2017年10月7日土曜日

" Why do you think the people who are said to be Japanese are Japanese ? "

「あなたはなぜ、日本人と言われている人たちを日本人と思うのでしょうか?」Kazuo Ishiguro

この言葉はカズオ・イシグロ氏の下記リンクの対談で発せられた問いの日本語訳です。
この対談が行われた頃、日本でのヘイトスピーチやネットで吹き荒れる暴露合戦、陰謀論渦巻く社会情勢の中で、僕自身を日々もやもやと捕らえていた問いでもあって、その後、なんでこんなに単純なことに気づかなかったんだろうと、気づいたことでもあります。

「人はどんなことは記憶し、どういうことは忘れるのか。そして社会や国家はどんなことを記憶にとどめ、いかなることは忘れようとするのか」Kazuo Ishiguro

「単一民族による単一国家」とか「縄文と弥生」とか「記紀の矛盾」とか「畿内説と九州説」とか。。。学校教育による知識の刷り込みとその積み重ねによって、一瞬かすめる矛盾はすぐに忘却され、というよりも、上から教えられることに疑問すら覚えずに、そういう出来事は自分とは関係ない「歴史」の出来事であると思い込まされていた。いや、思い込まされていたという強制的なものではなく、空気のようなものだったといってよい。しかし、そんな時にも疑問を持った人たちがいたかもしれない。疑問、矛盾を忘れない人と、そのことが耳を通り過ぎる人、その差はたぶん自身のいる場所が疑問を持たなくてよい環境だったからかもしれません。しかし今、なぜそんなことに囚われるのか。

「私」が「国家」「歴史」とは切り離された別のanother storyと意識し、別の物語を希求するのはなぜか。

人生も後半に差し掛かる頃になってようやく物事が見えはじめてきます。よくよく考えてみれば、なぜこんな当たり前のようなことに気づかなかったのかとすっきりしたりもしますが、同時に、益々、自身の立ち位置が曖昧になって、そんな「私」が何を語ることができるかという無力感に襲われ沈黙してしまいます。そして同時に、そんなことを考えていると、若かった頃に父に対して持った若者の反発のことを思い出します。
九州の陸軍士官学校で終戦を迎えた父に、World WARⅡ終戦時の気持ちを尋ねたことです。その時父が語った「だまされた」という言葉に、その言葉だけが記憶に残ってるのですが(その記憶も歪められてるのかもしれませんが)そんなことがあるわけないだろうと、戦後教育によって刷り込まれたその時の「私」が反発を持った事です。この時、父に対して持った「狡さ」は、「私」ということを棚に上げた万能感の子供の心情であり、世の中には公正な「神」のごとく絶対的存在があると信じていた時の心情であり、今、私が感じている「だまされた」という思いと同じ「狡さ」かもしれません。

歴史は、誰かによって編纂され、その編纂を多くの集団的無意識によって、疑問を忘却して共有される。
イシグロ氏がいう、埋められたものを掘り起こすことがよいのかよくないのかという問いは、北欧の団体によって投げかけられた二つの賞によって、近日中に発射されるかもしれないミサイルよりも強力で深度の高いミサイルとして、今、まさに突きつけられている問いでもあります。


日経ビジネスONLINE /2015年6月26日 石黒千賀子 --------
今の日本なら「忘れられた巨人」と向き合える
10年ぶりの新作に込めたカズオ・イシグロの思い
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/062500009/?P=1