犯行声明に似ている。
マーキングされた作品(?)はその場所での意味と、ドキュメントな社会的事件の現場とリンクして場所的な意味付けと時代的な意味付けを内包する。(あるいは無効にする)
他人あるいは公共財産にマーキングするその行為は、資本主義的な、民主主義的な、社会での財産(=信用)についてゆさぶりをかける。
マーキングされたスラムの壁は反芸術信者たちの聖地になる。その壁を切り取って、余白や背景から切り離されたスプレイペイントは、オークションに出品され高額な値段がつく。反芸術の信者たちは切り取られた壁を元の場所に戻せと叫ぶ。
かつて、落書きやゴミが「美術館」にインスタレートされ「芸術」になった「時」があった。
今、街の中の「芸術」は背景から切り取られ「美術館」に入って、ただのスプレイペイントというガラクタになる。
無芸術のオーディエンスは「信用」の存続を信仰する。

「芸術」が「芸術」でいられる時。
ガラスコップがガラスコップでいられる時。


伊藤千帆展 「音のない風景」 ギャラリー ラウラ 2016/3/15-26 展示より 西日


ところで、僕は大学授業外の余白で彼女にアドバイスなどした記憶があるが、授業を受け持ったことはない。そのことを彼女は数年前まで(あるいは去年も)覚えていたと思う。
今回、いつものようにその話をすると、彼女は驚いてショックを隠せない。彼女は僕の授業を受けたと思っていたのだ。それもずっと以前から。。。記憶が書き換えられている。
記憶が書き換えられるのはどれくらいの年月が必要か。大学での非常勤は97年春からだから、今年でちょうど20年目。彼女に参加出品を持ちかけた企画展「瀬戸 みちの美術館」は前世紀の1998年。
彼女の表現から漂う雰囲気は当時から変わりがない。落ち着きのない僕にはできない芸当である。





2014年10月12日日曜日

141012 きそがわ日和

@ 伊藤正人+吉田知古 にょるインスタレーション空間でのスナップ


ほうじ茶のかおり、蔦の茎、ローレライ  きそがわ日和

橋本 公成さんはきそがわ日和にいます。
2014年10月12日 · 岐阜県 美濃加茂市

インスタレーション:伊藤千帆


2014年10月12日
旧大垣共立銀行の建物外壁西側に茂る蔦が壁の隙間から内部に侵入し空間を縦断するように伸び続けているこの蔦は、まぎれもなく伊藤千帆の作品の一部だろう。なぜなら彼女はそれを展示の妨げとして排除し取っ払ってしまわずに、残したのだから。鑑賞者によって踏まれ、ゴミになった葉片を箒で掃いて自然に伸び続けている茎をできるだけそのままにして見せているというその行為は利休を思わせる。(というのは大げさか)しかし、その空間を走る線の長さと量は、セルキューブのボリュームと関係を成すに十分な量である。ところでこのキューブは何か?それは左手奥にあるカラッポになった金庫空間を型取し、取り出したように見える。ー 場所: きそがわ日和



壁から床、柱へとはいまわる蔦の茎と、空っぽの金庫空間(右)




2014年10月12日 12:10 

ヒレンジャク えのき 宿木 きそがわ日和
ー 場所: 美濃太田

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3年前の今日
2011年10月12日 0:20
甘たるい 金木犀でむせぶ 我が肺


2014年5月28日水曜日

" The May Blues " Société des Artistes Indépendants BLACK TICKET @ N-mark; Nagoya  2. MAY 2014

installation view


"fountain"

installation view of "self portrait in SANSUI " 

detail of "self portrait in SANSUI "

"global library "

"media installation "

"quick response cloud art "

"SIGIRIYA rock project "




May blues ~ 五月病
あるいは、見ることについての五つの眼差し。
あるいは、メディアインスタレーション。

私たちは目の前の出来事のいったい何を見ているか。

2012年11月28日水曜日

光琳の松島


30年ぶりの再会を楽しみにしていた光琳の松島。
30年前は繰り返す曲線による波の表現がブリジットライリーのオプアートのようで目がくらんだことだけが記憶に残っているが、今回は岩にばかり目がゆく。

三つの岩の塊とその視点の違い。
明らかに左3曲と右2曲では視点が異なる。
波を隠すように金泥ではかれた左2曲上部の面は水平線の効果を与えて、左二つの岩の塊の視点を低い位置にする。
右2曲は崖の上から見下ろした遠景の岩崖で視点は高い位置にある。水平線は画面の上よりはみ出し、右上角でうねるように渦を巻く。
そして異なる視点を合体させる役目をはたす右から3番目の曲。
折れ曲がっていない図録の写真のように正面視でこの屏風を平面絵画として見ているだけだとつじつまが合わないような空間が、装置としての屏風を体感するように右端から、左端からと視点を変えて見ると、いっそうダイナミックな作用空間を現出させる。

光琳百図のモノクロの図版では岩の塊の位置によって右から左に向かってなだらかな遠近感があるような絵画的空間であるが、現物の屏風を目にすると真ん中の岩の塊が折れ曲がって見る者の方にせり出す山折の線と合体し(立体化し)一番手前にせり出している。
そして右の岩崖は谷折の線と合わさって奥へと後退する。
真ん中の岩からこちらに向かってくる遠近は見る者の視点を経由し、弧をえがくように右1曲と2曲の谷折りの線に向かって後退する。屏風が時計逆回転に回転するような錯覚にとらわれるのである。




「松島図屏風」 尾形光琳筆 6曲1隻 紙本着色 150.2 x 367.8 cm (屏風を開いた状態)
Fenollosa-Weld Collection  Photograph(C)2012 Museum of Fine Arts, Boston. all rights reserved.





2012年11月21日水曜日

Heihachiro's Ripples 03 ~平八郎の「漣」3

大阪市立近代美術館心斎橋分室に展示された「漣」は左のポストカードのように屏風を全開した状態で壁にはりつけられている。

しかし屏風は本来、畳間に少したたまれた状態で直立する。
その本来の状態でのインスタレートが平八郎の「漣」という装置とその作用空間を見る作法であるだろう。

180度に開かれた状態で見る時、それはタブローとして見る絵画である。
しかし、少したたまれた状態で畳に直立する時、中心線に向かって遠近が発生する。
開かれた時の図の奥行きは画面左上に向かってなだらかに後退するが、たたまれた時の奥行きは中心線で屈折する。

Heihachiro's Ripples 02 ~平八郎の「漣」2

平八郎が意図したかもしれない装置の作用空間を確認するために1/10のスケールモデルを作る。

美術教科書の印刷と絹本着色という説明だけで誤解していたこの作品を補完するために。

図版による黄色みがかった白っぽい地色は金箔の上に貼られたプラチナ箔の効果ではなく、撮影時に反射した色が映り込んでいるものであるだろう。
熱転写でプリントアウトしたものを裏側からシンナーで表面のマゼンダがかった青紫色を洗い落とし、地の部分にラッカーの銀色(アルミ粉)を塗る。

現物の地は強烈な銀色の反射効果はない。
そして岩群青で描かれた図は、吸い込みのある紙にマジックインキの青で描かれたように光を吸い込んだ青の図である。

Heihachiro's Ripples 01 ~平八郎の「漣」1



平八郎が意図したかもしれないことを期待して見に行った「漣」。
あぁ~なんということだ。屏風は180度に全開され、無残にも壁にはりつけにされている。
それもガラスケースの中で、トップライトを浴びながら。
図としての「絵画」を鑑賞しようとする近代美術館的展示。
はたしてこのインスタレーションは平八郎の装置の効果を伝えているか。
表現方法としての「インスタレーション」ばかりに気を配る昨今、ものを置く、設置するということがどういう効果を指向するか、本来の意味でのインスタレートがもっと考慮されるべきである。
そうすれば80年前に作られたものの現代的意味が絶えず現前し、目の前にたち表れるのだが。


http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000166029.html


美術館を出、松屋町に向かって歩き末吉橋から東横堀川の漣を撮影する。
阪神高速1号環状線高架に反射する漣の効果。
この反射効果をアーティフィシャルに、住空間に、屏風に貼られたプラチナ箔と岩群青で平八郎は試みようとしたのではなかったか。

東横堀川末吉橋より見る

2012年7月7日土曜日

言葉の所有と文字の値段

壁に近づいてはじめて文字を読み取ることができるロイヤルブルーの壁のしみは、大きく余白を取って配される。
ここに書かれている言葉は日常生活の戒めのごとく毎朝教訓のように目立つところに貼られた言葉というようなものではない。
その文字が指し示しているものは意味ある教訓や強い主張のメッセージではない。
一度読んだだけでは忘れてしまうようなたよりなげな文字の集まりである。
それはあたかも風景のようなものである。
それは風景を眺めるように記された、もう一つの風景たらんとしている。
日常の、部屋の片隅に、忘れ去られた落書きのようにひっそりとつましく存在していることが似合っている。
何かのひょうしで目にして、その時の気分によってなんらかの感情をもたらすかもしれないといったたぐいのものである。
そういったつましさが似合う文字群である。
しかしここは、何かの表現を目的にした特別な空間である。
文字として書かれた言葉に値段が付けられている空間でめぐらせた言葉の所有と文字の値段。
それは空間を含めた文字の所有のための値段か、意味だけに還元された言葉の所有のための値段か。

白い壁に水性インクの万年筆で書かれた文字は紫外線にさらされゆっくりと退色してゆくことだろう。
書かれた基底材の中にインクを構成している微細な粒子は浸透していきながら消えてゆくだろう。
これを所有する人は空間に配されたインクの滲みを絵画のように所有することができる。
そのためには壁を切り取らねばならぬ。
もし異なる空間にあわせてその同じ文字群を新たに配したとしても、それは別のものになってしまうだろう。
なぜなら、その文字群は一回性の緊張感を持って書かれた出来事の痕跡でもあるからだ。
その場所の特性に合わせて設置されたインスタレーションであるからだ。
もし、同じ文字群を場所を変えても同じものとして提示するならば、その文字群はあまりにも情報を持ちすぎている。
それはペンによる「書」の作品として志向されたものでないかもしれないが、その文字群は「書」というメディアが持つ情報を内包している。
その文字群は個性を持ちすぎている。書かれた時の感情を内包している。
もし同じ文字群が与えられた空間にあわせて配されるものが同じ作品であるというならば、文字は万年筆で書かれることをやめ、活字やレタリングのように無個性であらねばならぬ。

その展示空間に一人で入って、ひそやかなロイヤルブルーの痕跡群を、ざわめきのない状態で体験する時、その作品を所有することができる。
それは体験者にとって空間と時間の所有である。
作者の意図に関わりなく、密やかな展示であればあるほど、空間を構成するあらゆる要素がその作品のために意図された要素として体験者に意識の集中を迫る。
フラットでない床に立ちその滲みを眼で追う時、海岸端のごつごつした岩場に立っているごとく演出されているように感じる。
かすかに、膠から発する獣のにおいは文字に肉体を与えているような錯覚を与える。が文字の指し示す風景はそんな肉体性とは対極だ。
それがたとえ日本画のどうさびきと同じ、書く為の作法であったとしても、この特別にしつらえられた空間の中では意図された要素の一つとして体験者に深読みをさせる。

この密やかで頼りなげな消えてしまうであろう滲みを表示価格によって所有する人は、その滲みが記憶の中の言葉のごとく曖昧に忘却の彼方に消え去る物質としての変化する時間を所有することができる。
時がたち完全にその滲みが消えてしまっても、かつてそこに言葉があったことを記憶として所有することができる。
この作品の値段はそういった時間を意識した値段であるか。

2011/10/26 AM05:31


2011年10月30日日曜日

「がまん」の絵

横位置の小さな画面の左はしに、書のように黒い縦書きでエイッ!ヤッ!と描かれた「がまん」の文字。
その文字に引き込まれる絵を見る者の視線は、おぼろげなイメージが何を表しているか確かめるように文字以外の部分をさまよう。

フレンチブルドッグの頭部を正面から大きくとらえ?
そのおでこあたりに丸いオレンジ色のみかんがペッタリと貼りついたイメージ?
はっきりしていない輪郭だがたぶんそういうイメージだったと思う。
イメージはたよりなげだが筆さばきはのびやかだ。

みかんをねだる愛犬がお預けをくらっている場面?
私は絵づらをそういう風に見たのであるが、その時の作者の心情は異なるやも知れぬ。
もしかしたら作者が何者かから「がまん」を強いられたそのうさを犬に投影したのかも知れぬ。
どちらにせよ、その表現の自由さと、「がまん」のギャップがおもしろい。
ユーモアと頑固さ。

作者からがまんを強いられる犬。
作者が何かから強いられるがまん。
自身の少年期に強いられたがまんの記憶。
親から受けたがまんの美徳。
大人になった自身が我が子に強いているがまん。
がまんを強いられる日常。
がまんの美徳を世界から評価される国民。

がまん、がまん、がまん、がまん、、、、

さまざまな「がまん」をめぐる物語がこの絵を通して現れ、
3.11以後の国民心情に訴えかける徳とあいまって、
今のこの国の気分を日常からとらえた表現に見えてくる。
それは見るほうの勝手な思い込みではあるのだが。


この絵の作者は杉山征、14才。(たぶん14才。)
まだ14才。いや、もう14才だ。
14才は気質、人格が完成される時期だ。
これは14才だからできる表現か? 
確かにそれは14才だからできる表現でもある。

この絵が展示されていたのは美術館のガラスケース内。芸術家の両親との合作インスタレーションとして展示されていた。マンガやドローイング、陶器のオブジェといっしょに部屋の片隅に散らばったような状態で展示されている展示品のひとつ。
それは両親によって、両親のシナリオ、ストーリーの部品として展示されただけかも知れぬ。
両親にひきづられて発表に参加しただけかも知れぬ。
自らの意志で発表しようとしてしていないものは「美術作品」として語られてはならぬ。というのが美術界の前提だ。

はたまた、技巧の凝らされた良くできた作品、制作の動機付けやルール、コンセプトが苦行のように窮屈な感じがした作品と同時に展示されていたため、私の気持ちがより開放感とユーモア、笑いを欲し、この作品に反応しただけかも知れぬ。
が、それでも私はこの絵が好きだった。

彼の展示品には、コンセプトや制作の動機付け、技巧以前に、14才の言い分や、14才の日常の現実がストレートに表れている。制作中の熱中と、その時の自由が感じられる。
そしてそれは、同世代の彼の日常に向けて制作されたやも知れぬが、あるいはまったく自身のためだけの感情の発露であったかもしれないが、同時代に生きている世代の異なる私に和みをもたらした。
あるいは、死んでしまった自身の14才という時に対する郷愁か。
手法、技巧やコンセプト、使用するメディアの選択以前に、まず「言いたいことがある」「描きたいことがある」というしあわせ。
表現とはそういうものだ。



同じ屋根の下に暮らしていてもそれぞれ異なる記憶。
同じ出来事に直面し、同じ時間、同じ空間をいっしょに生活していても異なる個の眼差し、眼差し、眼差し。
そんなあたりまえのことをあらためて感じる家族3人の展覧会の中で印象深かった「がまん」の絵。

意味不明だが「ぶつだんにしまっておこう」という落ちの言葉がやけに引っかかるマンガも気になる。

2011/10/22 清須にて

2011年4月29日金曜日

Review 0728/2002

サイトスペシフィック、メディアインスタレーション
Art work of C.Drew , A.Sato & K.Takasu



メディアインスタレーションにおいて鑑賞者との何らかのインタラクションを作品に反映させようとする時にセンサーを用いることは、一般的である。光センサー、赤外線センサー、音センサー、私達をとりまく環境を電気的な信号に置き換え、それをトリガーとして電気的な仕掛けを動かす(スィッチングする)。手動のスイッチでなくセンサーーリレー回路を用いることはトリッキーな環境を作品に反映させるとともに、私達を取り巻く環境が情報として電気的信号に変換できるということを気付かせてくれる。

ところで、このセンサーを用いて何らかのインタラクションをアート作品に応用しようとすることは一般的になり過ぎたために私達はメディアアートの展覧会において、多くの作品がセンサーで展示空間や鑑賞者からの情報を検出し作品を動かしているということがすでに了解されている。こうなってくるとノベルティーとしてのアートの要素が希薄になり私達はしばしばどこにセンサーが隠してあるのか、なんの情報を検出して作品を動かしているのかなどといった謎解きにはしってしまい本来の作品体験とは別の関心でもって作品を鑑賞することがしばしばおこる。多くの作品においてこの部分だけが記憶に残る作品(仕掛けの謎解き)はその用いられたテクネがハイエンドであればあるほどそちらの方(テクネ)の芸術性(創造性)に関心が移ってしまうのである。そして、とってつけたようにセンサーが鑑賞者に作品鑑賞を強いるとき私達は時々しらけてしまうのである。「ああ、手をこうかざしてセンサーが反応しているのね」といったぐあいに。

"ART FIELD"という学生自主企画による展覧会が7月の暑いさなか行われた。これは名古屋造形芸術大学総合造形コース3年次の授業(中瀬講師ゼミ)の一環として行われ、たった1時間しか展示されない作品もあるテンポラリーな作品発表会である。美術を目的にして作られた展示会場以外の場所(日常空間)を参加者自らが見つけてその場所の所有者、管理者などと交渉し展示まで自主管理で行うことを主旨としている。この中で電気的仕掛けを用いた数点の作品についてコメントすることは、先に述べたセンサーを用いた作品についてのある視点を示すことになるだろう。と同時にサイトスペシフィックなメディアインスタレーションの可能性について言及できるだろう。 

C.Drewの作品は春日井文化フォーラムの中の図書館の入り口付近に展示されたメデイアインスタレーションである。アメリカから短期留学で来日している彼が今回の作品のテーマに選んだのは「同時多発テロ以後のアメリカでの検閲システム、特に図書館での指紋照合による閲覧システムが個人のプライバシーの侵害である」という、表現者にとっても、避けて通れない問題についてをテーマにしている。
 ここで彼が用いているのは磁界によるタッチセンサーとリレー、タイマーIC555によるスイッチングでサーボモーターを制御するというキネティックにとってはわりと基本の仕組みを用いたものである。具体的には鑑賞者(体験者)が手形と指紋が描かれたコントロールデバイス(インターフェース)に手をかざし、指を動かすことで、その前に乱雑にインスタレーションされている本がページをめくりだすというものである。
 この作品のインターフェイスが成功しているのはオーディエンスが手をかざすという行為がセンサーを反応させるという仕掛けであると同時に作品の目的である指紋照合というテーマと一致していることである。オーディエンスは自分の手をかざすだけで本がページをめくるというトリッキーな仕掛けを体験すると同時にその手形に描かれている指紋の記号に思いをめぐらせることになる。実際に指紋照合システムが何らかのセンサーを使っていることは想像できる。この作品のセンサーが指紋を照合するものでないとしても私達が個人情報を監理、監視されていることへの想像をこの作品は示唆しているのである。一方でこのシステムは作品を一定時間所有するシステムでもあり、また指紋照合システムを使用すればより個人的にこの作品を所有することが可能であるかというセキュリティの問題に転化させることも可能である。

佐藤綾香の作品は7/22の夕方5:30-6:30一時間だけ金山駅のジャンボモニターを用いて行われたインスタレーションである。この作品はまず、場所の設定において通勤客が多く往来する駅のコンコースを用いたということが成功している。いやがうえにも、ここを往来する人々は日常性の中に仕掛けられたちょっとした異化(de-familiarization)に意識するしないに関わらず直面せざるお得ない。 ここで佐藤が用いた仕掛けは駅にある既存のジャンボモニターにDVビデオカメラからのライブ映像を映し出すというものであるが、DVビデオカメラが備えている静止画ショットを用いることで映し出されたライブ映像に異化を仕組むことに成功した。静止画に切り替えるスイッチを赤外線センサーーソレノイド、カウンターと連動させることでジャンボモニター前を通過する人々を静止画にフォーカスする。
 既存の電子機器が備えている機能を組み合わせることで一つの作品環境を作り上げた。シャッター音と画面の切り替えが通過する人々を一瞬立ち止まらせる。
 佐藤はこの作品において何気なく過ぎていく日常の時間を意識させるという目的で作ったというが、この作品はそういった意図と同時にDrewの作品が示唆していた監視とメディア環境の関係を結果として明示することにもなった。

高須の作品にはセンサーは用いられていない。明治村近くの入鹿池を作用空間に用いた作品である。バスツアーで入鹿池に近付くにつれ、この広大な場所をロケーションとして使用する作品がいかに物量的に大きな物であっても作品は陳腐なものになってしまうのではないかと勝手に想像していた私の心配はもろくもはぐらかされた。
入鹿池のボート乗り場にある桟橋に10人限定で体験可能なこの作品は、その桟橋の先端にある腐りかけた竹筒を不安定な桟橋先端にしゃがんで鑑賞(鑑聴)するというものである。池の中を覗き込むような格好で竹筒を耳にもっていけば、そこからはノイズまじりの犬のなきごえや、日常的な街なかの音が聞こえてくる。
 高須はこの音を、この人工池が作られることになり池の中にしずむことになって離散した5つの村の、そのうち4つまでの移転先をつきとめ、その場所に足を運んで採集した音を現在水中にあるであろう過去の街の上で再生したのである。密やかで、視覚的には作品として何もないに等しいこの作品は、それゆえにこの場所の空間、この場所にまつわる時間を取り込んでモニュメンタルな作品となっている。視覚でなく音をメディアに用いているが故に私達体験者の想像はより刺激され、体験後に桟橋をゆれながら戻って再びこの池を見る鑑賞者の視覚体験に影響を与えたのである。

以上、3つの作品は何らかの電子メディアを用いていながら、そのメディア、テクネだけが意識されず、その作品が設置された場所と結びつくことで始めて作品として良質なものとなっていたのではなかっただろうか。

Kiminari HASHIMOTO / 28.July 2002      Recalled from broken i-book