2020年3月12日木曜日

感染 (in progress)

だれかのことばより
「記憶は保持されているというのは幻想である。
記憶は、あることを思い出した時点で、たった今、作り直されている。
鮮やかな記憶とは、繰り返し繰り返し呼び出し強化している自己愛的回路の変形といえる。」

有名なシュレディンガー博士の論、「シュレディンガーの猫」は箱を空けるまで生きているか、死んでいるかわからない。未観測の段階で「猫」は生きてもいるし、死んでもいる。私は、記憶もまたシュレディンガー博士の実験装置のようなものだと思っている。

「人は記憶の中で生きながらえる。」という時、その人Aは記憶する人Bによって生かされている。記憶する人Bがいるから、その人Aは生き続けているのである。

現代の人間社会では訃報というシステムがある。
訃報を受け取って初めて、その人物が少し前までは生きており、しかし少し前には亡くなったことを知るのである。訃報によってはじめて生か死かはっきりする。
訃報を受け取っていない状態では「シュレディンガーの猫」である。
そしてこの訃報というシステムが発動されるのはいつも突然であるのだが、突然と思うのは、何年も交流がなく、あるいは遠い場所に離れて住んでいて年賀状くらいしか互いの交流がないゆえである。生活を共にする当事者でないからである。
例えば自分の父親についてはどうだろう。私は普段の仕事や諸事に追われている時、父のことを絶えず考えているわけではない。その時、意識に上らない父は生きているか死んでいるかそれさえも問われない。しかし、ひとたび意識すると、その時点で即はっきりするのである。父の肉体はすでに死んでいると。それは、死に立ち会った事実とその経験からである。

しかし私は、遠いむかし遊んだ友人Yのことはすっかり忘れている。名前を聞いても昔の写真を見てもそれが誰だかわからない。私の記憶にも昇らないこの友人Yは記憶に上っていない状態の時、生きてもいるが、死んでもいる。しかし現実では友人Yは生きているか、死んでいるかはっきりしている。そして、もし友人Yが一方的に私のことをことあるごとに思い出していればYの中で私は生き続けている。

現代のようにインターネットができ、SNSというものが盛んに利用されるようになる前、生前の人の別れも一生の別れであった。もしあなたが、その別れた人のことを思い出さない時、その人はシュレディンガーの猫である。スマホやSNSというものがない時代にはアクチャルに探そうと行動しなければ、別離した人は生きているか死んでいるかもわからないのである。



武漢由来ウイルスの感染者の数字は、検査数が少ない地域、検査自体行われていない地域を考えると「シュレディンガーの猫」のようである。しかし厄介なのは、たとえ陰性の検査結果であってもウイルスがヒト個体内に「無い」というわけではなく、設定された陰性基準の数値検出ができないレベルであり、ウイルスがあれば生き続けるということである。
しかし、そもそも武田先生が指摘するように(1) 世界史上で記される歴史的な大流行がおこった疫病、感染病でさえ、感染者数は把握できていない。感染者数を把握するなど不可能なのだ。




昭和38年

幼稚園を休んだSくんの家にともだちとお見舞いと称して遊びに行った。
木戸越しに頬っぺたをタオルでつったSくんが出てきて、

「おたふくにかかったから遊べない」といった。

その後、少ししてぼくはぐったりした。おたふく風邪がうつったのだ。
往診に来た医者がおたふくかぜと診断すると祖母の勧めで母は布団を敷き、ぼくと弟を並んで寝かせた。弟におたふく風邪をうつすために。

弟はめでたくおたふく風邪に感染した。

その後、気になった僕はこの時の感染がおたふく風邪だったか、ハシカだったか確かめるために母に電話して聞いてみた。母の記憶もあいまいで、しかし母は僕と異なる記憶を、その頃の様子を詳細に話してくれた。
とにかく僕が映像的に記憶してるのは、S君の家の木戸越しの情景、大きな仏壇のある部屋で弟と並んで寝かされたこと、往診に来た医者のことであり。
そして、もう一つの病床の記憶は二階に一人寝かされていた情景である。その時の記憶は二階の窓からすぐ近くに見えたセンダイの松の木に色鮮やかな黄色く平べったい蛇のようなものがいて、気持ち悪さと同時にその情景が鮮明に思い出されることだ。



昭和40年




クルーズ船で感染が広まり、病院への隔離のニュースがにぎやかに報道されだしてすぐ、小学校2年の頃の羽曳野病院のことが脳内に映像された。

その場所がサナトリウムと知ったのは成人してずいぶん経った頃だ。サナトリウムという言葉すら中島みゆきの歌を聞くまでは知らなかったのだから。実際そこはサナトリウムと明記されていたわけでなく結核療養所となったいた。宮崎駿監督のアニメにはサナトリウムが頻繁に登場する。それを見て初めてあの時の赤い屋根の棟がいくつも並んだ官舎のような建物がその施設と初めて理解したのだった。
その地は聖徳太子の弟、来目皇子の墓と伝わる方墳があり、中の太子と言われる野中寺から近かったりと太子ゆかりのある地で、その病院の西には悲田院という名のついた施設が広がっていて四天王寺学園大学につながっていた。悲田院とは聖徳太子が四天王寺に設置した四箇院の一つであるとされている。

四箇院とはwikiによれば
伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、
施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。

四天王寺は四箇院が示すように、現代で言えば総合医療福祉センターのような福祉施設である。
その四天王寺が令和2年5月2日、創建以来初めてすべての門の出入り口を閉鎖する。ウイルス感染拡大防止の対策として。




天平の疫病大流行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%96%AB%E7%97%85%E5%A4%A7%E6%B5%81%E8%A1%8C

天平の疫病大流行は、735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
背景
日本の中央政府は、8世紀初頭までに中国にならった疫病のモニタリング制度を導入しており、国内で疫病が発生した際には朝廷への報告が常に行われるよう公式令で定めていた。
この制度の存在により、735–737年に発生した疫病の際にも詳細な記録が残されることとなった。それらの記録は『続日本紀』他の史料に残されており、流行した疫病が天然痘であったことを伝えている。

余波
東大寺大仏殿。盧舎那仏像(奈良の大仏)は天平の疫病大流行の後、聖武天皇の命によって建立された。政権を担っていた藤原四兄弟が相次いで病死した後、彼らの政敵であった橘諸兄が代わって国政を執り仕切るようになった。天然痘の終息から数年後には、農業生産性を高めるため、農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が施行されたが、これは疫病によるダメージからの回復を目指す社会復興策としての一面が強かった。
当時、災害や疫病などの異変は為政者の資質によって引き起こされると見なす風潮があり、天然痘の流行に個人的な責任を感じた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺および盧舎那仏像(奈良の大仏)の建造を命じたほか、日本各地に国分寺を建立させた。
盧舎那仏像を鋳造する費用だけでも、国の財政を破綻させかねないほど巨額であったと言われている。




<つづく>

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(1)  2020/5/15虎ノ門ニュース (14:09あたりから中部大学武田邦彦教授の感染者数についての説明)表示は放送後2週間なので、すでに非表示になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=jxWrq8FvAlo&t=7273s