https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8
「死者の書」原文
ウィキソース
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http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46386_26151.html
山越しの阿弥陀像の画因
折口信夫
(青空文庫)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E9%BA%BB%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85
当麻曼荼羅
当麻曼荼(陀)羅(たいま まんだら)とは、奈良の当麻寺に伝わる中将姫伝説のある蓮糸曼荼羅と言われる根本曼荼羅(当麻曼荼羅と中将姫伝説の項を参照)の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B6%E9%BA%BB%E5%AF%BA
曼荼羅という用語を用いているが、密教の胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅とは無関係である。浄土曼荼羅という呼称は密教の図像名を借りた俗称であり、現代における正式名称は、浄土変相図である。
浄土変相図の図様としては、他に『智光曼荼羅』と呼ばれるものと、『清海曼荼羅』と呼ばれるものとがあり、当麻曼荼羅とあわせて、浄土三曼荼羅と称せられている。その中で、当麻曼荼羅の特徴は、一見して、図像が四つの部分に区切られており、他の浄土図に比べて極楽浄土中の尊像も数多く描かれていて、複雑な画面構成をしているという点である。
これは、本図が、浄土三部経の中の『観無量寿経』の中に説かれる内容を忠実に描いている点によっている。この事から観経曼陀羅とも言う。
當麻寺
...中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で知られる當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。當麻寺がある奈良県葛城市當麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にあり、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山(桜井市)と相対する位置にある。二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。二上山はまた、古墳の石室や寺院の基壇の材料になる凝灰岩(松香石)や、研磨剤となる柘榴石の産地でもあった。[2]
古代の大和国の東西の幹線路であった横大路は、現在の葛城市長尾付近が西端となり、そこから河内方面へ向かう道は二上山の南を通る竹内(たけのうち)峠越え(竹内街道)と岩屋峠越え、二上山の北を通る穴虫峠越え(大坂道)に分かれる。この分岐点付近を古代には当麻衢(たいまのちまた)と呼び、672年の壬申の乱の際には戦場となった。これらの峠越えは、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。平安時代の浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。...
...当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。
當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。...
当麻曼荼羅の原本(「根本曼荼羅」)は、損傷甚大ながら現在も當麻寺に所蔵されており、1961年に「綴織当麻曼荼羅図」の名称で工芸品部門の国宝に指定されている。現状は掛幅装で、画面寸法は394.8x396.8センチである。...
...根本曼荼羅は損傷が激しいため、かつては絵画か染織品かはっきりせず、絵画説、織物説、刺繍説などが存在したが、1939年からの大賀一郎らによる学術的調査により、織物であることが判明した。ただし、伝説に言うような蓮糸の織物ではなく、絹糸に平金糸、撚金糸を交えた綴織である。縦横とも4メートル近い大作である本曼荼羅を織り上げるには十数年を要するという。製作地については日本説と中国(唐時代)説があり、前述の「天平宝字七年」という年記を製作の年とみるか、當麻寺に施入された時期とみるかによって変わってくるが、中国製とする見方が有力である。染織史研究者の太田英蔵は、日本には綴織の作例が少なく、特に本作のような絵画的な図柄を表した大作は他に例がないことなど、技法・図様の両面から本作は中国製であるとしている。[12]
...宮内庁正倉院事務所の尾形充彦は、2013年の特別展「當麻寺」(奈良国立博物館)に際し、小型顕微鏡を用いて、あらためて本品を精査した。その結果、本品は絹布に彩色したものではなく、先染めした絹糸を用いたものであり、総合的に見て錦や刺繍ではなく、綴織と見られるとあらためて結論した。...
...曼荼羅は元は本堂の厨子内に掛けてあったが、傷みの激しくなった中世に板貼りに改装され、江戸時代には板から剥がされて再度掛軸に改装されている。京都・大雲院の僧・性愚(しょうぐ)という人物が、江戸時代の延宝5年(1677年)に行われた曼荼羅修理の状況を記録に残している。それによると、曼荼羅を板から剥がすために表面に楮紙を貼り、水を注いだところ、大きな音とともに剥がれ落ちた。剥離した織物の残片を板と紙の双方から集めて、別に用意していた絹地の上に貼り付け、織物が劣化損耗している部分は絵で補った。織物が張ってあった板にも図様が残り、剥離に用いた楮紙にも図様が転写された。このようにして、オリジナルの綴織曼荼羅は、残片を貼り集めた掛幅本と、板、紙の3者に分離した。残片を貼り集めた掛幅本が現存の国宝曼荼羅で、全体に劣化、損傷、退色が著しく、オリジナルの綴織の残存している部分は図柄全体の4割程度である。特に図の下部は全く失われて絵画で補われているが、阿弥陀三尊の右脇侍(向かって左)の部分などにはオリジナルの織物が比較的良好に残っている。板貼りの曼荼羅を剥がした後、板の表面に剥がれた曼荼羅の跡が残ったものは「裏板曼荼羅」と称し、曼荼羅厨子の背面に安置された。一方、剥離の際、紙に転写されたもの(印紙曼荼羅)は一部が表装されて残り、西光寺(京都市東山区清水坂)に所蔵されている。...
...根本曼荼羅は損傷が激しく、基本的には非公開である。ただし、ごく稀に博物館の特別展で公開されることがある。2013年4月から奈良国立博物館で行われた「當麻寺 -極楽浄土へのあこがれ-」展では30年ぶりに根本曼荼羅が公開され話題となった。
当麻曼荼羅(根本曼荼羅、国宝)部分
By Anonymous 8th-century artists; I created the file - Taima Mandala, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18733254
当麻曼荼羅(平成本・中之坊蔵)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
死者の書
『死者の書』(ししゃのしょ)は、釈迢空(折口信夫)による幻想小説。当麻寺に伝わる当麻曼荼羅の伝説に想を得て書かれた。
初出は1939年に雑誌掲載[1]。大幅に改稿し、1943年に青磁社で出版した。
現行版(文庫)は、中公文庫(改訂版1999年)、岩波文庫(2010年)、角川ソフィア文庫(2017年)。
あらすじ平城京の都の栄える頃のことである。春の彼岸の中日、二上山に日が落ちたとき中将姫は尊い俤びとの姿を見た。千部写経の成就に導かれ、非業の死を遂げた大津皇子の亡霊とまみえ、尊い俤びとと重なるその姿を蓮糸で曼荼羅に織り上げた姫は、さまよう魂を鎮め、自らも浄土へといざなわれた。
映画-----
2006年には、川本喜八郎により人形アニメーション映画化された。2006年2月11日公開。上映時間70分。
http://jiyudaigaku.la.coocan.jp/2012/sisyanosyo.htm
引用元:霊性と曼陀羅-安藤礼二が語る映画『死者の書』の世界
折口信夫『死者の書(1943)』
あらすじ
郎女(藤原南家の姫)は、二上山に現れる幻影(郎女を恋人と思い込む大津皇子の亡霊)に誘われるように、ふもとの万法蔵院(当麻寺)に入り込み、女人禁制を破った咎をあがなううち、死者の亡霊を慰めるため、蓮糸で織った布に曼荼羅を描く。
登場人物
【死者】大津皇子(663~686): 天武天皇の第三皇子、滋賀津彦。文武に優れたが謀反を疑われ処刑、二上山に葬られた。【郎女】藤原南家の郎女(いらつめ): 豊成の娘、死者は耳面刀自と考えている。藤原豊成(704~766): 郎女の父、武智麻呂の長子、横佩大臣。藤原仲麻呂(706~764): 郎女の叔父、藤原恵美、押勝、大師。その後、道鏡排斥に失敗して失脚、殺害された。【淡海公】藤原不比等(659~720): 郎女の曽祖父、藤原鎌足の第二子。耳面刀自(みみものとじ): 淡海公の妹、郎女の祖父の叔母。その後、大友皇子の妃の一人となったが、壬申の乱後は消息不明。藤原武智麻呂(680~737): 郎女の祖父、不比等の長子、南家の祖。大伴家持(718?~785): 兵部大輔、三十六歌仙、『万葉集』の一割以上を占める。当麻(たぎま)語部姥身狭乳母
章別あらすじ
1 死者が耳面刀自を想いながら目ざめた。2 二上山で郎女の魂ごいをしていた当麻の修験者が死者の墓のそばで異様な声を聴いた。3 万法蔵院の女人結界を犯して捕まった郎女に当麻語部姥が藤原氏の話を始める。4 姥は大津皇子と耳面刀自、そして郎女との因縁を語る。5 死者が自分が滋賀津彦であることを思い出した。6 二上山の上におもかげを見た郎女が、春の彼岸中日、仏説阿弥陀経の千部写経を終え、夜を通して二上山まで歩いた。7 郎女が二上山の女人禁制の万法蔵院の境内に入り、とがめられる。8 奈良で開眼する東大寺の四天王像のうち、にらみ合っている多聞天と広目天のモデルが、仲麻呂と道鏡であるとのうわさがたった。9 郎女のうわさを聞いた大伴家持が横佩家の前を通った。10 郎女のもとに、曾祖母の法華経や大叔母(光明皇后)の楽毅論、父が書いた『仏本伝来記』が届いた。11 郎女は「ほけきょう」と鳴く鶯が気になる。12 寺の浄域を穢した郎女は、自分で咎をあがなう(長期の物忌みをする)という。13 郎女は夜、帷帳をつかむ指を見て、阿弥陀を唱えた。14 大伴家持が藤原仲麻呂を訪ね、郎女のことが話題になった。15 ひと月が過ぎて、郎女は天井に光、花、黄金の髪、荘厳な顔、目、肩、胸、白い肌を見た。16 初夏となり、若者や乳母たちは蓮の茎から蓮糸を紡いだ。17 秋分の夕、郎女は、再び万法蔵院に入り込み、二上山の男嶽と女嶽の間に人のおもかげを見た。18 郎女がおもかげ人の肌をおおうため、織機で蓮糸を織り始めた。19 郎女は布を裁ち縫い、大きな上帛(はた)を作った。20 郎女は絵の具で織物におもかげ人の絵を描いたが、それは阿弥陀仏の姿にも見えた。
彼岸、日想観について
---折口信夫『山越しの阿弥陀像の画因(1947)』から数字は中公文庫ページ。「渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝えていると思われながら、いつか内容は、我が国生得のものと入りかわっている。そうした例の一つとして、日本人の考えた山越しの阿弥陀像の由来と、これが書きたくなった、私一個の事情をここに書きつける。」(163) 「何とも名状の出来ぬ、こぐらかったような夢をある朝見た。そうしてこれが書いてみたかったのだ。書いている中に、夢の中の自分の身が、いつか、中将姫の上になっていたのであった。」(171)「...ただ山越しの弥陀像や、彼岸中日の日想観の風習が、日本固有のものとして、深く仏者の懐に採り入れられてきたことが、ちっとでもわかってもらえれば、と考えていた。」(175) 「彼岸の中日は、まるで何かを思いつめ、何かに誘かれたようになって、大空の日を追って歩いた人たちがあったものである。...」(176~9)「...幾度か見た二上山上の幻影は、古人相共に見、また僧都一人の、これを具象せしめた古代の幻想であった。そうしてまた、仏教以前から、われわれ祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して...」(193)
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近藤ようこ「死者の書」(原作:折口信夫)月間コミックビーム連載
http://kondoyoko.sblo.jp/
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引用元:折口信夫の他界観念
http://nevertolate860.blog129.fc2.com/blog-entry-706.html
...1944年(昭和19年)折口は「山越しの阿弥陀像の画因」を書いた。「山越しの阿弥陀像」は何枚かあるらしいが、折口の見たそれは禅林寺(京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院)の作品と思われる。
折口はこの「山越しの阿弥陀像」の作者は恵心僧都として書いている。恵心僧都(942~1018)は良源に師事し、比叡山横川恵心院(西国三十三ヶ所観音18番霊場)にて修行『往生要集』を著し念仏三昧を行じた。彼は大和葛上郡―北葛城郡―当麻村(現在の葛城市狐井・五位堂近辺)の生まれで、生まれながらに二上山を遠からず近からずの距離でながめていたようだ。奈良盆地南部の日想観は彼岸の頃、太陽が三輪山から上り二上山に沈む。この夕日は時間を追って美しく、初めは山上に夕焼けの日輪を見、やがて山を構成する雄岳、雌岳の二瘤のあいだを徐々に沈んでゆく。沈み終わったあとも残照がシルエットとして山の輪郭をいつまでも映し出す。日没後一~二時間は残照が続ずく。恵心僧都が「山越しの阿弥陀像」を二上山の頂上に見たのも、頷かれるのである。..
...これとは別に奈良からみれば二上山を越えた向こう側に叡福寺があり聖徳太子が眠っている。太子信仰が盛んになるに従い、信仰の山となっていった。さらにおそらく最も信仰の山となった要因は663年白村江の戦いがあった。当時防人が大量動員され、当時の防人や武人たちは必ず浪速から博多の那の津を経由して白村江に向かった。大和から動員された防人たちは必ず二上山の麓、竹内峠を越した。防人達を送り出した家族や恋人たちは、愛する者の消えていった西の方向、二上山以外にその面影を残すものはなにもない。おそらく大半の人々が何の消息もなく、生きているのか死んだのかも分らず一生を過ごしたことであろう。竹内峠を越えた人が多ければ多いほど、多くの人が「山越の阿弥陀像」を見たであろう。そして西の方向、二上山の山頂に手をあわせたことであろう。