2024年8月15日木曜日

「夫人Aを見る観者とそれを視る監者」

奇跡的なⅠ枚が撮れた。
夫人像Aを見る観者とそれを視る監視者。

「夫人Aを見る観者とそれを視る監者」2024 Apple ipod touch
(松本竣介<街>と昭和モダン 碧南市藤井達吉現代美術館にて)


何が奇跡的かというと、三者の視線と大きさが絶妙な構図に収まり、なによりもこの一枚の写真で自身がかつて大掛かりな構造物とインスタレーションで行おうとしていた意図が示された謎解きのような画像であるということだ。


(松本竣介<街>と昭和モダン 碧南市藤井達吉現代美術館にて)
 対象と向き合う観る者が対象と一緒に映り、その状況を他の見る者が見ている。

こういった環境を作品の作用空間として始めたのが1991年の秋以降のことだった。その時期がなぜ特定できるかと言えば、ちょうどその頃に山本圭吾先生のアーテック '91出品作のビデオインスタレーション「地の呼吸」の外観イメージを伏見の砂糖会館3階で制作し手伝ったこと、その後92年5月の2回目の個展の作品を映像装置を組み込んだものにしようと構想して取り掛かっていたことによる。そして、その実験的な作品とはちょうど先日破棄したばかりの作品だ。
論理的思考に沿って制作を行うことが苦手な者にとって、なぜそのような形を成す作品に至ったかや制作意図などを明解に言語化することは難しい。しかし三十数年たてば過去というものは遠くなることで焦点を結び対象としてはっきりピントが合ってくる。その当時ぼんやりしていた幾多のことが明快な言語として時に降りてくる。改めて、その詳細については別稿しようと思う。今回はそのとっかかりがたまたま見に行った 松本竣介<街>と昭和モダン(碧南市藤井達吉現代美術館)で撮影した写真によって顕在化したことに驚いたのだった。



青春美術

 松本竣介の絵を初めて図版で見たのは中学校だったか高校だったかの国語の教科書だったと思う。分厚い教科書の薄い表紙を開けるといつも赤茶っぽい「画家の像」の艶のあるカラー図版が目に飛び込んできた。どういう経緯で教科書の初めに掲載されていたかは推測するしかないが、その絵は1941年8月作であることなど今になって知れば同年の『みずゑ』4月号(437号)に発表した「生きてゐる画家」で軍部による美術への干渉に抗議したことと関係しているのかとみることもできる。それとも仕事をしていたという育英社との関係によるのだろうか。あるいは自身がすっかり忘れているが教科書の中に松本竣介が書いた文筆があったのかも知れない。などと当時、全然意識していなかったことや思い出すこともなかった絵のことを思い出し、意外と思春期の頃より頻繁に見ていたことに我ながら驚いた。
「画家の像」は1941年8月作で28回二科展に出品されたP100号の板に描いた油彩で29歳頃の作品である。その絵は今回の出開帳には来ていないが、翌1942年作の絵が数点展示されていた。
松本竣介の絵は学生時代に東京で見たり、作品集で頻繁に見ていたが、当時、フジタやキスリングとの比較で見たことはあまりなかった。今回見た模造紙に鉛筆で描かれた風景やこの写真の婦人像Aは確かにフジタの影響を見ることもできるし、今回特別出品された「黒いコート」もキスリングを思わせるし、風景画はユトリロを連想させるかもしれない。しかしエコールドパリ、池袋モンパルナスといった日本でのロマンチックな言葉が示すような弱さは竣介の絵には見られない。


頭部の小さい構図と色彩がキスリングを思わせるが、キスリングのようにロマンチックでない。










2024年7月28日日曜日

240728 洞

 


fb詠み人知らずコメント
つきの さちこ
こんにちは,Hashimoto様
部屋の外で撮った写真を見たのですが、とても感動しました。どこにいても自然の美しさを捉えることを楽しんでくださいね。それを見た人の注目を集めるような景色を作るために、何をしたのか教えていただけますか❓

橋本 公成
大昔に景色を創ろうとしたことがありました。しかしそれは枯れ、廃墟の模型になりました。そう、三十数年前この場所を借り始めた頃のことです。
そしてこの窓の風景は何もしなかった結果です。窓の横にある換気扇の隙間から侵入した植物は、再び光を求め体をよじって自力でガラス戸の隙間をこじ開け太い幹の木に成長してガラスを割りました。幹は窓外に出て涼しげに葉を茂らせています。
自然は恐ろしいのですよ。家を飲み込んでゆくのです。何もしなければ。






2024年6月5日水曜日

フォトスタット

 


 80年代に仕事先で使用していた製版カメラです。今はTooと名前が変わったデザイン画材屋 いづみや さんが扱っていたアメリカ製のカメラです。カラーコピー機の無い頃はペンと水彩画で描かれた陶磁器人形の完成イメージスケッチをカラー撮影してアメリカのバイヤーに郵送しデザインの確認をしていました。メインはカタログやチラシなどの製版や陶磁器の転写原稿作成用のものですが、僕はずっとこのカメラの管理を任されていたので、立体撮影に使ったりいろいろ実験的なことをして遊びました。自身のカメラ歴の中ではもっとも長い時間かかわったカメラかも。明室で撮影から現像までできるカメラでした。


Too 100年ヒストリー
II 機材の取り扱いがスタート
1970(昭和45)年〜1987(昭和62)年

いづみや さんはTooと社名を変えて今もありますが、このアメリカ製のカメラを参考に独自で開発し商品化しました。長くかかわったのはこの日本製の方だったかも。個人用に印画紙とフィルムを買って、作品やドローイング制作に使用しました。デジタル入稿に完全に変わった時、このカメラをもらいました。今世紀初頭の頃です。 

ステッピングモーターやスクリューで50 ~400%?くらい調整でき、ハロゲンライトで露光時間も制御でき、レンズも利用できる。



処分を決めたのでキネティック部品として欲しいという方はメッセまでどうぞ。20数年たってるので現像定着液のサービスは終了してるため製版カメラとしての使用はできません。