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古代、耳形に張り出した三国ケ丘の海岸段丘、石津原に仁徳陵遥拝所に記されている地名起源説話をイラストレイトしてみる。
伝 仁徳帝陵「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」遥拝所、記文には
古、三国ケ丘から海に向かって耳形の海岸段丘・石津原が張り出して居た~
仁徳帝、狩りされた折、現れた鹿が突然、斃れた。不審に思い近付くと、鹿耳を喰い破って百舌鳥が飛び去った~
故に石津原を百舌鳥耳原と名づく成り。
堺市HPによる地名由来によると
百舌鳥(もず)
日本書紀に次の有名な話が見えます。『仁徳天皇が、河内の石津原(いしつのはら)に出向いて陵の造営場所を決め、工事をはじめたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、工事の人たちの中に飛びこんで倒れて死んだ。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び出し、鹿は耳の中を食いさかれていた。このことから、この地は百舌鳥耳原と呼ばれるようになった。』百舌鳥や鹿のことは、百舌鳥耳原という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出された、地名起源説話の一つだと思われますが、これから見ると、このあたりは大昔は石津原と呼ばれていたようです。しかし、いつ頃から、また、なぜ百舌鳥と呼ばれるようになったのか、よく分かっていません。
「もず」の字は「万代、毛受、毛須、裳伏、藻伏」とも書かれてきました。
古事記では毛受之耳原(もずのみみはら)と表記され、日本書紀では百舌鳥野陵(もずののみささぎ)と表記されている。