2011年4月29日金曜日

Review 0728/2002

サイトスペシフィック、メディアインスタレーション
Art work of C.Drew , A.Sato & K.Takasu



メディアインスタレーションにおいて鑑賞者との何らかのインタラクションを作品に反映させようとする時にセンサーを用いることは、一般的である。光センサー、赤外線センサー、音センサー、私達をとりまく環境を電気的な信号に置き換え、それをトリガーとして電気的な仕掛けを動かす(スィッチングする)。手動のスイッチでなくセンサーーリレー回路を用いることはトリッキーな環境を作品に反映させるとともに、私達を取り巻く環境が情報として電気的信号に変換できるということを気付かせてくれる。

ところで、このセンサーを用いて何らかのインタラクションをアート作品に応用しようとすることは一般的になり過ぎたために私達はメディアアートの展覧会において、多くの作品がセンサーで展示空間や鑑賞者からの情報を検出し作品を動かしているということがすでに了解されている。こうなってくるとノベルティーとしてのアートの要素が希薄になり私達はしばしばどこにセンサーが隠してあるのか、なんの情報を検出して作品を動かしているのかなどといった謎解きにはしってしまい本来の作品体験とは別の関心でもって作品を鑑賞することがしばしばおこる。多くの作品においてこの部分だけが記憶に残る作品(仕掛けの謎解き)はその用いられたテクネがハイエンドであればあるほどそちらの方(テクネ)の芸術性(創造性)に関心が移ってしまうのである。そして、とってつけたようにセンサーが鑑賞者に作品鑑賞を強いるとき私達は時々しらけてしまうのである。「ああ、手をこうかざしてセンサーが反応しているのね」といったぐあいに。

"ART FIELD"という学生自主企画による展覧会が7月の暑いさなか行われた。これは名古屋造形芸術大学総合造形コース3年次の授業(中瀬講師ゼミ)の一環として行われ、たった1時間しか展示されない作品もあるテンポラリーな作品発表会である。美術を目的にして作られた展示会場以外の場所(日常空間)を参加者自らが見つけてその場所の所有者、管理者などと交渉し展示まで自主管理で行うことを主旨としている。この中で電気的仕掛けを用いた数点の作品についてコメントすることは、先に述べたセンサーを用いた作品についてのある視点を示すことになるだろう。と同時にサイトスペシフィックなメディアインスタレーションの可能性について言及できるだろう。 

C.Drewの作品は春日井文化フォーラムの中の図書館の入り口付近に展示されたメデイアインスタレーションである。アメリカから短期留学で来日している彼が今回の作品のテーマに選んだのは「同時多発テロ以後のアメリカでの検閲システム、特に図書館での指紋照合による閲覧システムが個人のプライバシーの侵害である」という、表現者にとっても、避けて通れない問題についてをテーマにしている。
 ここで彼が用いているのは磁界によるタッチセンサーとリレー、タイマーIC555によるスイッチングでサーボモーターを制御するというキネティックにとってはわりと基本の仕組みを用いたものである。具体的には鑑賞者(体験者)が手形と指紋が描かれたコントロールデバイス(インターフェース)に手をかざし、指を動かすことで、その前に乱雑にインスタレーションされている本がページをめくりだすというものである。
 この作品のインターフェイスが成功しているのはオーディエンスが手をかざすという行為がセンサーを反応させるという仕掛けであると同時に作品の目的である指紋照合というテーマと一致していることである。オーディエンスは自分の手をかざすだけで本がページをめくるというトリッキーな仕掛けを体験すると同時にその手形に描かれている指紋の記号に思いをめぐらせることになる。実際に指紋照合システムが何らかのセンサーを使っていることは想像できる。この作品のセンサーが指紋を照合するものでないとしても私達が個人情報を監理、監視されていることへの想像をこの作品は示唆しているのである。一方でこのシステムは作品を一定時間所有するシステムでもあり、また指紋照合システムを使用すればより個人的にこの作品を所有することが可能であるかというセキュリティの問題に転化させることも可能である。

佐藤綾香の作品は7/22の夕方5:30-6:30一時間だけ金山駅のジャンボモニターを用いて行われたインスタレーションである。この作品はまず、場所の設定において通勤客が多く往来する駅のコンコースを用いたということが成功している。いやがうえにも、ここを往来する人々は日常性の中に仕掛けられたちょっとした異化(de-familiarization)に意識するしないに関わらず直面せざるお得ない。 ここで佐藤が用いた仕掛けは駅にある既存のジャンボモニターにDVビデオカメラからのライブ映像を映し出すというものであるが、DVビデオカメラが備えている静止画ショットを用いることで映し出されたライブ映像に異化を仕組むことに成功した。静止画に切り替えるスイッチを赤外線センサーーソレノイド、カウンターと連動させることでジャンボモニター前を通過する人々を静止画にフォーカスする。
 既存の電子機器が備えている機能を組み合わせることで一つの作品環境を作り上げた。シャッター音と画面の切り替えが通過する人々を一瞬立ち止まらせる。
 佐藤はこの作品において何気なく過ぎていく日常の時間を意識させるという目的で作ったというが、この作品はそういった意図と同時にDrewの作品が示唆していた監視とメディア環境の関係を結果として明示することにもなった。

高須の作品にはセンサーは用いられていない。明治村近くの入鹿池を作用空間に用いた作品である。バスツアーで入鹿池に近付くにつれ、この広大な場所をロケーションとして使用する作品がいかに物量的に大きな物であっても作品は陳腐なものになってしまうのではないかと勝手に想像していた私の心配はもろくもはぐらかされた。
入鹿池のボート乗り場にある桟橋に10人限定で体験可能なこの作品は、その桟橋の先端にある腐りかけた竹筒を不安定な桟橋先端にしゃがんで鑑賞(鑑聴)するというものである。池の中を覗き込むような格好で竹筒を耳にもっていけば、そこからはノイズまじりの犬のなきごえや、日常的な街なかの音が聞こえてくる。
 高須はこの音を、この人工池が作られることになり池の中にしずむことになって離散した5つの村の、そのうち4つまでの移転先をつきとめ、その場所に足を運んで採集した音を現在水中にあるであろう過去の街の上で再生したのである。密やかで、視覚的には作品として何もないに等しいこの作品は、それゆえにこの場所の空間、この場所にまつわる時間を取り込んでモニュメンタルな作品となっている。視覚でなく音をメディアに用いているが故に私達体験者の想像はより刺激され、体験後に桟橋をゆれながら戻って再びこの池を見る鑑賞者の視覚体験に影響を与えたのである。

以上、3つの作品は何らかの電子メディアを用いていながら、そのメディア、テクネだけが意識されず、その作品が設置された場所と結びつくことで始めて作品として良質なものとなっていたのではなかっただろうか。

Kiminari HASHIMOTO / 28.July 2002      Recalled from broken i-book