2014年4月22日火曜日

書とレタリング

Youtube 資生堂書体「美と、あそびま書」のレタリング工程を見て、思い出すDTP以前。


self do self have !

面相筆と平筆、不透明水彩で輪郭をはみ出さずに色面を均質に塗る。烏口でまっすぐな均質な線をひく。
かつての平面デザインの基礎訓練。
特に、烏口でまっすぐな均質な線をひくことが苦痛だった私は高校時代、平面デザイン科から油彩画専攻に志望を変えた。その5年後、大学を卒業して仕事の現場で避けていた烏口を使用しなければいけなくなった。self do self have !
オリジナルシンボルマーク、ロゴタイプの制作。公に発表するためには避けて通れない最低限の技術、烏口!コンマ1のロットリングよりも烏口!渋々、一から溝引きを用いて格闘する受験生に戻る。
しかしこの時は5年前と異なり、自らが考案デザインしたものを発表するという目的が明快であったため渋々ながらも前向き姿勢。つまらないと思っていた事も、実際、行っていく中に自身が意識しなかった新たな発見が幾つもある。無駄と思えることでも、頭ごなしに否定せず、いったん何でもやってみるものだ。
思い起こせば、中学校の美術で初めてレタリングの課題があった。美術の教本の表紙の小さな「美術」の文字を拡大して六つ切ケント紙に墨でレタリングする。初めてやることは、何でも興味がわくもの。ただし升目を切って拡大トレース作業は自由に描けない制約は苦痛。


書とレタリング 

親父は書家だったが器用だったため、ある時、会社のロゴマークをデザインすると、烏口や製図用コンパスを駆使してシャープな白黒の図を描いた。手術道具のようなカッコイイ道具類。興味深くその行為を見ていたのは小学生頃だったか中学生頃だったか。
実家が教室だったので、あたりまえのように2歳から筆を持ち(持たされて?)日常が習字教室の現場で何の疑いもなく高1まで続けた書にまつわる習慣。
手本を写したり、形を整えるために二度筆でなぞることを厳しく注意される。「二度筆でなぞるのは看板屋の仕事!」とも。刷り込まれた「看板屋」と「書」、「デザイン」と「アート」!
もの心つく頃以前から染み付いたこの習慣で得られた快感は、何も描かれていない白い紙に一本の線をひくことの気持ちよさと一回性の緊張感!
その快感が高校時代の志望変更時にも無意識に影響しているかもしれぬ。


オリジナルとコピー(版下と印刷媒体あるいはタブローと版画) 

書聖、王羲之のもっとも有名な書で、行書体のお手本として書を学ぶ者が一度は通過する「蘭亭序」。その真跡に最も近いとされる双鉤填墨本(張金界奴本)は石板や木板に模刻し、それから制作された拓本である。いわば印刷媒体。コピーのコピーによる型の伝承。
「書」が”書きぶり”という体験の共有にその本質があるならば、面に置き換えられた拓本はオリジンが持つ情報が半減し筆跡の形状が情報の中心になる。書を学ぼうと臨書する者は形状のみの情報から、細部を分析補完し”書きぶり”に達しようと模倣する。
一方、印刷物の工程は、版下→製版→印刷という流れで、グラフィックデザインの現場から見れば、王羲之が版下を制作し、石板や木版などの製版工程を経て、拓本という印刷物になる。王羲之の書は印刷媒体が伝承していると見ることもできる。グラフィックデザインでの版下は原版を作る元であり重要であるが、それは黒子のようなものでアートのオリジナル作品の価値とは異なる。グラフィックデザインではコピーである印刷媒体こそがオリジナルな成果物なのだ。
マスに流通するグラフィックデザインでは視覚伝達の要素が重要である。レタリング、フォントでは文字情報としての伝達が重視されるから滲みや筆致の痕跡はノイズとして扱われ排除されてきたことは容易に想像される。拓本が登場し、書とレタリングは分離し別々の道を歩き始めた。
書は一回性の”書きぶり”を重視するため、二度筆、補筆を悪しきモノとして退け、レタリングはノイズを排除するため二度筆、補筆をよしとする。


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かつて私がレタリングから逃げ出し、拒絶したのは何だったか。
グラフィックデザインという領域でのノイズの排除と、一回性の潔さでない表現?
DTP (Desk top publishing) 以後、べジェ作業のレタリング、フォント選択によるタイピングがあたりまえの作業。烏口、ピンセットで写植の切り貼り字間、行間調節、などなどといったDTP以前のグラフィックデザインテクニックは今、何の役にたっているか。。。

少なくとも、私の眼の役に立ってはいる。製版カメラ(フォトスタット)で遊べたことと共に。



資生堂書体「美と、あそびま書」 
https://www.youtube.com/watch?list=PLAeW7D2lL7xLm0PGqdS31AuR0zw57cn9J&v=32d91e9UN6A



* 「書」の表現として見、現代のデジタル環境に拡大解釈すれば王羲之は手書きで書の型をプログラミングし、その結果、伝承した書の型は、メディアアートとも言える。

* 王羲之自身、酔って書いた蘭亭序の草稿を再度、清書できなかったと言い伝えられている。作者でさえ、一回性の感情、感覚、気分、心のありようをコピーできないところに「書」の本質があり、それは書に限ったことではない。

** 蘭亭序
353年(永和9年)3月3日に、名士41人を別荘に招いて、蘭亭に会して曲水の宴が開かれ、その時に作られた詩集の序文の草稿が蘭亭序である。王羲之はこれを書いたときに酔っていたと言われ、後に何度も清書をしようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言い伝えられている。いわゆる「率意」の書である。28行324字。
王羲之の書の真偽鑑定を行った唐の褚遂良は『晋右軍王羲之書目』において行書の第一番に「永和九年 二八行 蘭亭序」と掲載している。自らが能書家としても知られる唐の太宗皇帝が王羲之の書を愛し、その殆ど全てを集めたが、蘭亭序だけは手に入らず、最後には家臣に命じて、王羲之の子孫にあたる僧の智永の弟子である弁才の手から騙し取らせ、自らの陵墓である昭陵に他の作品とともに副葬させた話は、唐の何延之の『蘭亭記』に載っている。
したがって、王羲之の真跡は現存せず、蘭亭序もその例にもれない。しかし、太宗の命により唐代の能筆が臨摸したと伝えられる墨跡や模刻が伝えられている。
引用:from wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E4%BA%AD%E5%BA%8F