2022年2月11日金曜日

220211  荒池のレイヤーと奥行き (#オシドリの群れ #トモエガモ初見) 


 



荒池のレイヤー


北側の遊歩道から対岸までは約120m。
南西対岸は人が近づけない雑木林で公道から隔てられ、ヒトや犬猫から守られた場所。
なおかつ水中から生える樹木や笹原は120m隔てた対岸からも視覚的に隠れることができる自然のブラインドになっている。
警戒心の強いオシドリはそんな場所に潜んで日の当たる場所になかなか出てこない。
それでも初めてここに来た先月19日の午後一には藪から出ての行列行進が見られたことから、午前や午後の行動を予測し時刻を変えて観察を反復。


笹原の隙間越しに鮮やかなオレンジ色がみえる。


切り取られた画面フレームと笹原は平行な関係になる。
バカチョンオート、x180の最大望遠(1000mm望遠相当)で撮影したデータは、そのほとんどがフレアで白っぽく画像処理でようやく体験した視覚に近づくことができる。








 

「しかしちょっとまって、あなたはそれを肉眼で見たの?あなたはレンズ越しのCCDで情報化された液晶画面を見ているに過ぎないのでは?」

 「そうよ。液晶ファインダーがキャッチした図に反応し、shootingしてるだけのめくら殺法よ。何が捕らえられたなんてその時はわからないわ。もっともフィルムカメラの時代と違ってその場で2インチくらいの液晶画面でチェックすることはできるわ」

 「その時あなたが体験した視覚とは現場の感覚、その記憶を基にその時の臨場感を頼りに再構築している電子絵画ということ?つまりここの画像も」

 「そうよ。色も、光線も。ただそこに捕らえてる獲物については帰宅後PC画面で拡大して初めて発見があるのよ。
 この笹原越しにデータを画像処理していると笹原面のレイヤーが絵画でいうキャンバス表面で、同時にPCのディスプレイ画面でもあり、その奥に浅い画箱が存在してそこにオシドリがいる浅い空間をひたすら奥行きを確認するようにフォトショ処理していると、これはまったくセザンヌ先生が毎日エクスの風景に向き合って成していたことはこのようなことだったのかと、100数十年遅れて追随してるに過ぎないというような絶望感に駆られたりするのよ。絵具とフォトショという道具こそ違え、まったく古臭い伝統的なことを行ってる。誰かによって耕された跡の道を歩いて、なお何か落ちていないか探してるような気分になって滅入ってしまうのよ!」


「つまりあなたはこの画像を作品と考えている?」

「違うわ。こんな安もんのバカチョンでとらえた写真が作品というのはプロの写真家さんに失礼だわ。実際私も帰宅後pc画面で確認し、羽毛の一つ一つまでピンが合っていないことにいつも不満だらけよ。もっと高価なデジタル一眼で撮ればそれらしくなるのにと思いつつ、しかし一方では静止画としての独立した写真を作品化したいと思っているのかと自問すると、まったくそんなことは考えていない自分がいるのよ。」

「つまりあなたがやっていることは単なる趣味の暇つぶしということなの?」

「そうねえ。暇つぶしといえば暇つぶしではあるわね。確かに時間を賃金というお金に交換していないのだから趣味ということよね。あなたが言ってることはよくわかってるのよ。
観察と制作の問題ということね。科学者の先生が良くおっしゃっている、観察→仮説→実験→結論→観察・・・といった<帰納>と<演繹>が永遠にループを描く態度。そのループの中、作品と成立させるには大きな断絶を超えないといけないのよ。作品・芸術は、自然な生活に見える観察の中にその萌芽は潜んでいるけど、それを成立させようとする時、大きな断絶をもって行う不自然な行為なのよ。というよりその大きな断絶こそが芸術ということなのよ。」











(つづく)



トモエガモ初見



そしてこの日、初見のトモエガモ。
逆光でよく確認できなかったが、帰宅しPCでデジカメデータを拡大してあちこちに写ってるのを確認。♂3、♀2羽がファインダー内にとらえていた。まったく、めくら殺法のようなshooting。



左写真)♂3羽、♀1羽が確認できる。