2014年8月17日日曜日

「北緯35度の栄養学」


引用まとめ
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http://blog.goo.ne.jp/agrico1/e/a78f444ea539d44ee6c624d6ea939bcc

ブログ  「日本人の体力」 2010-02-04 15:41:19 より引用
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●「ベルツの日記」~エルヴィン・フォン・ベルツ(1849~1913)はドイツ生まれ。ライプツィヒ大学で内科を修めた後、27の歳に明治政府によって招聘され、以後29年間日本に滞在する。「お雇い外国人」

 そのベルツが、ある日東京から110km離れた日光に旅行をした。当時のこととて道中馬を6回乗り替え、14時間かけやっと辿り着いたという。しかし二度目に行った際は人力車を使ったのだが、なんと前回よりたった30分余分にかかった(14時間半)だけで着いてしまった。しかもその間は一人の車夫が交替なしに車を引き続けたのだった。
 普通に考えれば、人間より馬の方が体力があるし格段に速いはずなのだが、これではまるで逆である。この体力はいったいどこから来るのだろう。

●「ベルツの実験」
 22歳と25歳の車夫を2人雇い、1人に従来どおりのおにぎりの食事、他の1人に肉の食事を摂らせて、毎日80kgの荷物を積み、40kmの道のりを走らせた。 然るところ肉料理を与えた車夫は疲労が次第に募って走れなくなり、3日で「どうか普段の食事に戻してほしい」と懇願してきた。そこで仕方なく元の食事に戻したところ、また走れるようになった。一方、おにぎりの方はそのまま3週間も走り続けることができた。

 当時の人力車夫は、一日に50km走るのは普通だったという。ベルツはドイツの栄養学が日本人にはまったくあてはまらず、日本人には日本食がよいという事を確信せざるをえなかった。
また彼は日本人女性についても「女性においては、こんなに母乳が出る民族は見たことがない」とももらしている。
車夫の食事は、
「玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵」
平素の食事も、米・麦・粟・ジャガイモなどの典型的な低タンパク・低脂肪食。肉など食べない。


●フランシスコ・ザビエル~1549年(天文18年)~

「彼らは時々魚を食膳に供し米や麦も食べるが少量である。ただし野菜や山菜は豊富だ。それでいてこの国の人達は不思議なほど達者であり、まれに高齢に達するものも多数いる」


●「日本その日その日」エドワード・S・モース(1837~1925)
1877年(明治10年)から都合3度来日

「ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客の数名が乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工な代物で、褌だけを身につけた三人の日本人ー小さな、背の低い人たちだが、おそろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟におろしたーが、その側面から櫓をあやつるのであった。」
「七台の人力車を一列につらねて景気よく出立した。車夫の半数は裸体で、半数はペラペラした上衣を背中にひっかけただけである。確かに寒い日であったが、彼等は湯気を出して走った。ときどき雨がやむと幌をおろさせる。車夫たちは長休みもしないで、三十哩(今でいうおよそ50km)を殆ど継続的に走った。」



●「ジャポン1867年」(1867年は慶応3年)L・ド・ボーヴォワール
世界一周の途中1867年に日本に立ち寄り35日間滞在したフランス人。
日本国内を馬を借りて旅をした際に馬に付き添った別当(馬丁)について書き記す。

「その間中私は別当を見て飽きることがなかった。彼はその友である私の馬に、困難な箇所のたびごとに、咳き込んだ小さな掛け声で予告しながら、私の前をまるでかもしかのように敏捷に走った。
日本では馬に乗る者は、馬の好敵手となるこの筋骨たくましくも優雅な肢体の、忠実で疲れを知らぬ走者が絶対に必要であり、これなくしては決して冒険を冒さないようである。
「アラマド」(これが私の新しい従者の名前である)は、実際この長い一日の間、四六時中我々の速い走行の伴をした。ある茶屋で馬からおりると、彼は直ちにその場にいて馬の世話をし、冷たい水を鼻面にかけ、いんげん豆の飼料を少し与える。この男の軽い足が地面にほとんど触れるか触れないかといった様をどんなにお見せしたいことか。」



 開国の頃、日本人は西欧人が、そして今の私たちが驚くほどに健康で頑強な体をしていた。なりは小さいながらも実力では西欧先進国の水準を遥かに超えていた。
これがやがては日清・日露、そして二度に亙る世界大戦で、人的能力では実質「世界最強」を示したわが国軍事力の礎ともなるのである。
それは白人優越主義時代のただ中にあって、生の日本人の姿を見た欧米人にとっては信じがたい、けれども歴然とした事実だった。




●「北緯50度の栄養学」
島田彰夫博士著「伝統食の復権」の中でドイツの栄養学者・カール・フォン・フォイト(1831~1908年)の栄養学について呼んだ言葉。
明治政府はフォイト理論に基づき、「カロリー・栄養素計算偏重主義」、西洋の栄養学一辺倒の健康政策(=「欧米人並みに体を大きくする栄養学」)を始めた。

体重64kgのドイツ人は一日当たり
タンパク質118g、脂肪56g、糖質500g、およそ3000kcalを摂ることが望ましいと算出。
当時の日本人は小柄で体重が52kg程度だったことから、これを比例配分して
「タンパク質96g、脂肪45g、糖質415g、2450kcal」を日本人の栄養所要量と定めた。


当時の日本人の食生活(=北緯35度の栄養学)
タンパク質56g、脂肪6g、糖質394g、1850kcal



●「肉食と耐久力に関する実験結果」
とあるアメリカの大学において行われたとされる肉食をしている人と、全く肉を食べない人との体力と耐久力についての比較検証。(「大東流霊的食養道」というサイトから)

1989/03/28 勝川駅プラットホームの桜


季節外れの投稿

撮影:1989/03/28 NikonF3 35mm posi紙焼きよりスキャン


中央線勝川駅の名古屋行ホームには立派な太い幹の桜が幾本も植わっている。
プラットホームは、なだらかな土盛りで桜が植わっている土とつながっている。
枝は当然のことながらホームの線路側に伸びることを抑えられ反対側の駅外に隣接する道に向かって枝を張る。枝の先は道を隔てて建つパン屋の軒テントに接し、春ともなれば桜のトンネルを作る。
パン屋の中には4脚だけカウンターのこじんまりしたカフェがあり、コーヒーとゆで卵、トーストのモーニングを食すことができる。桜の頃、ここに座りあわただしい朝のひと時をすごすことができるのは優雅な風情である。花が散る頃、そのアスファルトの小道に雪のように花弁を降り積もらせる。

ホームと道を隔てるものは簡単なコンクリートの角柱とそれをつなぐL字鋼4本でありくすんだ空色にペンキで塗装されている。それゆえ、列車に間に合いそうにない時はその簡単な柵を飛び越えて改札を通らずホームに駆け上がることは意図も容易なことだ。こういったホームのつくりは国鉄の駅には特に珍しいものではない。幼少期にしばしば訪れた母の田舎の王寺駅、(そこは関西本線と和歌山線が合流する機関庫や操車場のある大きな駅であったが)もまた、このような簡単な仕切りでホームと駅外が隔てられているにすぎなかった。抜け出したり、忍び込んだりすることが容易で簡単な境界だった。越境すること。境界に立つ事。気づけばそういった位置にいることになってしまうのは幼少期のいたずらな、臆病なのか大胆なのかどっちともとれる行動癖からきているのか。

簡単に出入りができる境界。その気になればひょいと飛び越えることができる簡単な障害物。
境界とは本来そういうものだ。はたまた物理的な障害物すらなくてもあるように思うものでもある。
麻紐を結んだ石を置くことで、入ってはならぬ印とした結界もまたそうであるように、そこを超えることが困難な物理的障害物はない。あるのは、超えてはならぬという共同体の中での約束事であり信用関係によって成り立つ取り決めとしての印だけである。


勝川駅プラットホームの桜は、そんな境界に咲いている。





「おてんとうさまが見ている」
お天道様のまなざしは強力だ。
しかし、近代的自我ヒトは、おてんとうさまに逆らって、
ほんとにお天道さまが強いのか、確かめようとして、結界をまたいだ。
「こんな無謀な気分に誘われるのは満開の桜のせいだ。」
と桜のせいにして。

おてんとうさまは相変わらずにこにこ微笑んでいる。
睨んでいるのは共同体のまなざしだけだった。
怯えているのは共同体に帰属して生きることを選択しようとしている近代的自我だ。





勝川駅 ----

開業当時、東春日井郡(現在の春日井市を中心とした地域)の郡役所があった勝川町の駅として、中央本線の名古屋 - 多治見間開通と同時に、一般駅として開業した。その後、貨物取扱業務を新守山駅へ移管するなど、貨物および荷物の取り扱いを縮小し、現在では旅客のみの取り扱いとなっている。前述したが、JR東海の駅の高架化事業は2009年(平成21年)11月23日に上下線とも完了した。

1900年(明治33年)7月25日 - 国有鉄道 名古屋 - 多治見間開通と同時に開業。一般駅。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。中央西線の所属となる。
1911年(明治44年)5月1日 - 線路名称改定。当駅を含む中央西線が中央本線に編入される。
1964年(昭和39年)4月1日 - 新守山駅に貨物取扱業務を移管、当駅での貨物の取扱を廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱いを廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道(JR東海)が継承。
1991年(平成3年)12月1日 - 東海交通事業城北線の駅が開業。乗換駅となる。
2006年(平成18年)11月25日 - JR東海の駅にTOICA導入。
2009年(平成21年)11月23日 - JR東海の駅が高架化完了[1]。
2010年(平成22年)6月5日 - JR東海の駅高架下の入り口を移設。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B7%9D%E9%A7%85

2014年8月13日水曜日

140813 自転車散歩 文の里ー阿倍野

股が池の蓮

「アホにつける薬はあらへん」@文の里商店街



忘れていたけど、偶然出くわして、美大1年夏、ここでイーゼル立てF20号の油描いた事を思い出した。瓦が新しくなって色がオレンジ系茶からグリーンに変わっている。
@大阪市立工芸高校



大阪市立工芸高等学校本館 大正13年(1924年)完成@文の里一丁目




ハルカスが日本一高いビルと感じないのはこの凸凹なデザインのせい?








2014年8月10日日曜日

Чорнобиль

しらべもの、メモ、全文引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%96%E3%82%A3%E3%83%AA

この町は、ウクライナの独立によりウクライナ語が唯一の公用語として定められて以来、ウクライナ語名のЧорнобильが公式名となっている。しかし、その後も世界的にはロシア語名のチェルノブィリ(ィは小文字。Чернобыльチルノーブィリ;ラテン文字転写の例:Chernobyl';英語:Chernobyl)の方が知られている。


町の名前はヨモギ(Artemisia princeps)に近縁のハーブである Artemisia vulgaris のこと。元は「黒い」を意味するchornyjと「草」あるいは「茎」の意味のbylijaとを組み合わせたもの。なお、ロシア語では、Artemisia vulgaris はチェルノブィリニク (Чернобыльник / Chernobyl'nik)、ニガヨモギはポルィーニ (Полынь / Polyn') である。これらが混同され、しばしば「チェルノブイリはウクライナ語(あるいはロシア語)でニガヨモギ」などと言われることがあるが、正確ではない。チョルノブイリ、ニガヨモギともに、痩せた土壌でも育つため、広く自生している。



チョルノーブィリ(ウクライナ語:Чорнобиль、ラテン文字転写の例:Chornobilʹ、英語:Chernobyl)は、ウクライナ北部の都市である。日本語では、チェルノブイリと書かれることも多い。
首都キエフの北方、キエフ州に位置し、プリピャチ川に沿う。


都市としての歴史は古く、1193年に出された証文にはキエフ大公ロスチスラフ1世の家門に属する公子の狩猟用城館としてその名が現れる。この時代は農村だったとされる。その後、リトアニア大公国の領地となり、城も築かれた。その後、ポーランド、次にロシアの支配下に入った。
民族や宗教は多様で、正教徒、カトリック教徒がおり、ユダヤ人の大きなコミュニティもあった。18世紀半ば以降、敬虔主義のユダヤ教運動・ハシディズムの大きなコミュニティもあったが、1905年および1918年に黒百人組らによるポグロムが起こり多くのユダヤ人が虐殺・略奪された。
1915年にはドイツに占領された。ポーランド・ソビエト戦争もこの地で行われ、その後はウクライナ全体がソビエト連邦に取り込まれるが、スターリン時代の1936年にポーランド系住民はカザフスタンに強制移転させられ、1941年から1944年までのドイツによる占領でユダヤ人コミュニティも消滅した。1960年代にウクライナ最初の原発・チェルノブイリ原子力発電所、およびその従業員の町プリピャチが郊外に建設されたが、1986年の原発事故でチョルノーブィリの住民も避難させられ、都市としての歴史に終止符が打たれた。ソビエト連邦が崩壊すると、1991年からはウクライナに属している。
1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故により、放射性物質に汚染されゴーストタウンと化した。ほとんどの住民は事故後、他所に避難したままだが、少数の(主に年老いた)住民はチョルノーブィリで余生を過ごすことを望んだため、完全に無人にはなっていない。事故後の人口は1987年が最も多く約1,200人(推定)、2003年現在300人(推定)。人口は減少傾向にある。事故直前の人口は10万人以上いたと言われている。



https://www.youtube.com/watch?v=P7YMI39sObY&feature=share&list=AL94UKMTqg-9DFZgJwoItSuJCxz1sMARzf&index=5