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2023年9月15日金曜日

230915 1年前の今日、アサギマダラを見た。

 
「2022/09/15  am11:50」Kiminari Hashimoto 2023/0/15


1年前の9月15日、家の前で信号待ちをしてる時、羽化したばかりのような傷一つない美しい羽根のアサギマダラを見た。
信号が青に変わると前のボックストラックを追いかけるようにひらひら飛んで行く。
そうか!南への長旅のためにエネルギーを温存すべくボックストラックで空気抵抗を避けながら飛んでいるのだ!
ちょうどその時は両眼カメラしか作動してなかったので、この出来事を忘れないよう脳みそAIで生成、途中でほっぽり出してた切りバリCGを1年ぶりに完成させた。
そして、つまり、絵を描く動機とはそういったものだと思う。(手動gifあにめ)


am 11:50
 しかしトラックは北に向かっていた!

この道をまっすぐ行けば愛知池に繋がって、アサギマダラの立ち寄り地のバタフライガーデンがありアサギマダラが好物のフジバカマを植えてるが、まだ花の時期は早く伊良湖の渡りももう少し先の時期だった。伊良湖岬はこの進行方向とは逆の方向だし、西を目指すなら左折しなければならない。

その日も、今日のようによく晴れた日だった。



 このように、この日のできごとを言語化してるのだから、生成AIを使えばもっとその時に私が見た光景が、その時のリアリティをもって出現するだろうか?それとも全く見たこともない道の光景が出現するだろうか?それもまためんどくさい作業なので1年後になるだろう。



 昨今のデジタル環境は何事につけクイックタイム・レスポンスである。すぐに返事なり結果を強要してくる。何日もかかって完成させていた手描きイメージ図が4,5例をあっという間の数分で作成してくるのだから確かに驚くのであるが、受容する側の脳みそ筋肉を含む身体の代謝スピードとずれていってレスポンスに乖離が生じる。と感じているのは老害年齢を突き進んでるからだろうか。
冷静に生成AIを見れば、長大な人類の集合知を自動検索して組み合わせてるのだから、個人の限られた時間内での直接体験だけによる生成と競争することはすでに結果が知れている。そして集合知と個人知という対立項は、その分け方がそもそも間違いである。個人の脳みそといったところでそこにはすでに無意識の人類全体の集合知が含まれているのだから。


そものも、この切り貼りコラージュになぜそんなに時間がかかったのか。その時の感覚を重視すれば重要なのは主になるアサギマダラではなく、それがその時その場所でそのような状態を表そうとしたからだ。そのため蝶の画像より背景となる場所を生成することが、バイクで信号待ちしてるその時の視覚感覚の再現に時間がかかったのである。背景の画像にリアリティを持たせるべく最初はグーグルストリートビューをちょっとずつ視点を変えてコピペして重ねていたが、主観的両眼カメラから続くバイクの運転ハンドルなどは改めて別日に信号待ちの時に撮影したりした。出来事自体を撮影することはできなかった不在を埋めるために背景の生成に注力したのだ。




2023年9月4日月曜日

230904 【赤芽柏と壱羽の目白】

"A White-eye and Mallotus japonicus"  Kiminari Hashimoto 2023/09/04



【赤芽柏と壱羽の目白】
"A White-eye and Mallotus japonicus"  
230904
mixed five shootings



メジロは4,5羽~10羽くらいの群れで行動しています。この写真の時も4,5羽の群れでした。せわしなく動くのでこの画像のように一羽の目白が分身の術を使ってるように見えます。ここに写ってるメジロは同一個体の数秒単位を静止画にしたものです。

元画像01



結構あちこちに生えてるアカメガシワ(赤芽柏)の樹皮は健胃剤、生薬なんですね。晩夏、多種の野鳥が黒く熟した実に集まります。

赤芽柏(アカメガシワ、あかめがしわ)赤芽柏の解説



2023年7月25日火曜日

六番町耳鼻科

 六番町耳鼻科、この6月をもって閉院されました。30年間ご苦労様でした。



”耳” ポジフィルムを挟んだアクリル樹脂板にエポキシ樹脂成形品を接着   
"EAR" Adhesion of epoxy resin molded product to acrylic resin plate sandwiching positive film


懐かしイメージに再会。熱帯魚好きの先生の依頼でデザインしたサンドブラストワーク。原寸線画で入稿。


















2021年10月31日日曜日

「古い3D」と「新しい3D」(その0)

今日は、白地に黒一色によるドローイングをメインにしたインスタレーションを二つ見た。


クレメンス メッツラーさんによる「運河に描く」(中川運河)と、伊藤千帆さん、小川友美さんによる交換制作「hokakara」(ガルリ ラベ)だ。


クレメンス メッツラー「運河に描く」ビューポイントから見た風景(中川運河)

ビューポイントが設定されている

クレメンス メッツラーさんは名刺にはイラストレーションと明記されていることからも「イラストレーション」を表現のフィールドとして活躍されてる、一方、中川運河に関するいくつかのプロジェクトにもその始まりの段階から精力的にかかわりのある活動をされている。

数年前はコンピュータによって描き起された中川運河が活発に機能していた時代の水際風景を綿密な取材と現在の風景や写真を合成した写真イラストレーションとしてプリントアウトして展示されていた。

その時の印象は平面的なイラストレーションという印象である。

画面が垂直水平にカチッと構成され、斜めの線が、倉庫群の屋根やクレーンなどに見られるものの、奥行きを表現するために用いられているのではなく、あくまで四角いフレームに平行な面のレイヤーが破綻することなく目に届くという意味で画面分割として用いられ、圧倒的な奥行き感を強調するといった消失点を持たないすごく浅い画面の印象だった。

そして今回のインスタレーションもまた、圧倒的な平面性を示していた。


今回は古い時代の中川運河の写真などから取材した労働者や船がペン画によるイラストレーションで制作され、その線画を現実風景のスケールに拡大トレースされ(小学校児童参加によるプロジェクトとして実施されたらしい)、時を超えた現代の風景に合成されるといったインスタレーションである。

プロジェクト系のアート表現、サイトスペシフィックインスタレーションなど近年のアート状況のお約束はすべて盛り込まれているが、私が気になったのはその作品がビューポイントを設定していることである。そのことにおいて、この展示は絵画であるということだ。というか古くから現在まで続く絵画の根本的な問題を扱ったものであることを示している。

指定されたビューポイントから見る時、現実の3次元空間の風景が、イラストレーションの線画によって一層強調され、圧倒的な平面性を示していた。僕が見た日がピーカンに晴れた日であり、風もなく運河の水面が鏡面のように倉庫街の風景を映していたことも影響するかもしれないが、現実風景を見るという体験が、美術館の壁の前に立ち絵画を鑑賞しているような奇妙な感覚に襲われたのである。


私たちは街の中に仕組まれるアート作品を見る時、現実空間に介在する異物としてそれを見る癖がついてしまったが、今回のメッツラーさんの作品は、本人の意図はわからないが、いみじくも街の風景の中で「絵画の構造を見ろ!」というようなメッセージをその作品は発していたと感じたのである。









XYZ軸空間に投げ込まれる

まずこの展示のDMが届いて詳細情報とガラス張りのギャラリーウインドウからの展示写真を見たときに、鉄のような硬質な黒く塗装された線材と同じく黒く塗装された木の枝による立体物を二人の作家が交換制作したものかと想像したのであるが、現実の空間に入るとその思い込みは裏切られる。

白い壁、天井ガラス張りの窓、ショウウインドウのような空間。

伊藤さんは近年、インスタレーションを制作するとき展示空間をCADによるシュミレーションで綿密に検討していると聞く。今回の交換制作も、CADによるシュミレーションで小川さんとの「交換」で展示が検討されたとのこと。




展覧会DM


シュミレーションと現実空間

シュミレーションを仮想空間と呼んでもよいが、メタが提示しているアバターによる仮想空間での体験を体験するような、実際の現実空間がモニター中のXYZ箱に投げ込まれたような錯覚を覚える。それはあくまでCADによるシュミレーションが行われた空間であると知っているからにすぎないが。

白い空間で黒い線によるテープドローイングや黒く塗装された枝や角材は、それ自身の奥行やボリュームを持たないように感じられる。


シュミレーションは現実を体験するためのメタ空間である。

メッツラーさんの現実空間が絵画平面に置き換わったような体験を強いているのに対し、ここでは絵画的な要素としての線によって
そして二つの作品体験を構成しているのは白地に黒い線であるということに共通点がある。


(途中ミカン、つづく)




2021年10月19日火曜日

211019 : ムーミンコミックス展を見に行って、改めて原画とメディアについて考えた。

 




10/19/2021:  名古屋市博物館で開催中のムーミンコミックス展を見に行く。

トーベ・ヤンソンさんの原画の小ささにほんとに驚いた。

その驚きはダ・ビンチ先生の大量の手稿を見た時の驚きにも感じたものだった。

印刷複製技術が発展した現代において、私たち多くの観客は現物を見る前にまず画集などの本など印刷物で、現物を見る前にイメージが大脳に刷り込まれている。特にネットが発展した情報社会では、メディア画像によって反射光イメージでなくRGBの透過光によってイメージが刷り込まれる。(紙に印刷された反射光で本を読む・見る時と、携帯画面やPCモニターなどから透過光イメージを見る・読む時とでは脳の反応する部分が異なるという説を以前読んだことがあるが、それはまた別の話。)


デザインアートソースとしてなじみのあるスナフキンのイラストは版権元よりデータでライセンス契約しているカンパニーに使用許諾されて、そのなじみのイラストをプリント柄で使用したこともあるのだが、その原画を見たことのない者にとって商品サイズから割り出した任意の大きさでの使用と、原画を見た時とのずれは「こんなに小さい!」と、本当に驚きだった。

そのペン画は修正のホワイト入れもなく、確信的な線で描かれ、まるでエッチング版画のようである。「エッチング版画?」とつぶやいて、あらためて気づいた。コミックの原画=版下もエッチングも複数印刷にかかわる表現ということで共通しているから当たり前のことなのだ。と。そう考えるとダ・ビンチ先生も「いずれ出版を考えてた」ということを何かで読んだことがある。そしてそれらはできあがりの印刷物に近い大きさで作られる。

上画像のスナフキンの原画にはトーベさん自身の鉛筆書きによる指示メモで82%と書かれている。

コンピューターモニターからの透過光による視覚が当たり前のようになって、データとして画面の中で自由に拡大縮小できるデザインワークが一般的な時代には、スケール感が希薄になる。


原画とメディアの関係。こう考えると北斎の浮世絵版画などは、原画が版木に糊付けされ版木と一緒に彫りこまれることにより原画というものが存在しない。というより印刷工程の中で原画が消滅する。

(つづく)





2019年2月16日土曜日

New project of "佐竹本三十六歌仙絵巻"

Kodai no Kimi (Yamato Bunkakan)
小大君      (大和文華館)



2019年秋に分断されてバラバラになった絵巻が京都国立博物館に集結する展覧会が開かれるというニュース。

旧秋田藩主 佐竹侯爵家に伝来した三十六歌仙絵巻は1919年(大正8年)に分断、軸装され所有者がばらばらになったという。
この絵巻の運命は明治、開国による日本の近代化、社会構造変化の中で、日本美術の受容鑑賞方法に変化をもたらした事件でもある。
藤原公任によって11世紀初めに撰された三十六歌仙、そしてその36人をもとに13世紀鎌倉時代に制作されたという、いわば編集された肖像イラスト付きの本のような美術であると考えるならば、鑑賞形式としてバラバラに個別に鑑賞されてもよいと言えなくもない。現代から見ればその方が民主的と言える。

絵巻物は個人向けに鑑賞されるメディアであるが、ある特定の個人(所有者)によってのみ受容鑑賞されたのだろうか。貸本のように、所有者のつながりの中で回し読み的に鑑賞されたのだろうか。いずれにせよ、庶民の目には触れることのなかったものであろう。
その絵巻が分断され、再集結し博物館で展示され老若男女を問わず庶民にも鑑賞可能となるということではあるが、庶民の鑑賞方法は限定されるだろう。
しかしはたして2019年現在、庶民とはだれかということだろう。見に行く人は、この絵巻物に興味のある趣味人であるだろうし、博物館の入場料金すら日々の生活費の中で生きるためにのみ必要とする者にとっては、たとえ興味があっても二の足を踏むだろう。というかその情報すら耳に届かないかもしれない。つまり、依然として美術鑑賞は特定の生活安定環境にいる人々の間で成り立っているのであり下層民は下層民の中でのコスパによるエンタに時間を消費するだろう。

そういったことをいろいろ考えていると、今、この絵巻をテーマとする新しいプロジェクトとしての作品化は意味深いものであると思う。そこであらわされている雅な世界は誰に向かって発せられるかという問いを含んだ日本美術の現代の作品として。

ISE Satake36poets
伊勢  (個人蔵)



引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99%E7%B5%B5%E5%B7%BB


歌仙名   1919年当時所有者                              現所蔵先
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柿本人麿   森川勘一郎           出光美術館
凡河内躬恒  横井庄太郎(古美術商)               個人蔵 (狩野探幽筆の補作)
大伴家持 岩原謙三(芝浦製作所社長)           個人蔵
在原業平 馬越恭平(大日本麦酒社長) 湯木美術館
素性法師 野崎廣太(中外商業新報社長) (所在不明)
猿丸大夫 船橋理三郎(株屋) 個人蔵
藤原兼輔 染谷寛治(鐘淵紡績重役) 個人蔵
藤原敦忠 團琢磨(三井合名会社理事長)        個人蔵
源公忠 藤田彦三郎(藤田組) 相国寺承天閣美術館
斎宮女御 益田孝(三井物産社長)                 個人蔵
源宗于 山本唯三郎(松昌洋行社長)           文化庁保管
藤原敏行 関戸守彦 個人蔵
藤原清正 藤田徳次郎(藤田組)                    個人蔵
藤原興風 大辻久一郎 メナード美術館
坂上是則 益田英作(益田孝の弟) 文化庁保管
小大君 原富太郎(生糸貿易商) 大和文華館
大中臣能宣 高橋彦次郎(相場師) サンリツ服部美術館
平兼盛 土橋嘉兵衛(古美術商)   MOA美術館
住吉明神 津田信太郎 東京国立博物館
紀貫之 服部七兵衛(古美術商) 耕三寺博物館
伊勢 有賀長文(三井合名理事) 個人蔵
山部赤人 藤原銀次郎(王子製紙社長) 個人蔵
僧正遍照 小倉常吉(小倉石油社長) 出光美術館
紀友則 野村徳七(野村財閥創始者) 野村美術館
小野小町 石井定七(相場師) 個人蔵(東京国立博物館寄託)
藤原朝忠 小林寿一 (所在不明)
藤原高光 児島嘉助(古美術商) 逸翁美術館
壬生忠岑 西川荘三 東京国立博物館
大中臣頼基 益田信世(益田孝の子) 遠山記念館
源重之 嶋徳蔵(大阪株式取引所理事長) 個人蔵
源信明 住友吉左衛門(15代)(住友銀行創設者)       泉屋博古館
源順               高橋義雄(三越呉服店理事) サントリー美術館
清原元輔 高松定一(3代)(名古屋商工会議所会頭)      五島美術館
藤原元真 嘉納治兵衛(7代目)(白鶴醸造) 文化庁保管
藤原仲文 鈴木馬左也(住友総理事) 北村美術館
壬生忠見 塚本與三次 個人蔵
中務 山田徳次郎 法人蔵

*1919年当時の所有者については、参考文献に挙げた『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』による。
(馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、日本放送出版協会、1984)


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7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集であり、天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものとされる万葉集。その中からも三十六歌仙の人物が撰されている。さまざまな身分の人間といっても歌を詠めない人は含まれないだろう。

万葉集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86


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久米の岩橋
2019年11月11日
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2019/11/blog-post.html



2019年2月3日日曜日

190202 百舌鳥耳原図



紙に水彩ペン、ゲルボールペン、筆ペン(B5Campus notebook見開き)


古代、耳形に張り出した三国ケ丘の海岸段丘、石津原に仁徳陵遥拝所に記されている地名起源説話をイラストレイトしてみる。




伝 仁徳帝陵「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」遥拝所、記文には
古、三国ケ丘から海に向かって耳形の海岸段丘・石津原が張り出して居た~
仁徳帝、狩りされた折、現れた鹿が突然、斃れた。不審に思い近付くと、鹿耳を喰い破って百舌鳥が飛び去った~
故に石津原を百舌鳥耳原と名づく成り。

堺市HPによる地名由来によると
百舌鳥(もず)
 日本書紀に次の有名な話が見えます。『仁徳天皇が、河内の石津原(いしつのはら)に出向いて陵の造営場所を決め、工事をはじめたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、工事の人たちの中に飛びこんで倒れて死んだ。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び出し、鹿は耳の中を食いさかれていた。このことから、この地は百舌鳥耳原と呼ばれるようになった。』百舌鳥や鹿のことは、百舌鳥耳原という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出された、地名起源説話の一つだと思われますが、これから見ると、このあたりは大昔は石津原と呼ばれていたようです。しかし、いつ頃から、また、なぜ百舌鳥と呼ばれるようになったのか、よく分かっていません。
 「もず」の字は「万代、毛受、毛須、裳伏、藻伏」とも書かれてきました。


古事記では毛受之耳原(もずのみみはら)と表記され、日本書紀では百舌鳥野陵(もずののみささぎ)と表記されている。




2017年11月13日月曜日

day#21863 :171112 Economy/flugalitas 一匹狼とカラスと羊の番人の物語





未明に見た海外ドキュメント、一匹狼とカラスの話。
生態系の長である狼も、一匹狼では猪に負かされる。
何日も獲物にありつけない一匹狼は生存の危機に瀕する。
一匹狼と付かず離れず行動を共にする烏はその状況を見て、狼に兎がいる場所の情報を流す。
カラスは自らハンティングを行わず、狼に情報を提供するだけでハンティングをするのはあくまで狼。
兎を捕らえた一匹狼はすべてを食べつくさず、おこぼれを情報提供者のカラスに残す。
文明に囲われた領域で羊の番人は家畜の羊の群れを牧羊犬と管理する。
未成長の牧羊犬の子犬は文明の外側、狼の領域に遊ぶ。
一匹狼は牧羊犬に成長しない段階の子犬を狙う。
子犬は文明の領域の外で生存の危機に直面する。
文明という囲い込み領域に逃げ帰った子犬は九死に一生を得る。
一匹狼は文明という境界に侵入するが子犬を捕らえることはできない。
牧羊犬と羊の番人と羊の群れは文明の外側の危機を知っている。
羊の番人は事の成り行きを知るが、狼を駆除しない。
羊の番人は狼を駆除しつくさず、かといって近づきすぎず、狼と人との関係は互いの存在を知らしめる状態を保つ。
羊の番人は狼を駆除することで起こるであろう災いを知っている。
この物語に鹿や貂、アライグマは登場しない。
鹿や貂、アライグマや街中に侵入する猪の物語は、狼が駆除されつくした別の、この島の物語。

このドキュメントから「経済」と訳される英語のEconomyのラテン語語源、flugalitasからflugalが意味する「共同体の運営」という意味が見えてくる。また、経験主義に過信し慣れ親しんだ事業にのみ巨額投資で破綻に追い込まれるかつての大企業と、他者の経験を吸収し巨大成長するシリコンバレーの多国籍企業体の対比が思い浮かぶが、これはまた別の話。



2017年9月7日木曜日

HISTORY PANELS/ Picture in a picture


selected images in the picture  1984 


















selected 11 images in "L'ANUACIAZIONE"  Kiminari Hashimoto  1984    Iwagunjyou mixed Kasyu oil on lusted aluminium  



Return a line drawing image drawn in a square distorted by one point erasure fluoroscopy to the plane of a square without distortion.

一点消失による線遠近法的に区切られた歪んだ正方形パネルのなかに描かれたイメージを正方形の平面に戻す。








関連ページ ----------------
global library
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/04/global-library.html





2015年12月20日日曜日

J.J.オーデュボンの魚のイラスト。架空の生物か?生物多様性を表しているか?


オーデュボンはアメリカの鳥類で高名なイラストレーターです。35年前金沢から名古屋に来た私は、瀬戸の多くの輸出陶器メーカーに分厚いノーマンロックウェルとオーデュボンの洋書があるのに驚きました。ファインアートから来た私は彼らの存在を知らなかったのです。アメリカ向け輸出陶器ではロックウェルとオーデュボンのイラストレーションの立体化が盛んに行われていました。私が初めてグラフィックデザインの仕事としてシンボルマークを作ったのも J.J.Audubon museum でした。それはミュージアムのマークではなく、シリーズコレクションのブランドマークであったのかもしれません。その後、国内向け鳥類のフィギュアの企画のために、ボーナスをつぎ込んでペンタックスと500mmの望遠レンズを買いフィールドワークを始めたのでした。オーデュボンに倣って。

J.J.オーデュボンの魚のイラスト。架空の生物か?生物多様性を表しているか?(スミソニアンアーカイブ:フィールドブックプロジェクト)

http://hyperallergic.com/232368/how-audubon-pranked-a-fellow-naturalist-with-a-bulletproof-fish/



リンク記事より引用 ------------------
The most famous of these “fake fish” was called the Devil-Jack Diamond fish. In his book, Icthyologia Ohiensis, he describes the fish as being four to ten feet long with bulletproof scales. Rafinesque claimed to have seen one at a distance, but noted that they sometimes lie motionless on the surface and appear to look like logs.

これらの「偽の魚」で最も有名なものは、Devil-ジャック・ダイアモンド魚と呼ばれていました。彼の本(Icthyologia Ohiensis)では、彼は魚を防弾の目盛りによる長さ4~10フィートであると評します。少し離れて1つを見たが、彼らが外面上は時々じっとしていている点に注意して、ログのように見えるように見えたと、ラフィネスクは主張しました。

By the time Rafinesque left, Audubon had convinced him of the existence of ten different imaginary fish. When Rafinesque published his findings, he gave Audubon credit for all of the fake species, often stating “I have not seen this species, but Mr. Audubon has communicated me a drawing of it.”

ラフィネスクが去る頃には、オードゥボンは彼に10匹の異なる想像上の魚の存在を納得させました。ラフィネスクが彼の評決を発表したとき、彼はオードゥボンに偽の種の全てに対して信用を与えました。そして、しばしば「それの、私はこの種でなく、しかし、ミスターに会いました。オードゥボンは私を伝えました図面」を述べました。

At one point in his book, Rafinesque seems to doubt the accuracy of Audubon’s drawing stating
“This genus rests altogether upon the authority of Mr. Audubon, who has presented me a drawing of the only species belonging to it. It appears very distinct if his drawing be correct; but it requires to be examined again. Is it only a Sturgeon incorrectly drawn?”

「この属は全くオードゥボンさんの当局にのります。そして、その人は私にそれに属している唯一の種の図面を贈りました」と述べて、彼の本であるところで、ラフィネスクはオードゥボンの図面の正確さを疑うようです。彼の図面が正しいならば、それは非常に明瞭に見えます;しかし、それは再び調べられることを要求します。それは、誤って描かれるSturgeonだけですか?」

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The prank eventually caught up with Audubon, costing him some credibility. And as the New York Times pointed out in August, there are in fact five “mystery birds” in his Birds of America that seem to be fictional. Audubon was quite serious with his bird work, however, only drawing from nature, so it's likely they were mutations or hybrids of some sort.

結局、いたずらはオードゥボンに追いつきました。そして、彼のある信憑性を犠牲にしました。そして、ニューヨークタイムズが8月に指摘したので、5羽の「謎の鳥」が実際、虚構のようであるアメリカの彼のBirdsにあります。しかし、オードゥボンは彼の鳥仕事が自然から絵を描くだけで全くまじめだったので、彼らが何らかの突然変異またはハイブリッドであったことはありそうです。

Meanwhile, the bulletproof Devil-Jack Diamond fish endures in Rafinesque's field book, one of the more curious insights into the sometimes artificial history of biodiversity unearthed through the Field Book Project.

合間(ダイアモンド魚がラフィネスクの野外調査ノートで耐える防弾のDevil-ジャック)より奇妙な洞察のもの時々人工のフィールド・ブックProjectを通して明らかにされる生物多様性の歴史。




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オーデュボンの描く背景のある鳥類図鑑のような博物画は伝統的な日本画のように対象を反射光下で、光源の存在も捉えられていない。
「伝統的な日本画」という言い方がそもそもおかしい。大乗仏教伝来下での絵画表現?反射光でなく後光?

そもそも絵画とイラストというカテゴリーわけについての



10:22   28.NOV.2015


2015年11月28日土曜日

「写し」によって劣化する図称


100年ごとに劣化する風神雷神図は「写し」の上での運筆の困難さを示しています。筋肉を表す線がミミズが這ったような線になっていくマニエリズム。安定した四角形に納まる風神に比べ、傾いた平行四辺形の雷神図に表現の劣化が著しく見られるのは(光琳、抱一へとだんだん雷神が一層ひしゃげている)右利きの人が左向きの人物動物を描く容易さと、右向きの人物動物を描く困難さが表れている。初窯時に茶碗に描くの左馬のように。
私は高校三年生の秋に友人から頼まれて宗達の風神雷神図を「写し」ました。体育祭のはっぴに描いた雷神の困難さと風神の容易さを実感すると同時に、幼少期より手が覚える運筆の「写し」は書の臨書に通じるものと実感しました。


俵屋宗達 雷神
尾形光琳 雷神
酒井抱一 雷神


宗達、光琳、抱一の三つの風神雷神図屏風が並んで同時に展示されることで話題になった「琳派 京を彩る」展を結局見に行くことができなかったがこの三つの図版(透過光で見るモニター画像)より考察を試みたい。


風神雷神図を私が模写(写し)したのは高校3年生の秋だった。体育祭の時に着る応援団のはっぴに雷神図を描いてくれと頼まれたからだ。私が通っていた東住吉高校の体育祭は赤白黄緑の4色に全校生徒を振り分けて競う。応援部、建設部、もう一つ何かあったが忘れてしまった。建設部はマルタを組んで仮設の観客席、矢倉を土建屋さながら組み上げる本格的な現場作業だ。やわな管理された祭りというより、河内の荒っぽい男たちが繰り広げる祭りといった感じだ。
当時私は黄組の応援部にいた。応援団長は一番豪華なはっぴを着て先頭に立って行進する。私も何らかの役があったのかはっぴを着ることになっていた。団長の注文は、はっぴに雷神を描くことで、自身のはっぴには風神を描くことにした。しかし、頼まれて描いた雷神図より自身のはっぴに描いた風神の方が力強く大きな表現になってしまった。

雷神はうまくかけない。なぜか。傾いた平行四辺形の構図の中にはめ込まれた動きのある身体の動きは、写しにはことのほか難しい。宗達を写した光琳、抱一の雷神図もいっそうひしゃげて貧弱である。それではなぜ風神は形が取りやすいのか。風神は安定した正方形に身体の動きがはめ込まれ、太ももとひざから下の足が直角をなす安定した構図である。袋を広げるために伸ばした左腕も水平に伸ばされ、安定感を与えている。
身体の動きによる構図のほかに、雷神が描きにくいのは右利きの人が左向きの人物動物を描く容易さと、右向きの人物動物を描く困難さが表れている。初窯時に茶碗に描くの左馬のように。



胡粉と金箔地
明暗法でいえば胡粉の白は光を反射する明るい面として表れる。白よりも光を反射する金箔地。
金箔地に描かれた胡粉の白は逆光、後光の効果によって影になる。
光琳は雷神の周辺金箔地に垂らし込みの墨彩の面積を多くとることで、逆光効果により暗く見える胡粉の雷神ボディをより明るく際立たせている。そのことがかえって雷神の傾いた平行四辺形のボディを強調し、宗達の雷神と異なる不安定感を表している。


3Dからトランスレートされた2Dと、2D→2Dの「写し」
三十三間堂の風神雷神像や清水寺の風神雷神像が宗達の元になったと言われている。もしそうであるなら(今のところ宗達のもとになった2D図称を探せていない)宗達は過去の風神雷神に類似したイメージ2Dと3Dである像を元に風神雷神のイメージを定着した。3Dからトランスレートし2Dに線を抽出した。ここでは大きな飛躍が起こっているのである。その宗達の2Dイメージを本歌とした光琳、抱一は2D→2Dである。同じ「写し」といっても、3D→2Dと2D→2Dでは創作原理の意味が異なるのである。





* 特別展「琳派 京を彩る」は2015年10月10日から11月23日まで京都国立博物館で開催されました。

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* 参考ブログ
リアリティとオリジナリティはこれからも有効か? 岡田萬治金箔美術/岡田武氏ブログ
2015年11月23日 (月) 三つの風神雷神図屏風

http://manji.blog.eonet.jp/art/2015/11/post-9c71.html

岡田さんのブログで興味深いことは、キャラクター版権ビジネスへの言及です。


* 参考ブログ2
クリーブランド美術館所蔵 雷神図屏風
劣化というのはこういったものかもしれません。しかし運筆はしっかり描かれている。

http://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/dcd62f45056b057c5c16c0ee07e97702

2015年3月2日月曜日

白楽天図屏風 ~屏風絵の作用空間(working space)とその鑑賞方法~







書きかけ、途中


絵画の見方、大和絵の見方
~屏風絵の作用空間(working space)とその鑑賞方法~

■白楽天図屏風 今回の発見(1)屏風絵の作用空間(working space)とその受容体験
右から左へと観てゆくと絵画の主題、物語がよりスムーズに受容される。また、右側から左へ斜めに屏風を見るとオーディエンスの視線は白楽天からの視線に合致し、住吉明神がかなり小さく見え、絵画空間的距離感がいっそう増す。このことを、考えるに以下の分析から考えてみる。


◎絵巻物、戯画、漫画、アニメと屏風絵の受容体験の違いと共通

●絵巻物(和紙の規格サイズのつなぎ合わせ)
オーディエンス自らが、自身の速度で巻物を広げながら右から左へと時間的移動のなかで鑑賞する。
一度に広げられたスペースに一つの絵が描かれているが、その一つの絵の中でも右から左へと時間的推移が表現される。
絵とテキストが交互に現れ、オーディエンスは、その時間のずれを統合しながら物語を脳内で構築し鑑賞する。

●戯画
オーディエンス自らが、自身の速度で巻物を広げながら右から左へと時間的移動のなかで鑑賞する。
一度に広げられたスペースに一つの絵が描かれているが、その一つの絵の中でも右から左へと時間的推移が表現される。
絵とテキストが交互に現れ、オーディエンスは、その時間のずれを統合しながら物語を脳内で構築し鑑賞する。

●漫画(洋紙縦長の縦位置での製本)
オーディエンス自らが、自身の速度でページを右から左へめくりながら時間的移動のなかで鑑賞する。
絵巻物と異なり、一度に広げられたスペースに細かくコマ割りがなされ、時間の推移、画中人物への感情移入が分割される。
コマワリの流れに沿って右上から下→左上から下へ鑑賞するが、同時に見開きの画面をすでに見ている。
テキストはコマごとにふきだしで表示される。オーディエンスはふきだしのせりふ、テキストを読み、画中人物に同化するよう仕向けられる。

*縦書き和文字は右からはじめ左へと移動する。このことから、物語、絵巻の絵も右から左へと時間推移が行われる。
*絵巻物はイラストレーション(挿絵)とも考えられるが、イラストレーションという時の主体がテキストにより重点が置かれ、絵は補足的なあつかいという印象がある。

●アニメ
時間的推移が上映によって制作者側から規定されている。フレームは固定され(時に分割されるが)時間の長短で(カット数、シーン数)であらわされる。



光琳の作用空間(working space)を意識した屏風絵は、オーディエンスの様々な所作によって異なる視点を仕掛け(立った時、座った時、移動しながら、畳に寝転んで)それぞれで異なる視覚体験を提供していることが見受けられる。しかしこれはキュービズムの多視点絵画とは異なるものだ。西欧絵画において描く、見る視点=主体と描かれたもの=客体という関係で成り立つが、大和絵、山水画においては画中人物の視点になって絵画空間の中を移動するという超主観画である。視線を誘導しながらオーディエンスはその場その時に絵の中に入り込み異なる視覚体験を体験する。
絵画、彫刻、建築など動画、音楽と異なり静止したものである。しかしその静止したものが動いていないのではない。オーディエンスが動くことによって絵画も動くのである。(彫刻も、建築も)視覚のみによって静止しているものが動き、奥行き感をもった空間表現を表す。屏風という装置における図の効果としての作用空間(working space)である。
白楽天図において、描かれた人物に焦点をあてて見る時、主題である謡曲の物語を追尾体験するのに対し、海原や陸地、山に焦点をあてて見る場合はオーディエンスの空間体験に影響を与える。


西欧絵画空間、写真的単眼視で見慣れた視覚体験者が見るこの絵の奇妙さはいくつか確認される。

1)住吉明神の乗った舟が水平なのに対し、白楽天の乗った船が船首は水平なのに途中からポキット折れ45度傾けられている点。<この船の元図がどこかにあると何かに書かれていたが見つけられない。>
背景を抜いて、登場人物と船を見る。それは歌舞伎の舞台を見ている感覚に近い。書き割りの背景(山、浜、波海)=舞台装置。登場人物、船=演者。

2)三人の登場人物に見られる三遠法。東洋山水画の決まりごと(遠近法)である三遠法が三人の登場人物に割り当てられている。

平遠(正面から見た視点)、深遠(上から見た視点)、高遠(下から見上げる視点)による三遠法。山水画の風景で決まり事の絵画文法は北斎の神奈川沖波裏でも用いられている。

白楽天図屏風の前に座って屏風に対峙すると想像してみよう。ちょうど視線の高さの白楽天と視線が一致する。この白楽天は平遠で描かれている。
画中の白楽天の視線の先には住吉明神である。住吉明神は上から見た深遠で描かれている。遠くを遠望するような仕草の画中、住吉明神になりきって視線を見やれば白楽天の船を漕ぐ水夫に行き当たる。水夫は下から見上げた高遠で描かれている。
そして45度に傾いた船の円弧に視線は誘導され白楽天へと戻る円環をなす。
一望に画面全体を平面として視覚に収めようとするとつじつまが合わないような描写は、絵の中に入って描かれた登場人物=演者になってみれば不自然ではない。
背景の描写も、人物周辺のみの視界に焦点を当てている分には不自然でなく、登場人物の置かれた情景をより一層際立たせることに機能している。


* ところでこの三遠法の三つの視点は写真的単眼視にとって特殊な遠近法であろうか?否、人の視覚に近いとされる50mm~35mmレンズ越しに見る対象を、35mm~20mmレンズでとらえた視点に近いのである。レンズに平行な対象は水平に、対象の上部は見上げた視点に、対象の下部は見下ろした視点になる。こういった広角レンズ的視覚を絵画面対象に拡大増幅し、望遠レンズで見た視覚に組み合わせたものが三遠法と考えることができまいか。



■白楽天図屏風 今回の発見(2)波の表現
紙の地を残し、薄墨で線描。繰り返される線描の間を薄墨で陰をつけ立体感を出し、うねるような海原を表現。陰の薄墨は赤みを持つ油煙墨(ウォームグレイ)と青墨のような寒色系(クールグレイ)の交互な彩色部分が見られる。これは墨の違いによるものか、それとも青みがかって見える部分は薄く胡粉をひいた上に油煙墨で彩色したために青っぽく見えるものか。金箔地彩色とあるが、海原の部分は紙地を残し、紙と薄墨の表現で黄金色の海原を表す。陸、山との境界は唐突で、緑青の平面が、立体感のある海原表現の上にペタッと貼り付けてあるような表現。同じ水の表現でも紅白梅図屏風のように、平面的意匠表現が徹底された水流紋とは異なる。
宗達波(平家納経より継承された表現)の継承。松島図屏風でも宗達波は借用されているが、白楽天図屏風の波には線描波の間に金泥の線描は認められず、オプアート的な視覚効果は松島図より乏しい。波頭の一部に胡粉での彩色が認められるが、全体には認められない。この点も、松島図と異なる。これは3百年の間に剥落したことによるものか、それとも当初より、一部にしか彩色されなかったものか。

■白楽天図屏風 今回の発見(3)輪郭の表現
紙(鳥の子紙?)に薄墨で描かれた線は金色のように見える。白楽天の乗る船ではその薄墨による輪郭線が塗り残される。濃密な岩絵具で彩色された明度の異なる三段階のクールグレーの色面にはさまれてよりいっそう金色っぽく見える。(フランクステラのストライプペインティングとの関係)一方、住吉明神の乗っている小舟ははっきりと墨で輪郭線が描かれている。

■白楽天図屏風 今回の発見(4)主題の表現









2015年2月4日水曜日

A work of translation to 3D for "PEANUTS" -翻訳としての立体表現


I have made SNOOPY, CB and WS statue again. For an event of the 65th anniversary of PEANUTS.
The artwork of translation to 3D is the work that is very interesting for me.

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This work is nameless art to generally belong to a category of the display design.
It is a three-dimensional thing as translation of the image unlike the three-dimensional expression in carving and modeling, the sculpture.
In this sense, this work is existing expression on the border between two-dimension and three-dimension.
The colored solid thing exists as the three-dimensional thing which a feeling of materials texture lacks.
It exists as image itself let loose from the weight of materials.
It is the three-dimensional expression of the way which is different from "carving and molding, the sculpture" categorized in University of Arts in such a meaning.
In a modern sculpture, the basic training translates a person model and a 3D-motif into the different material such as clay and a tree or the stone in many cases.
The role model of three-dimension is three-dimensional. (from three-dimension to three-dimension translation by the material)
However, the modeler who is producing a character figurine, translate three-dimension from two-dimensional image.

For example, Walt Disney made the mock-up of the character doll to reproduce the motions of a character. After inspecting the movement with a three-dimensional doll he converted it into the two-dimension again, and completed a character design.
In contrast, the comic strip of Mr. Schulz is a line by the pens including a noise encoded in a minimum line.

"What does this one line drawn casually express?"
Sometimes I mutter this question during production.

In 2001, when I had begun to be concerned with the character figurine (3D sculpt) of PEANUTS, Mr. Schulz was having already passed away. Therefore it was impossible to ask him some questions.

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We extract a language and grammar of the illustration that he drew from many comic strips that Mr.Schulz drew and translate it in 3D.



After 2001, my studio was sometimes occupied to SNOOPY.
For ten here several years, I performed work of this translation.






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翻訳の仕事としての立体表現 =======

この仕事は、一般的にディスプレイデザインのカテゴリーに属す無名のアートです。
彫塑、彫刻における立体表現と異なり、イメージの翻訳としての立体物です。
その意味で、この仕事は2Dと3Dの境界線上に存在する表現です。
彩色された立体物は素材感が希薄なイメージの立体物として現存します。
そういった意味で美術大学等でカテゴライズされている「彫塑、彫刻」とは異なる道の立体表現です。
近代彫刻の基礎訓練の多くは、人物モデルやモチーフとなる立体物を粘土や木、石など異なる素材にトランスレートしますが、お手本となるのはあくまで3Dです。(3Dから3Dへ、素材によるトランスレート)
しかし、キャラクターフィギュアを制作する原型師は2Dのイメージを3Dに翻訳します。

ウォルトディズニーのキャラクターがアニメーションの動きを正確に再現するためキャラクターデザインの段階で3Dモックアップを制作し、検証し再び2Dに落とし込んでいくのと異なり、シュルツ氏のコミックストリップは最小限の線に記号化されたノイズのあるペンの線です。

「このなにげなく描かれた一本の線は何を表しているか?」
制作中に発せられる問い。

私がピーナッツのキャラクターの立体物に関わり始めた2001年、すでにシュルツ氏は他界し、本人にその意味を問いただすことは不可能でした。


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この仕事において私が興味深いと感じるのは、シュルツ氏の頭の中で3D化され単純な線で記号化イラストレートされた、その線が3Dとしてどう現存させるかという対話を、亡きシュルツ氏そしてCAの3D監修担当者たちと行い、2Dの線と3Dの立体を共有していることです。
こういった意味において、私はこの仕事を機械的に(市場的に)分類されたデザインの仕事ではなく、アートの問題を内包したクリエイティブワークと感じるのです。

シュルツ氏のコミックストリップにはキャラクターの真正面のイメージがほとんどありません。ほとんどというのは、まれにスヌーピーの真正面から捉えたイメージがあるのですが、そのイメージがピーナッツのシルエットに酷似していることからコミックのタイトルが「PEANUTS」になったことにシュルツ氏は不満を持っていたからです。真横からのイメージはあるのに、真正面からのイメージは無い。このことはデーターとして三面図を描く場合に大きな情報の欠落があります。多くのキャラクターは斜め45度から見たイメージで表されています。ドッグハウスの場面では真横からのイメージがほとんどですが、真正面のイメージはありません。ウッドストックやチャーリー・ブラウンなど他のキャラクターについても同様です。
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私たちは、シュルツ氏の描いた多くのコミックストリップから、彼の描いたイラストレーションの言語と文法を抽出し、3Dに翻訳するのです。

2001年以降、私の仕事場は時にスヌーピーに占領されました。
ここ十数年、私はこの翻訳の仕事を行ってきたのです。

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2014年4月27日日曜日

global library






global library についてのイラストレーションである。

「類」としての記憶とDNA ~

個人のプライヴァシーが崩壊したインターネット社会ではプライヴァシーという概念がなくなる。
クラウドコンピューティングの環境では繋がった個の記憶の共有が、自と他を分ける感覚が希薄になり大きな類の記憶に置き換えられる。
大きな物語としての歴史でなく、小さな物語の莫大な集積ビッグデータで満たされる。
クラウド、それはあたかも類としてのDNAの外在化、顕在化のようなものである。
~幸村真佐男氏のアーティストトーク130823@N-mark参加後に記


Sir Arthur Charles Clarke (アーサー・C・クラーク) ----------

1958年ごろ、クラークは様々な雑誌に科学的エッセイを連載し多くの予言を残している。これらは1962年の『未来のプロフィル』にまとめられている。2100年までの年表には様々な発明やアイデアが盛り込まれており、例えば2005年に "global library" という記述がある。同書には「クラークの第一法則」が書かれ、後の版で「クラークの三法則」に改められている。(wikipedia より)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF

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幸村先生が36年前スリランカに行ったことを聞き、その頃コロンボに移住していたアーサー・C・クラークのことを思い出した。
wikiっていると2005年にクラークが書いたという"global library"という概念に出会う。
言葉からだけ勝手に想像するその考えは、自身の80年代に囚われていたことに対することと、その頃の制作の動機付けになったことが言葉として整理され気分がすっきりした。

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80年代に囚われていたことに対する整理------イメージと手法
キューブリックの「2001年宇宙の旅」のラスト30分の啓示と、そこから連想したグローバルライブラリーという考えが、その後の制作の動機付けになったと今にして思えば整理できる。
グローバルライブラリーをシンボリックに表現した地球上のすべての記憶装置としてのモノリスと巨大な赤ん坊スターチャイルド。
だからこの頃に描いていた絵は"global library"という考えについてのイラストレーションであり、1991年初めての個展での展示はそれを発展させた立体イラストレーションであるといえる。

80年代初頭頃より熱中した青いマジックインキでのピクセルドローイング。
材料的には、その頃、パイロットより商品化されたペイント系のマーカーとアルミ粉が混入された銀マーカーを発見した頃から始まる。
手法的には、印刷物の網点、ドットを拡大したリヒテンスタインの絵画に対抗し、丸を四角のピクセルにして手描きしたこと。
角がある四角いピクセルは、角が無い丸いドットより目に刺激的である。丸いドットは画面に奥行きを与えるが、四角いピクセルは画面のこちら側に向かってくる。それは眼球が丸い球であることに対し、四角は目に突き刺さる角があることによる。と非科学的な直感による。四角は平面の形と相似形をなし、フラクタルにイメージを連動させることができる。



そして再び"global library"という考えを思い出したのは幸村真佐男氏のFlickerシリーズに出会ってからであり、そのことが氏の近年の仕事への、勝手な親近感と興味へと繋がったのである。