2019年2月11日月曜日

190209  蜘蛛の糸 @TOYOTA



喜楽亭にて(この画像は展示作品ではありません)



メッセンジャーで案内をいただいたので小島久弥さんの作品を見に豊田の喜楽亭に行く。
絶えず観客が訪れる会場でお茶会の主人のごとく解説を行なう小島さんと、他の観客の後について三つの道行きを順に拝見した。それはあたかも舞台の解説を聞きながら早送りで演劇を見ているような体験である。場にあるすべてのものが、意味付けられ、物語の構成要素にかっちりと納まっていることに多少の息苦しさと、薄暗い中で繊細な展示物を壊してしまわぬよう緊張を強いられる空間は、観客に所作を強いるストレスの高い空間だ。しかしこのストレスは見るということに注力させる鑑賞の所作でもある。が、動員だけを目的にしたフェスティバルでは落ち着かない。緊張を緩めて、この作品を体験するには1~2時間くらいゆっくりとした時間が必要だ。1~2時間、それはあたかも演劇や映画の所要時間である。演劇では観客はアクターの出来事を追うが、この場での主人公は移り行く時間そのものなのだから。しかし、と、再び思い直すと美術館、劇場的な鑑賞方法でない、観客と作品が地続きな空間で、いろりを囲んで親密に談笑する場を主人は求めていたのかもしれない。


小島さんの作品というと、僕はいつも「ソーダ水の中を、貨物船が通る」という、荒井由実の『海を見ていた午後』の一節を思い出すのだが、それは99年の名古屋港倉庫での展示の印象が時間の経過の中で書き換えられた記憶によるのだろう。
僕が小島さんの作品を見るのは今回で三度めで、94年「ポジション」展:名古屋市美術館、99年、アートポート「メディアセレクト」名古屋港20号倉庫、同年同場所での演劇?「LETHE」で、いずれも水の循環の様態を見せるという一貫したテーマがあったが、94年と99年では大きく変化したように見える。よりポエティックに作品の様相が変化したように感じている。今回も循環の様態がテーマで、水をモチーフにしているが実際の水を素材として使用していない。それは文化財である場の制約によるものだろうか?それとも見立てをより進化させた結果であろうか?

小島さんはギャラリーの運営でのキュレーションの仕事や、小島製作所の仕事も行っておられる。このグループ展全体のキュレーターは天野一夫氏だが、喜楽亭の小島久弥の作品にはもう一人のキュレーター小島久弥が舞台監督のように存在している。
ホームページを見ると、今回の三つの場の作品の二つは過去に発表されたものが2019年の社会情勢の中でバージョンアップされ再編集されているのがわかる。数年前に発表されたという喜楽亭の作品と今回の一の間で異なっている部分は土石流に見立てた日焼けした畳の上に展開されたダイオラマと蜘蛛の糸である。


循環に従って、最初の間に戻って床の間を見ると、水害被災現場で救出用のヘリコプターから垂れ下がって被災者を救出するごとく見えていた「蜘蛛の糸」が、不気味な様相を醸し出して見えてくる。
そして、二の間の天井から落ちる雨漏りの雫は、蜘蛛の糸を切った釈迦が悲しんだ涙のように見えてくる。三の間で溜まった水は、極楽の蓮池越しに釈迦が覗き見た地獄か!


小島久弥さん作品の眼より外を見る

絞りエレメントは意外と大きいパネル状で窓枠にはめ込まれている





遠くから喜楽亭を見る

















蜘蛛の糸(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E3%81%AE%E7%B3%B8