2017年12月23日土曜日

新しい「人」の誕生?眼差しをむけた「場」が未来になる。

1980年のある日、名古屋駅前の映画館で「2001年宇宙の旅」が上映されてるのにでくわして、映画館に入った。大画面で見る宇宙空間は映画館での上映に適した表現であった。宇宙空間を漂っている宇宙船を見ているとき、ゆらゆら体が揺れているような心地よい感覚がやってきた。無重力体感映像!?

地震だった。

この時の地震体験は、この映画の記憶に貼りついて忘れられないものになった。

ボーマン船長のたどり着いたインテリアと、その眼差しとクリップを変えるシーンは一般に解釈されている原作にある「大きな生命(スター・チャイルド)への進化」するという意味合いではないものを感じて、その後VHSビデオ版を買って何度も最後のシーンを繰り返し見ることになるのだが、、
このシーンはキューブリックの映像に立ち会うことでこそ得られる映画鑑賞的表現がもたらす感覚と問いであろう。映画を見ているオーディエンスの眼差しと同じくするように画中のボーマン船長の眼差しとそれが指し示す次のクリップへの切り換えが、時間の不可逆的な流れを高速で示しているように見えながらも映画的時間を内包した可逆的時間というものを感じさせる。オーディエンスの眼差しと画中の眼差しの交差と誘導。同じくSF映画のジャンルにくくられるタルコフスキーの「ソラリス」が示した生命体についてと相似形をなしているように感じる。


かつてぼんやりだが、一瞬通過した「場」、記憶の片隅にある、眼差しを向けた、その「場」に何年後かに自分がいる。というふしぎを感じたことがおありだろうか。
今、私が住んでいる賃貸マンションの場所は、四十年近く前に愛知にやってきた当時、まぎれもなく眼差しを向けた場所なのである。上司の運転する車で郊外のフラワーセンターへ視察に行った時であり、豊田へ向けての幹線道路が開通してまもなくだったかもしれない。なぜそう思うのかというと私が眼差しを向けていたのは雨で泥交じりの道路と、その道路わきに土地を切り開いたであろうと想像される草木のないむき出しの「土」が堤防のようにそそり立っていたからだ。車で一瞬通り過ぎただけの場所なのだが。不思議なことに、紆余曲折があって、その時から二十年近く後にその場所に住むことになり現在に至る。そこを通過した四十年近く前には、土が盛られた何もない所であったその場所に住んでいる自分など想像だにしていなかった場所にである。

眼差しとその予兆。眼差しを向けた場が未来になる。
その体験を実感し反芻する時、「2001年…」のボーマン船長の眼差しのシーンを思い出すのである。




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「確信犯」が提示する1968年からの半世紀。「THE EUGENE Studio 1/2 Century later.」
https://bijutsutecho.com/insight/10305/

 本展の中心となる《善悪の荒野》(2017)で、THE EUGENE Studioは、このシーンに現れる真っ白な部屋を精巧に再現し、燃焼させた。
 高度なコンピューターが人類の進化のためにつくったこの部屋は、本物の大理石や18世紀に作られたアンティークの調度品、スタジオで再現制作した油絵、ジェームズ・フレイザー『金枝篇』の古書などによりに構成されている。『2001年宇宙の旅』の中で、ボーマン船長は時空移動のために急速に老い、最後はスター・チャイルドと呼ばれる赤ん坊へと「進化」する。スター・チャイルドが白い部屋を出て地球を眺めるとき、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れ、宇宙人によって進化を遂げ、超人の姿に永劫回帰する新人類の姿を伴奏する。本作のタイトル《善悪の荒野》は、ニーチェの『善悪の彼岸』を思わせるが、この映画との関連から引き出されたのだろうか。