2020年7月13日月曜日

今、感じる恐怖 ~「新しい日常」が「成立する」





振り返ってみれば、

メディアによる中国武漢のおぞましいパンデミック映像から始まり、日本でのクルーズ船に人々の目が釘付けになっている中、準備は着々と進んでいたのだろうか。
かく言う私も年齢的な条件もさることながら呼吸器系に疾患を抱えているので、迫りくる現実的な死の恐怖が日々増大し家に引きこもっていた。とは言うものの、もともとが自宅での個人事業で仕事の依頼や納品はメールや宅急便がほとんどだから、引きこもり生活はそれほど新たな習慣ではなかった。それでも街に出なければならない用事は一定程度あり、しかしそんな時も公共交通機関には一切乗らず外出はもっぱら原付バイクであった。だけどそれもまた、以前と変わらない行動なのだ。
ただこの時期のことを想いかえすと、私が現実的な恐怖に囚われたように、私より上の世代の人が皆、映像と情報によって恐怖に洗脳されたのだ。世代間の分断。演繹法で現実社会を観察する、自身の立つ足元を見る、という姿勢を公言し私がリスペクトしていた芸術家までも。である。それほどまでに人の大脳に直接影響を与える映像と情報の力は絶大なのだ。

世界規模で、すべての人が参加するコロナ禍という一大イベントにとって、オリンピックなど小さな出来事にすぎない。しかし象徴性があるので、それも利用しなくてはインパクトがないだろうとでもいわんばかりに「開催は無理だろ」「いやそんなことになれば大きな経済損失に」など、にわか評論家の大衆に偽装した意見がメディアでにぎやかに宣伝され、それを見る大衆もまた、メディアウイルスという新型ウイルスによって大脳がじわじわ侵されていった。そんな中でも準備は粛々と整ってオリンピック延期が発表されるや否や「withコロナという新しい日常」が晴れてめでたく成立した。

それはあまりにもスムーズに進行したので、あらかじめ準備されたシナリオどおりの出来事のように見えた。帰納法によってあらかじめ設定された未来に誘導するため、都合よく情報が選択、発信されているようにも見えた。感染症は方便で、経済低成長時代のガラガラポンなのか?、一向に進まぬデジタル産業革命の最終段階の仕上げ?、ビックデータによるAIデジタル管理社会 IoTに完全移行する強硬突破?のように感じたものである。しかし一方で、地球規模の人、モノ移動拡大という文明の方向が、グローバル化の方向を強制終了し、大きく舵を切った転換の時代に立ち会っていると、今、この大転換という時に生きていることにある意味ワクワクもしていた。
時代の大きな転換期に立ち会うということは、物事が「成立する」とはどういうことかを現実に自身の身をもって実体験することなのである。

「成立する」とは、それはひとたび成立してしまうと、正しさ、正しくなさは問題ではなく、流れと逆の方向に行こうとするものを排除する。今や新たな感染症は存在しないなんて誰も言えなくなってしまった。「新型コロナウイルスと言われているものは誤って、あるいはある意図をもって遺伝子バンクに登録された、誰もが自分の体内のもつ常在ウイルスの一種であり、それをPCR検査すれば検査しただけ感染者が見つかる」(1)なんて言おうものなら頭がおかしいか、陰謀論者とレッテルが貼られ袋タタキにあう勢いだ。
世の中の多くの人々が何の疑いもなく信じることとして成立してしまった出来事に、対抗するような異なる分析を見る者は、権力者によって抹殺されるのではなく、大衆によって殺される。その様子を想像すれば皮肉にも外部からの異物としてのウイルスに対する免疫作用のようだ。しかしこれは正常な免疫作用だろうか。サイトカインストームのように自身の免疫が変異した誤った情報異物に反応してしまってるのではないか。
今、マスクをせずコンビニに行くことは感染症の恐怖ではなく、みんなと同じことをしないことに対する他者の視線の恐怖である。「マスク警察」「自粛警察」に対する恐怖である。
身体にチップを埋め込んで個人情報の管理検閲といった大掛かりなことをやらなくてもできる、なんとコンビニエントな個体管理(世界制覇)だろう。


私が今、感じる恐怖は、ウイルス感染症による病死ではなくなった。
私が今、感じる恐怖は「成立したこと」による大衆の情報感染による脳死である。


「withコロナという新しい日常」は完全に成立した。
しかし、そのきっかけとなった「感染症としての新型コロナウイルス」は成立しているのだろうか?
「SARS-CoV-2」と命名され、遺伝子情報が登録されたのだから成立したのだろう。
それでは「新型コロナウイルス感染症」は感染病として科学的に成立しているのだろうか?




4.July 2020- 12:00



ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回っている」と言ったとされる、あの頃はこういった日常だっただろうか。
第二次世界大戦の前夜はこういう日常だっただろうか。




July 13, 2020 橋本公成


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1. 徳島大学名誉教授、免疫生物学専門の大橋眞(まこと)医学博士によるYouTubeブログ/ 学びラウンジ 2020/06/04「コロナの新型とは何か コロナ騒動の真相に迫る」より
https://www.youtube.com/watch?v=pMPO1Nhrey8&fbclid=IwAR2JlZcwBsHnwJdMO5x-Cc3dskHBPTyK7KmmekbA3u8PZP4qBgtYXXCdc0o



【オンライン授業の成立】ということ 200330



身近なところではオンライン授業が従来の通信教育と同じような<方法>としてのところでのみ議論されているような気がして懸念するのですが、
もしそうであるなら、そもそも専門設備を利用することができる環境としての「箱」はいらないし、
というより<大学>という機関を成立させている古代ギリシャ以来の「アカデミア」という概念が崩壊する。

橋本 公成
2020年3月30日

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“..now that the precedent has been set, on-line education could become the norm, not the exception. Or, that in-person versus online could eventually become the difference between private and public education, which would only serve to exacerbate the wealth and access-to-culture gap between the haves and the have-nots,”
「..今や先例が決まったので、オンライン教育は例外ではなく標準になる可能性があります。または、その対面対オンラインが最終的に私立と公立の教育の違いになる可能性があり、それは富と文化へのアクセスへのアクセスを持っている人と持っていない人の間のギャップを悪化させるだけです」
Art Students Demand University Accountability and Reimbursements During Pandemic
Students at some of the most renowned art universities in the country, including the Rhode Island School of Design, Yale, and NYU Tisch, are sounding alarm bells about their schools’ handling of the COVID-19 crisis.

Valentina Di Liscia  March 27, 2020 

https://hyperallergic.com/549734/art-students-covid-19/?fbclid=IwAR04KHcmxTpACIUMREupP68qTQlZwH4mIKHjr9E_8NZO5Kpvf0AnSVZtBKQ





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追記1  July 6, 2020  (on facebook) -----------

この映像は、「科学のある世界」と「科学のない世界」に分断された今の日本で、現実を見手分析するという科学の基本に立った数少ないまともな会見だと思ったのです。
前半の現状説明はデモクラシータイムズの配信がまとまった形で示されていて、これだけみるだけでわかりやすいです。最後の方の児玉龍彦先生の力強い訴え、大学封鎖批判と倫理に対する姿勢は必聴だと思ったのです。

https://www.youtube.com/watch?v=8qW7rkFsvvM&fbclid=IwAR0NzyXKurzUi9cBlYA7XZXcX50YkM14e30g2f2hPAZ32WgkhKc8rVmDo5w

しかし、その後の国会での悲壮感あふれる答弁を聞き、この先生も多くのことを背負わされているのかな、科学と異なる何かに従ってるようで残念な気分になりましたね。。



追記2 July 13, 2020 ----------

半年後に振り返ってみれば。
メディアによる中国武漢のおぞましいパンデミック映像から始まり、日本でのクルーズ船に人々の目が釘付けになっている中、準備は着々と進んでいた。
かく言うう私も、呼吸器系に疾患を抱えているので、迫りくる死に日々恐怖が増大し家に引きこもっていた。もともとが自宅での個人事業だから引きこもり生活はそれほど新たな習慣ではなかったが、公共交通機関には一切乗っていない。外出はもっぱら原付バイクであった。
世界規模で、すべての人が参加するコロナ禍という大イベントにとって、オリンピックなど小さな出来事にすぎない。しかし象徴性があるので、それも利用しなくてはならないとでもいうように「開催は無理だろ」「いやそんなことになれば大きな経済損失に」など、にわか評論家の大衆意見がメディアでにぎやかに展開され、それを見る大衆もまた、気分が誘導された。そんな中でも準備は粛々と整ってオリンピック延期が発表されるや否や「withコロナという新しい生活」「新しい日常」が成立した。
それはあまりにもスムーズに進行するので、あらかじめ準備されたシナリオどおりの出来事のように感じていた。感染症は方便で、一向に進まぬデジタル産業革命の最終段階の仕上げ、デジタル生活に完全移行する強硬突破のように感じたのも事実である。しかし一方で、世界的な人とモノの移動による文明の方向が、グローバル化の方向を強制終了し、大きく舵を切った転換の時代に立ち会っていると、ある意味ワクワクもしていたのも事実である。
時代の大きな転換に立ち会っていると思ったことは、物事が「成立する」とはどういうことかということを現実に自身の身をもって実体験することなのである。
「成立する」とは、それはひとたび成立してしまうと、正しさ、正しくなさは不問にされ、流れと逆の方向に行こうとするものを排除する世界である。そんな考えを持つものは権力者によって抹殺されるのではなく、大衆によって殺されるのかもしれない。私が今、感じる恐怖は感染症による死ではなく、「成立したこと」による脳死である。
第二次世界大戦の前夜もこういう日常だっただろうか。

<別稿へ続く>








2020年7月3日金曜日

版下絵画とコピー機による多色版画



世界的に知られる北斎の「神奈川沖浪裏」図。これは版画なので、北斎の原画は存在しない。
あたりまえのことであるが北斎の肉筆画ではなく、北斎の版下指示による印刷物である。
和紙に描かれた原画は裏返され直接、骨版の版木に糊付けされ、彫師は原画ともども彫刻刀で彫り、不要部分は版木の屑として捨てられる。
それでは骨版のない部分輪郭線のない部分は多色刷り版画としてどのように合体させたのだろうか?と考えると、原画には薄墨で波の陰影や空の雲が描かれていたと想像できる。
骨描き部分と色面部分の二種の原画=版下が北斎自身によって紙に描き起したのか、あるいは、彫師が原画から、まず版木に原画を貼る前に骨版だけトレースしたのか?はわからない。
原画は色分けされた彩色画であったかどうかはわからないが、廃棄されてしまう原画に丁寧にタブローのごとく彩色したとは思われない。
墨によるモノクロの原画とともに、片ぼかしの領域や方向の注釈指示や色指示をした版下と考えるのが妥当だろう。

アドビ・イラストレータ―が登場し、デジタル版下が当たり前の今、少し前の紙による版下を経験してきた者は以上のように北斎の版画について考える。
























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富嶽三十六景
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B6%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%99%AF




富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 
By After Katsushika Hokusai - Own work, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2646210





2020年7月1日水曜日

200616作品菊三題

"200616菊00-ヨーカドーピアゴ" Kiminari Hashimoto 

"200616菊00-ヨーカドー" Kiminari Hashimoto 

"200616菊00-ピアゴ" Kiminari Hashimoto