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2024年12月8日日曜日

241208 土星食の日 に 影がボリュームを持った立体として立ち上がる

影がボリュームを持った立体として立ち上がる 01- 241208-11:23

 


影がボリュームを持った立体として立ち上がる 02- 241208-1123


2024年9月20日金曜日

Re: 箱男




70年代の 見る/見られる の関係とか 匿名性の自由 とか、そんなことが現実に進行しているスピードの中で追い越され、

戸田君らと見に行く予定が、伏見まで夕方出かけるのは少々難しくなり、昨日ラストの三好movicへ滑り込みで行ってきました。石井監督作品を映画館で見るのは何と学生時代に小松の映画館まで行ってみた「高校大パニック」以来というなんと46年ぶり。やはり同じ頃よく読んだ安倍公房の作品「箱男」

  匿名性 ということについて ですけども まああのこの原作本が書かれたのが1973年 なんですね。 だから今から もう51年前 なんでこの映画が作られた 年とか考えても まあ 50年ぐらい経ってるわけですね。 安部公房 さんの 小説も学生の頃からよく読みました。 実存とか 存在とかその個人を主に考えると 不条理性 というのが浮き上がってくるわけなんですけども 、現代 その50年経った今 僕が見ている世界っていうのはまあ今この SNS で誰もがネットの海に 自分の言葉で世の中のことを発信することができるようになり、それがAI の肥やしになるっていうか。人工知能 AI の拠り所となる。集合知ですね。
 個人の個人個人の複数のものが集まってできた知識っていうのが集合の知識。人類としての知識を形作っていくというのが 現実的に今もう進行中で 見えるようになってるというか、普通にそういった方法を使用して生きている世の中になっている。というかそもそも知識も個人が作ったものではないですね。
50年前に安部公房さんがテーマとしてなかったかもしれない評論家とかその読む人が逆に あの個人の不条理とかそういったことを について 感じていた あれは見る見られるという関係性とかその 気持ち悪さとか ということを ということに視点が置かれてたわけなんですけども 今回 その男 の映画を見て 感じたのはまあそういったことがあの今映画で展開されるというのが まああのすごく ちょっともう 時代遅れかな。 特にこの最後の ところなんかは 最後とかあのエンドロールとかで流れてる 携帯の音とか まあちょっと 古臭いかな と特に最後のセリフ 、主人公の永瀬さんさんが最後 叫ぶ ちょっと前に映る映像 映画館で見てる観客 新鮮味はあまり感じなかったところでもあるんですね。

 面白かった のは意外と 僕は箱の中から覗くっていうのが カメラオブスクラというかカメラの原型ですね。 ピンホールカメラ 箱に穴を開けて箱の内側に外の世界を映す という そのメタファー 的な感じであったりとか。 箱の中に人が入るって言うの とか合体して人間の身体のメタファー 的な感じで箱が扱われてるような感じがして そういうところが 逆に 面白かったですね。
オープニングの映像が 森山大道さんみたいなモノクロの荒れた粒子の画像であったりとか、箱の中が暗室になってるとか。90年代初頭発売のコンタックスT2で撮影してるとか。箱の中が赤い暗室ランプで、撮影した写真のネガをその箱の中で現像してるということなど、人ひとり隠れるのがやっとという大きさなのにその内部空間の容量の大きさなど、映画ならではの面白かったところです。 そんなところかな。意外とカメラ について を考えるようなところもあって面白かった。
箱男がこう 覗き見してるという 覗き見 という こと に関しては 江戸川乱歩の 「人間椅子」とかをやっぱり 思い出させるような そういったなんか フェティシズム的な あの エロチシズム の 雰囲気を感じる ところ また 谷崎潤一郎とかそういったものと 漢字 共通の 感覚を覚える ようなところも ありました それは映画に映画にしたから そうなったのか 安倍公房さんの原作 この原作は僕も呼んだか 読んでないか ちょっと記憶がすごく 曖昧で もう1回 音を買って読もうと思いますけども そんな感じですかね というような感じでした 
「見る/見られる」って言うことについては 僕も92年頃 見る 見られるという関係を主題にしたわけじゃないんですけども 結果的にそういった作品 ライブカメラでモニターに移してそれを 構造物の 一部と合体させて観客 自身が自分もひっくるめた映像を見るというような作品も作ってたので、見る 見られるという関係についても改めてこの作品の論評 で出てくるひとつのテーマでまあ自分の作品についても改めて気づいたという感じです 
以上

> ----- 引用元メッセージ -----
> From:"kiminari"  <kimikimi993312@yahoo.co.jp>
> To:"橋本公成" <kimikimi993312@yahoo.co.jp>
> 日時:2024/09/20 金 00:06
> 件名:箱男
 Re: 箱男

30分前2024/09/20 金曜日 00:14

当時の不気味さが、今はその環境が当たり前になって、不気味さが異なる次元に行っている。というか、不気味でも何でもないようになってる日常こそが不気味。
さっきの集合知の話ですね AI の時代におけるこの集合知ですね このことについても気づいたのはまあ 父親が12年前 いなくなったんですけども その最後の3ヶ月間 まああの 僕もですし 弟もです しまああの母親はまあ つきっきりで病室に泊まり込んだりしてまあ 父との最後の3ヶ月をそれぞれ 過ごしたわけですね その 僕もあの病室に泊まって夜中に 航空ゲタンとかの処理を したりとか まあ 初めて そういったこともやりました それぞれのそういったあの 日々をあのうちの家ってのはみんなに気を書くのが 僕もまあ ずっと 今まで続いてることといえば まあ日記を書く 小さい頃からまあ 途切れずに 続いてるって事は日記 なんですね それでまあその時に感じたのはその父のマイツ 終わるかもしれない 最後の命の 終わる頃 それぞれ まあ 3名がそれぞれの日記を書いてるわけですね 思ったのがまあ 1つの出来事に対してこう 3人がそれぞれの視点で 言語化しているということにまあ 非常に 興味深い ことだなと思ったわけです 2 曲書いてたりもしながら 時々話したりもするんですけども いずれそう の記憶 ってのは その 僕の記憶とか弟の記憶が僕のと混ざったりして 書き換えられたりしていくわけですね そんな風に その1つの出来事 出来事っていうのは 一つなんですけども それを 感じてるのは3名にいた看護婦さんとかも 記憶していればそういった 別の感覚を持って その出来事に接してるわけですね だけどそれぞれのあの 出来事に対する思いってのは あの 曖昧になったり 混ざったりして残る残っていくことができた記憶だけが残っていく という それがまあ 1つの 歴史というものもそうなんだろうというようなことですね だからこの歴史で真実はこうだったとか言いつつも まあ 小説 いろいろあるわけですね 遺跡が出てきたり 後々の時代に対する測定方法が科学的に発見されたりまあそういったこともあるわけなんですけども 結局 残った 記憶が歴史を作って いく それが 正しい出来事 正しく そういうことが起こったという確定した出来事 ではないかもしれない 残って編集されたものが 歴史 になっていく 若い頃は そういったことに反発してたわけですね なんか それは嘘の話 あると しかし今も こうしよう 迎える年になってくると なんかその辺のお考えは変わってきて 残ったものが歴史になっていく っていう 風な考えに変わってきたわけですね 集合地によって人工知能が答えを導き出すような 世の中と 非常に近しい そういった 便利な ことが起こったからそう思ってるのか いや そうじゃなくて 昔から結局そういうことだったということなのかまあそんなことも一緒に考えたわけです つまり 映画の中で 店の箱男とか ただ みんな そのノートを書いてるわけですね 人間が本物の箱男かとか店の箱男とか それがどんどん入れ替わっても ごちゃごちゃになっていくんですけども 結局そのテキストは誰が書いたものなのかということだったり 本当の箱男とは 誰なのかとかそんなことじゃないんですね 結局は民衆 大衆の多数が全て開く男であり 匿名であり無名である そういったものの中で 書かれて ごっちゃになって残っていったテキストが 歴史であるみたいなことも まあ 感じた映画でもあります。 
追記 終わり

 石井監督と言うと僕の1つ上の歳なんですけども 学生時代に作った映画 1976年製作の「高校大パニック」78年に日活から 共同監督で リメイク されて これを見に行ったと思うんですけども、それ以来ですね。50年近くぶりに石井監督の映画を映画館で見た感想です。


2024年9月8日日曜日

車窓と視覚、鉄道と映像





「車窓と視覚, 鉄道と映像」という論文を以前も書き始めたんですけれど、この論文はまだはっきりとまとまっていない状態なんです。しかし、まとまってなくても思いついた時にメモらなければまた脳みその奥まったところに入り込んで行方不明になってしまうものですから絶えづ引きずり出して反芻するのです。
こんな状況の中で昨日「美術評論+」というメール便で 秋丸知貴さんという批評家の人が「セザンヌと鉄道」の論文を三部作で3回に分けて英文でアップされていて、それをざっと 読みました。車窓と視覚 の問題を セザンヌの有名なサント・ヴィクトワール山の風景画を 描いた現場を訪れて分析されているような論文です。秋丸さん自身が撮影された現地の写真や動画がいくつか 参照されています。それが現代の風景とセザンヌが描いた風景画との比較の中で示されていて、車窓のイメージが結構大きい ような感じもあったり、鉄道ができたことによって得られた視覚であるということに導かれてます。



●秋丸知貴氏の論文サイト(英文)------------
Cézanne and the Railway (1): A Transformation of Visual Perception in the 19th Century
セザンヌと鉄道(1):19世紀における視覚の変容

Cézanne and the Railway (2): The Earliest Railway Painting Among the French Impressionists
セザンヌと鉄道(2):フランス印象派の最初期の鉄道画

Cézanne and the Railway (3): His Railway Subjects in Aix-en-Provence
セザンヌと鉄道(3):エクスアンプロヴァンスにおける鉄道の題材
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論文と試作品 (prototype)
作品「エレクトリック・ハート・マザー」(Electric Hart Mother)について


 さて、私が車窓の視覚に興味持ったのは名古屋から大阪の実家にいつも使用する近鉄電車の車窓から見た風景で考えたことでした。ある日たまたま乗った車両の喫煙席がかなり豪華な個室が作られていまして そこの部屋が大きな車窓になっていてすごく映像体験装置的な空間であったということに驚いて、その時の体験を論文のようなメモとして書いたわけです。(注01)

鉄道と映像っていうのは以前から関心がありました。92~93年に作った作品の「エレクトリック・ハート・マザー」という大きな構造物があるんですけども これは 観客が作品を見る 正面に立てば、その観客自身が2台のビデオカメラで写されて写した映像がライブで2台のブラウン管テレビに表示され、それが見てる人の正面のに取り付けられたハープ ミラーに映る。でそのハーフミラーの内側っていうか奥というのが ダイオラマ 実際に奥行きを持ったダイオラマとして作られている風景の中に合成されるという感じなんです。2台のビデオカメラと2台のテレビブラウン チューブってのは それぞれ動いてまして、カメラは左右にパンしています。テレビのブラウン管は上下に動いてる。その機械的な仕組み、構造自体がをSL の車輪とロットを模したような仕掛けにして見せています。
イメージとしてはこうなんですけど、映像装置的に視点で見ればライブカメラによるビデオインスタレーションであるわけです。


  作品の下の部分はそういった機械的な仕組みを見せているっていうことなんですけども、上の部分っていうのはイメージの世界として作っています。窓のような部分 開口部みたいな部分から見た奥は先ほど説明しましたように風景のダイオラマになっています。廃墟のような感じで一部 原爆ドームのレンガ壁を模倣しながら現実の風景の再現ではない様子も加えながら、風景を創ろうとしたのです。その風景の中には 実際 水が流れる川のようなものが作られてます。その川は正面から見た時にははっきりとは水の流れは見えないんですけども 水が流れてる音はしているのと光源によってキラキラしてるので水の流れの気配は感じれるようになっています。流れる水は下の水槽にチューブでつながって水を溜めながら またポンプで上に循環しているという構造になってます。
 この上部には形が与えられていて、まあ言ってみれば風景(ダイオラマ)を覆うようにパッケージとして外観もデザインしているわけです。その形というのが子宮とそれを囲む骨盤のイメージで作られています。まあこの唐突な形状が上から見なければ形状の全体像が分からないということで、そのことがより一層この作品のわかりにくさを露呈しています。

 このように外観の説明だけでも、作品「エレクトリック・ハート・マザー」(Electric Hart Mother 以後EHMと表示)は様々な切り口で作品を成立させようとした結果、要素が多くて何を言いたいのかわりにくいものになった。わかんない上に ガチャガチャ動いててなんか動いてるだけで興味は惹くんだけど、大きさもまあまあ大きいので興味は惹くんだけど何かよくわからないっていうような感じでもあったりするわけなんですね。
ここに説明していない部分では音と光(光源の調光)の要素も複雑に映像、視覚的要素と関係しあっています。



私の作品ってのは全部このプロトタイプ(試作品)で完成作というものがあるのか?という感じなんですね。この作品EHMもバージョン1から2、3という風にどんどん付け足しながら より はっきりさせていくような感じで作っていったわけです。1年ぐらいかけて バージョンアップしていったわけです。制作にはそれなりに費用もかかるわけで、その費用は制作補助金として企画展に選別されるたびに支給された制作補助金をあてて、つづけたわけです。
最初の展覧会 cool break (クール・ブレイク) 次に名古屋国際ビエンナーレ アーテック  アペルト展 (名古屋市美術館、名古屋科学館)ふくいビデオナーレ(福井県美術館)そのあとキリンビールのアワードに出して受賞昨展示でキリンプラザ大阪と横浜、キリン生麦工場のキリンビアビレッジで展示しました。制作展示補助金だけでは費用が足らないので持ち出しっていうか 自分がサラリーマンで働いた給料 つぎ込んで作ってたわけですね。

 「セザンヌと鉄道」 という 論文を読んでいて 自分の まとめようとしていた論文と関連ありそうであり、それを反映した作品が本当は何を言わんとしていたかをはっきりと言葉としたかった。20年ぐらい経てば 何をやりたかったのがっていうのが時間の距離ができるということで対象が逆照射されて以前よりはっきりと見えてくるわけですね。まあ自分の頭の中なんですが。逆照射されるっていう事ですね。 だから今これをもう1回はっきりと言語化しようと思い立ったわけです。


自作品 EHM 上部のイメージと仕組み



 上部はそのイメージの世界って言いましたけども 外観はそういった人体の生物学的な有機的な形状を持った部分。内部にはジオラマがある だからそれは絵画の問題でもあるわけです。 絵画の奥行きの問題が最初にあり、その部分が発展した装置 というふうに見ることもできます。ですから彫刻作品を作ろうというよりも絵画の構造をもったっていうか、その絵画の構造 奥行き の構造っていうのを見えるようにするために作ろうと思った実験装置的なものなんです。それがたまたま 見え方としては 動く彫刻 キネティック・アートのようなものにも見えたというだけです。 ですからアーテックの時のカタログに作品ジャンルを書くところがあったんですけども 私はこれを映像装置というふうにも書けなかったし 彫刻でもないし結果 構造物 と、とりあえずは書いたわけでしてカタログにはそういうふうに表示されています。
  ライティングを行ってるんで光をあの時間にタイマーによって制御してるんで消えたりついたりもするんですけども バスの 消えてる時ってのはハーフミラーに内側からまたビデオ プロジェクションをしていていろんな映像が逆にまたそのハーフミラー上に映るようにもなってるんですね だからその部分は ジオラマが見えてる時ってのは固定して 固定視線つまり 見てる人は同じ 動かない景色を見てるということなんですけども 映像としてリフレクト表示されている観客は移動してる。 観客はそれを見てる観客はそのダイオラマの中を 移動してる映像として移動してるってのが ミックスされてるが見るっていう 構造になってます。
 話が 「セザンヌと鉄道 車窓と視覚」っていうのとちょっと離れますけども そういったことを考えていたってことですね。 だから自分の作品の中ではそういったことを考えていたということです。この続きはまた別稿で続けます。



鉄道と映像体験


 19世紀 産業革命で鉄道ができて 移動の制限がすごくなくなりました。人々はあちこちに出かけることが自由になったっていうことですね。そしてそんな新しい環境の中で移動中の風景を見る。視覚体験が大きく変わるって言うことなんですね。

だから僕はいつも体験してた 近鉄特急のスピードとその当時のスピードって全然違うわけなんですけども 今はもう矢のように風景が飛んでいくわけですけども、すごく近い部分 なんですね近景、中景、遠景 という3つの奥行きから見れば近い部分ってのはすごく
 ONE ということで また 中断してしまいましたか ということもあります 

セザンヌが鉄道で車窓の風景を見てた頃 1845年の SL の最高速度は時速 64km だったそうですね。今の自動車で市街地の普通道路を走るスピードです。新幹線や特急列車ほど速くないわけで 風景は意外と見やすかったかなと思います。 近景もそこまで流れていかなかったのかな とか思います。 



 もう一つ セザンヌのサント・ビクトワール山の絵で思うことっていうのは、アーチ型の鉄道の橋ですね。 かなり長いアーチ型の鉄道の橋が描かれてるんですけども そのアーチ型の橋が あの レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザの向かって右側の遠景に描かれてるアーチ橋を思わせてなんかすごく興味深いなあと思うわけですね。 モナ・リザ の風景の話ですけども モナリザの左肩にかかってる布のショールの襞を陰影を表してるんですけどもそのひだの線が円弧を描いてそのまま遠景のアーチ橋がる。あの視線がその橋に誘導され遠景に抜けてゆく。アーチの橋は遠景と近景をつなぐような 効果があるわけです。
 セザンヌの場合は近景に人物はいなくて、近景に松の木などがあるのですが全部風景になってる。遠景、中景、近景っていうのが 絵の中ですでに筆触ととぎれとぎれの線、タッチに還元されたシミとして対象は描かれています。絵画空間はすごく 平面的に浅い 奥行き 空間になってる ていうことが ダ・ヴィンチの絵画とは違う 奥行き 構造になってます。 その中で2つとも そのアーチ橋が 果たしてるなんか 効果っていうのはちょっと興味深く持って見てしまったっていうことが この論文を読んで 気づいた部分でした。
以上
2024/09/10 火曜日 09:33 ボイス入力





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day #21285: 160414 / 遠近法と移動スピード   2016年4月19日

passengers sight/ test 01: Matsushige koumon   2016年8月16日

about my work: Kinetic structure   2016年10月8日

「古い3D」と「新しい3D」(その1)  2021年11月7日






2024年8月15日木曜日

「夫人Aを見る観者とそれを視る監者」

奇跡的なⅠ枚が撮れた。
夫人像Aを見る観者とそれを視る監視者。

「夫人Aを見る観者とそれを視る監者」2024 Apple ipod touch
(松本竣介<街>と昭和モダン 碧南市藤井達吉現代美術館にて)


何が奇跡的かというと、三者の視線と大きさが絶妙な構図に収まり、なによりもこの一枚の写真で自身がかつて大掛かりな構造物とインスタレーションで行おうとしていた意図が示された謎解きのような画像であるということだ。


(松本竣介<街>と昭和モダン 碧南市藤井達吉現代美術館にて)
 対象と向き合う観る者が対象と一緒に映り、その状況を他の見る者が見ている。

こういった環境を作品の作用空間として始めたのが1991年の秋以降のことだった。その時期がなぜ特定できるかと言えば、ちょうどその頃に山本圭吾先生のアーテック '91出品作のビデオインスタレーション「地の呼吸」の外観イメージを伏見の砂糖会館3階で制作し手伝ったこと、その後92年5月の2回目の個展の作品を映像装置を組み込んだものにしようと構想して取り掛かっていたことによる。そして、その実験的な作品とはちょうど先日破棄したばかりの作品だ。
論理的思考に沿って制作を行うことが苦手な者にとって、なぜそのような形を成す作品に至ったかや制作意図などを明解に言語化することは難しい。しかし三十数年たてば過去というものは遠くなることで焦点を結び対象としてはっきりピントが合ってくる。その当時ぼんやりしていた幾多のことが明快な言語として時に降りてくる。改めて、その詳細については別稿しようと思う。今回はそのとっかかりがたまたま見に行った 松本竣介<街>と昭和モダン(碧南市藤井達吉現代美術館)で撮影した写真によって顕在化したことに驚いたのだった。



青春美術

 松本竣介の絵を初めて図版で見たのは中学校だったか高校だったかの国語の教科書だったと思う。分厚い教科書の薄い表紙を開けるといつも赤茶っぽい「画家の像」の艶のあるカラー図版が目に飛び込んできた。どういう経緯で教科書の初めに掲載されていたかは推測するしかないが、その絵は1941年8月作であることなど今になって知れば同年の『みずゑ』4月号(437号)に発表した「生きてゐる画家」で軍部による美術への干渉に抗議したことと関係しているのかとみることもできる。それとも仕事をしていたという育英社との関係によるのだろうか。あるいは自身がすっかり忘れているが教科書の中に松本竣介が書いた文筆があったのかも知れない。などと当時、全然意識していなかったことや思い出すこともなかった絵のことを思い出し、意外と思春期の頃より頻繁に見ていたことに我ながら驚いた。
「画家の像」は1941年8月作で28回二科展に出品されたP100号の板に描いた油彩で29歳頃の作品である。その絵は今回の出開帳には来ていないが、翌1942年作の絵が数点展示されていた。
松本竣介の絵は学生時代に東京で見たり、作品集で頻繁に見ていたが、当時、フジタやキスリングとの比較で見たことはあまりなかった。今回見た模造紙に鉛筆で描かれた風景やこの写真の婦人像Aは確かにフジタの影響を見ることもできるし、今回特別出品された「黒いコート」もキスリングを思わせるし、風景画はユトリロを連想させるかもしれない。しかしエコールドパリ、池袋モンパルナスといった日本でのロマンチックな言葉が示すような弱さは竣介の絵には見られない。


頭部の小さい構図と色彩がキスリングを思わせるが、キスリングのようにロマンチックでない。










2023年11月11日土曜日

231110 XYZ

 
日本の画制作と鑑賞の間で生じる位相について


何度も同じ問題を考える。



映像の受容の歴史性について



2023年4月19日水曜日

4月19日 今日の顔本10年日記

今日も顔本がおせっかいに大脳皮質をいじくってくる。顔本10年日記 4月19日 

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fb 橋本 公成   /2016年4月19日

「遠近法と移動スピード」については以前より興味の対象です。新幹線から富士山はいつも撮ってしまいます。
もう一つの興味深い車窓体験は雨上がりの西日を背に名神高速の米原~養老間を、いくつもの表れては消えるいくつもの虹を追いかけて走ったこと。
Yukinori Tokoro
2016年4月18日 
まずこれは何の写真か – What is this series?
これは日本が誇る新幹線、Bullet Trainの中から車窓の風景を撮影したシリーズです
First of all, this is the series that the artist shot from the train window, and the train is Japanese high speed Bullet Train.
このシリーズの撮影のきっかけは何か – What is the motif of this work?
車窓の風景なんていうものは誰でも撮れるし面白くも何ともないんだけど、このシリーズは特別で、アーティストが東京と岡山間を新幹線で移動することが多く、その3時間を無駄に過ごすことが憂いた作家が、退屈しのぎに新幹線、Bullet Trainの中から車窓の風景を撮影してみたところ、面白い写真が撮れたので継続して作るようになった
Most of the people will take pictures from the train window when they are moving from a place to place. It is very common and not so interesting. He often travel from Tokyo to Okayama and it takes 4 hours. One day he started shooting because it was so boring in the car. And he discovered that the pictures have potential in its aesthetics.
これは何が面白いのか – What is unique?
もし一般の方が写真を撮ると、ある特定の場所、特定の風景にこだわって撮影するでしょう。それは富士山であったり、浜名湖であったり。しかし、新幹線から特定の風景を撮影しようとしても多くは失敗します。それは、日本が誇る新幹線、Bullet Trainの高速移動体の中から撮影しているからです。そのため、作家は車中にいるほとんどの時間を撮影に費やし、何と一回の移動で何千枚も撮影し、そのあとで優れたイメージを抽出するのです。
If we try to shoot from the train, we will aim some scenery for the memory of travelling. But from the bullet train, most of the scene will not be able to captured because the train goes so fast. The artist shoots tremendous times, mostly for thousands of times during one ride. And afterward, he looks into the coverage, then choose what he really thinks it important.
もう一つこの作品には特徴があります。それは遠近法と移動スピード、移動時間にかかわる点をうまく捉えている点です。多くの場合、遠くのポイントはほとんど動きません。近いポイントが流れていきます。この単純な物理法則がアインシュタインロマンスの作品を特徴付けているし、アインシュタインの述べた宇宙の原則へのオマージュなのです。
These photos include one more strong structure. It is about physics and it is like this; when you see out of the train window, you may see landscapes moving fast. It is very interesting that far points are not moving fast as near points moving fast. This is making these images very interesting and unique.
And this is the expression that artist want to capture and he makes these photos as homage to Einstein. So he titled this works EINSTEIN ROMANCE.
所幸則はだれ? - Who is Yukinori Tokoro?
所は2006年以前は、日本でも最高に評価される広告カメラマンだった。しかし、彼はその後商業写真家をやめ、アーティストとして撮影する決意をする。そのセンスと美的意識はとても高く、単調になりがちなこうした作品も美しい芸術作品として提示できるのだ。
Tokoro was one of most successful commercial photographer before 2006. But he quit shooting for the industry and started shooting for himself as an artist. This is the reason why his works keep potential in its story and aesthetics.

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fb 橋本 公成   /2014年4月19日



I knead soil.
I give water to dried-up clay and knead by hands. During that time, I hear a sound called KUCHYA KUCHYA. It is like the totally muddy play.
And, more than one year, it is forgotten again, and the clay becomes like the dried-up ground.
I give water to dried-up clay again and I knead it again. The repetition of such a thing.
I murmur "plowing the soil is the culture".

土を捏ねる。
ほったらかしにして水分が抜けた粘土に水を与え、手でくちゃくちゃ泥んこ遊び。
そして再び一年以上、忘れ去られ、粘土はまたもや干からびた地面のように。
粘土に再び水を与えて、また捏ねる。そんなことの繰り返し。
「土を耕すこと、それはカルチャー」などとつぶやきながら。
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洞のアトリエに出勤二日目。リサイクル業者が撤収しだしたから、もう少しここで仕事続けるか。ところで、先日の若者たち、ヤモリのミイラは誰のお土産になったのかな。


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fb 橋本 公成   /2012年4月19日



もし日本の新学期が9月になると失われるもの。
季語。いくつかの桜の歌と「なごり雪」の情緒。五月病。

fb 橋本 公成
桜は新入学の合図。桜は新学期の合図。桜は新生活の合図。そして桜は農家にとって仕事の始まりの合図。
そんなふうにこの国の風土と一体になった人の営みの節目が桜の花に貼り付いている。
季節の節目と人の営みの節目が合致した良くできた仕組みをグローバルなスケジュールに合わせる必要があるか。
と考えるのは老化が進んでいるということ? 
~共通立体作業室と名を変えた元インタメ工房前から毎年眺める景色。16年目の桜。


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fb 橋本 公成   /2012年4月19日  


菜の花の絨毯  120418
— 場所: 庄内川 松河橋付近


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fb 橋本 公成   /2012年4月19日

(from Mr. Keigo Yamamoto) 
Network Art Event " Voice of annular solar eclipse "
21. MAY 2012  6:15 am ~ (JPT)

2021年12月1日水曜日

「古い3D」と「新しい3D」(その2)

 

8年前の投稿をfacebookが知らせてきた。
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https://www.facebook.com/kiminari.hashimoto/posts/566359226776687
橋本 公成  2013年12月1日投稿 プライバシー設定: あなたの友達
片目で見るとリアルなダイオラマ。20年間放置していた両眼視について、思考を再開しよう。
西山 禎泰, 杉山 健司, 加藤 令吉, 高橋 和生, 大平 隆文, 鈴木敏春, 松本 知子

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https://www.facebook.com/masakimuseum/photos/a.133393193499771/213260528846370/
正木美術館 2013年10月29日投稿 公開  

「カリフォルニア コンドル」と杉本博司氏、鈴木芳雄氏。

物黒無の名付け親・杉本博司氏が、展覧会「物 黒 無―モノクローム」をみに来てくださいました!

展示室の杉本作品と杉本コレクションも、生みの親の訪問に、少々緊張しているかのよう…。

11月5日(火)の東京レクチャー 
http://masaki-art-museum.jp/20131018_masaki.pdf 
で、モデレーターをつとめていただく鈴木芳雄氏も、時間をあわせ、来てくださいました。
みなさま、外苑キャンパスでおめにかかれますよう! 
コメント10件
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>高橋 和生(8年前)
心理学ですか。少しかじろうと、図書館で借りて・・・・無理でした。騙し絵の方が楽しいです。(^◇^)

>橋本 公成(8年前)
この画像の掛け軸は現代美術家の杉本博司氏の写真作品です。アメリカ自然史博物館のダイオラマを写したものです。
20数年前、映像の歴史に興味を持っていた私はダイオラマと2つのCCDカメラ、そのライブカメラから取り込んだ観客の映像を出力する2つのブラウン管を遠近法的にダイオラマに合成する装置を発表しました。
その装置は両眼視についての思考以外のほかに多くの要素を含んでいたため、その後の私の作品は複数の興味に分散し両眼視については放置され忘れていたのですが、先日この作品を評価してくれていた人から両眼視についてあらためて気付かされたのでした。
そんな時に今朝、日曜美術館の展覧会紹介のコーナーで正木美術館で開催中の展示で杉本博司氏のこの作品説明でダイオラマと両眼視、単眼視(カメラによる視覚)のことに触れられ忘れそうになっていたことを又、思い出したのです。

>橋本 公成(8年前)

杉本博司氏のwiki、下記にダイオラマに関する部分抜粋  

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9C%AC%E5%8D%9A%E5%8F%B8?fbclid=IwAR3bxp3T_c6G0ua2SxiZLoAo3cWjp9sEK0GmF5DRBlK17JucvBq59nTd8iA

..最初のシリーズの『ジオラマ』では、ニューヨークのアメリカ自然史博物館の古生物や古代人を再現したジオラマを撮った。
片目を閉じた「カメラの視覚」のもとでは、両目で見ると模型だと分かるジオラマが遠近感の喪失によりリアルに見える、という発見からこのシリーズは始まっている。
精巧なジオラマを本物に見えるよう注意深く撮ったシリーズは、「写真はいつでも真実を写す」と考えている観客には一瞬本物の動物や古代人を撮ったように見えてしまう。..



>高橋 和生(8年前)
現実化してみせるには、遠近法。これは私の世界でも。両眼視は、遠近感の為に必要ではあるが、片方の眼だけでかえってジオラマを現実化してみせられるということ。
で、いいのかなあー?
さすれば、他の遠近法を使っていみているのでしょうが、ハテサテ?E.T.ホールの本をよみかえします。

>橋本 公成(8年前)
E.T.ホールの何ていう本ですか?

>橋本 公成(8年前)
エドワードホールの「かくれた次元」でしょうか?昔、本棚にあったような。。

>橋本 公成(8年前)
産業革命とともに始まる人間の大移動、大観光時代と写真、イメージ、視覚について書かれた伊藤俊治著「ジオラマ論」があります。


>橋本 公成(8年前)
20年前から放置された装置です。









>杉山 健司(8年前)
凄く面白そうな話!今度会ったら、このことについて話をぜひ!

>橋本 公成(8年前)
>杉山さん まだ、直感的に思いついたことを試している段階です。何らかの成果に結実するのか?

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「古い3D」と「新しい3D」(その1) 2021年11月7日日曜日
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2021/11/dd.html


2021年11月7日日曜日

「古い3D」と「新しい3D」(その1)



この深田さんの番組、本題のことは置いておいて、話の中に登場する「古い3D」と「新しい3D」の技術的なさわりが分かりやすいです。

https://www.youtube.com/watch?v=MKi_aUQWYZ4


ここで語られているホログラム、3Dは、つまりはディスプレイ技術。
古い技術=両眼視差によるホログラムディスプレイ
新しい技術=ディスプレイをのぞき込む人の視点を検知して内部サブジェクトが追尾対応変化する多視点型ディスプレイ
SONYによる多視点型ディスプレイはセンサーとディスプレイをインテグレイトする3Dディスプレイ技術で、イメージセンサーチップの上にメモリを積層するという新技術を確立。センサーで映像を取り込みながら、そのセンサーの裏にメモリがくっついてるので短期記憶保持などにより、オーディエンスの目の位置(視線)が映像のどこを見ているかが変わっていくのを感知し、見せる映像の角度をちょっとずつ変えてゆく。多視点型ディスプレイが一枚のフラットパネルで実現できるというもの。
この、オーディエンスの視点をセンサーで追尾し、オーディエンスが見ている映像に影響を与えるという技術は、第2回名古屋ビエンナーレ、アーテック91で発表された、  さんの作品にありましたね。



Electric Heart Mother  Version03 (1992) のこと

僕も2台のライブカメラ(SONY Hi-8) と2台のブラウン管 (SHARP 14inchTV) を動かして現実空間に両眼視のホログラム風イメージを合成した大雑把なモデル化を作ってみたけど、30年間放置してる間に、どうしようもない粗大ゴミ化していて何とかしなければと焦る。



ふくいビデオビエンナーレでの展示 (1992)




そもそもこの作品を作ったきっかけは、「絵画の遠近法」「絵画の奥行き」についてというフォーマルなテーマから発展したものだった。そのため、この立体的な構造物は「その大きさが遠近法の影響を受ける大きさでなければならない」というのが始めの取り決めの一つであり、その内部にやはり奥行き(遠近法の消失点に向かう先細りの台形を底面に持つ画箱としてのダイオラマ)が作られた。「内部空間を持つ彫刻」ということも一方でのテーマであって、「絵画(2次元)と彫刻(3次元)両方の次元がオーディエンスの視線上で交差する映像装置でもある。」
<実際のダイオラマを実見するよりも、それがカメラで写真になった時により奥行きを持った深い空間を提示する。>ということを示したのは杉本博司氏のデビュー作?ニューヨーク自然史博物館のジオラマ装置を写した写真作品だったが、




another story
<30年間放置してる間に、どうしようもない粗大ゴミ化していて何とかしなければと焦る。>からの  another story 
 日常の生活スペース以上の大きな作品の場合、発表空間の大きさに合わせて分割して作るため会場での設営時にしか改良や銀杏性ができないという欠点がある。普段の制作スペースがそれ以下である場合、毎朝起きて作品に対峙して問題点を少しづつ調整してゆくといった制作方法に至らない。パーツごとの部品は別々に梱包されたりしていて、ましてや電気の来ていない倉庫にあっては実験さえできない。まあこういうことは作家の言い訳にしかすぎず身から出た錆で、泣き言言うな!と天から叱られるが、組み込んだ機材さえもが前世紀の仕様からアップデートしていないとその部分でも機能させるのが困難なゴミになってしまう。こういったことは制作初めのころにもすでに想像がついていたし家電を素材にした作品を美術コレクターなどは手を付けないという一般的認識もあった。それでも後先考えない若気の至りは「青春美術」の無謀のなせることであり、力技で強引にねじ伏せるといった狂気じみた行為であったのかもしれない。

another story 02
 この作品は、茂登山清文先生に声をかけられた1991年末~1992年年始にかけてのグループ展 cool break へ出品することを決め、91年秋より制作を始めた。勝川のアパートでの制作が限界だったので、年末二つのグループ展出品のため、瀬戸に仕事場を借りたのである。陶芸家中村康平氏が陶壁制作用に借りていた栗木製陶所の一角をシェアさせていただいたのが始まりで、康平さんが金沢に帰る94年頃まで制作場のシェアは続いた。

(つづく)

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about my work: Kinetic structure  2016年10月8日土曜日

ライブカメラ ビデオ ストラクチャー  2015年12月20日日曜日

Diorama of EHM 1992 -01  2014年5月12日月曜日






2019年4月19日金曜日

190419 戌の日




朝日が差し込み始める6時になってしまったので、もう寝なければと思ってソファーでうつらうつらしていると新紙幣で発表された肖像写真反転の津田梅子さんがあらわれて、

「何も問題ないわよ」

と言ったので、2時間もたたないうちに目が開いた。
と、その瞬間に、そうか!とすべてのことがクリアになった。

「だって、私が毎朝鏡で見ている顔は、この顔なのよ。
写真に撮られた像は、私じゃない人が私だと言ってる像なのよ。それに、あなたが今見てる世界だって網膜で上下反転しているし、それをまた脳内で反転させて認識してると思ってるでしょ。
肖像権云々というなら、本人が問題ないと言ってるから問題ないのよ。」

と梅子さんは続けた。

「だってそうでしょ。権利というもんはだいたい当事者でない人たちが騒ぎ立てたりするものなのよ。他者によって作られるものなのよ。」

「『日本を含む多くの民主主義国家では、憲法に「表現の自由」が規定されており、一般的には、肖像権より表現の自由が優先される場合が多い。』とwikiにも書いてあるわ。
だからむしろ私の写真を撮ったカメラマンさんと造幣局の間に発生する問題なのよ」

「菅さんも、<この像は津田梅子さん本人が毎日、鏡で見ていた津田梅子さんの像にするため、肖像写真を反転しました。>と説明すれば何も問題ないのよ。

私が見ている私と、あなたたちが見ている私は別なのよ。

だけど、こう考えてみて。
私が見ている鏡像と、あなたたちが見ている鏡像の反転した肖像写真を、脳内で合成すればホログラムのように立体的に見えてこない?
これはステレオ写真とは違う立体視だけど、私はこれを社会的ホログラムと呼んでいるの。」


そう言うと梅子さんはまぶしい朝日の中に溶けていきました。

おしまい










2017年12月22日金曜日

Another meaning of "given"


覗き穴はピンホールカメラ
両眼視のための



現代の生活があまりにも速くなったと述べました。人々は怠け者でなければならない、と彼は言った。

https://news.artnet.com/art-world/duchamp-etant-donnes-secret-serkan-ozkaya-1103216?utm_campaign=socialmedia&utm_content=bufferd90cd&utm_medium=social&utm_source=facebook.com&utm_term=EGF_desk

In a 1964 conversation with New Yorker scribe Calvin Tomkins, Marcel Duchamp said that modern life had become too fast. People should be allowed to be lazy, he said. In his view, that excessive speed had come to artworks as well:

I think there is a great deal to the idea of not doing a thing, but that when you do a thing, you don’t do it in five minutes or in five hours, but in five years. I think there’s an element in the slowness of the execution that adds to the possibility of producing something that will be durable in its expression, that will be considered important five centuries later. 
私は事をしないという考えには多大な努力をしていると思いますが、あなたが何かをするときには、5分または5時間ではなく、5年で行います。執行の遅さには、表現の中で耐久性のあるものを作り出す可能性があるという要素があり、それは5世紀後に重要なことと考えられます。

The French artist was surely smiling inwardly, since he’d been at work for nearly two decades on his final work, Étant donnés: 1. la chute d’eau 2. le gaz d’éclairage (Given: 1. The Waterfall, 2. The Illuminating Gas) (1946–1966). 

But open the door to room 403, and you’ll find a dark space, a few feet deep, still floored with the same cheap, checkered black-and-white tiles as in Duchamp’s day. Black trash bags surround a space about 13 feet deep and nine feet high that houses the sculpture. A few leaves and branches litter the floor. 
しかし部屋403への扉を開けば、Duchampの時代と同じくらい安く、チェッカーされた白黒のタイルで、まだ数フィートの暗い空間があります。黒いゴミ袋は、奥行き約13フィート、高さ約9フィートのスペースを囲んでいます。いくつかの葉や枝が床に捨てられている。
The very idea of this hidden self-portrait may seem hard to put stock in. Then again, what if someone had told you, back in 1968, that Marcel Duchamp had been working for two decades on a diorama with actual leaves and sticks and a naked woman viewed through a peephole? 
1968年に、マルセル・デュシャンが実際の葉や棒を使ってジオラマを20年間制作していたことを誰かがあなたに話したとしたらどうでしょうか?覗き穴で裸の女性を見た?
translated by google AI


2016年10月8日土曜日

about my work: for image experience

"MOTHER 2 prototype" Kiminari Hashimoto 1999;AV機器,アクチュエーター,光源類,アナログ制御回路他 photo by Ito tetsuo 撮影:怡土鉄夫



①体験者が映像を動かす

体験者の発汗などによる、身体の電気抵抗値の変化をスイッチとして映像機器,光源,アクチュエーター類を作動させる。


Title of work: MOTHER 2 prototype
date: June 1999
scale: 600(H)500(W)500(D)cm/installation area
materials: medical instrument, monitor, projector(video,slide), control circuit,VTR,lights,headphone,mirror,etc.
exhibition: MEDIASELECT 1999

 description ----------------------
The person who tries to experience this work must sit on a chair and put on a headgear and are forced to listen to baby's squall and see squalling baby's mouth. The change in electro resistance level of bodies by secretion of sweat etc. activates visual devices, lights and actuator and influences the visual image (gigantic image of a pregnant woman who is rubbing her abdomen slowly) projected on the wall. The image projected on the wall all the time seems to appear like a spiritual medium in the real space, as the image is taken with black background. It has a significant meaning for the work and for the exhibition space (a grain warehouse with the ceiling of six-meters high) to use the image as a spiritual medium that appears in the space, instead of using a screen and showing it as a framed flat image. It was impossible to show this gigantic woman's image with the height of six meters if it were not in this space. Therefore, this work can be called a site-specific media installation.
Two kinds of other images are overlapped on this image of a woman. One of them is 100-cut still pictures shown by a slide projector. The image of the back of a man and texts, empty cuts (light only) are reflected on a mirror with an actuator installed and they move vertically with high rapidity. The other image is a visual image of a fetus filmed with a supersonic camera and it moves horizontally at the level of the woman's abdomen. Both images are made that audience do not become aware of camera's frame, and they seem to be synthesized with the woman's image. However, unlike digitally edited images, these images can move around in 3-D space by moving each device separately.

The change in detection of body electro resistance level, which is set with five levels, activates visual devices, lights and the actuator for projecting them to the space. When the electro resistance level of the experiencers reaches the highest level, all the devices are activated and lights white out the image on the wall. This situation is rather violent.

This work replaces experiencers' physiological reaction with visual phenomena and creates spectacular visual spaces out of them. It can be seen as a visual-image mixer which takes the experiencer as a media. The audience sees the experiencer (=media) and the change in the image on the wall, which exteriorizes the experiencers' physiological reaction. Lobotomy device which stimulates maternity by perforce and the visual space which is programmed to change in advance (closed-circuit-installation).
This is a meta-media installation which metaphorizes the brainwash of women by the paternal society (culture), and presents a model of the information society.

M2-system Kiminari Hashimoto 1999

Background of the work -------------------
"Why do baby's squall make us feel fear or even hideousness?" -Consideration about maternity in the environment where corporeality is weak.-

The title of this work "MOTHER 2 prototype" implies not only an experimental of the work with the same title presented since 1997, but also a prototype of the secondary "mother" and the secondary "motherhood" "Does a mother react to the digitalized baby's squall and mother's milk would be induced?" With this rather non-sense question and the production of a device that draw the experiencers' physiological reaction (milking suit), this series of works has started. The below is the original interest points. A question about "motherhood" which we are told to be invested in women as instinct from the beginning.

Empathy and physiological reaction to life and body that are made into digital information. It is not communication between real human beings, but that through media.
The possibility of biological human being which is changing in the digital information society. The information provided by perforce to experiencers (image of baby's mouth and squall) is the same in the first work and this work. The image and sound is cut out from daily life for several minutes and framed and edited into endless VTR. By putting them in different space, it gains different meaning.

Why do baby's squall make us feel fear or even hideousness?

Our history has been modernized by deleting hideous nature as its dark side. It is often said that to us, who stand on such a history, the only nature left is body, and events of birth and death. But today, even that recognition is becoming weak. Life appears in such a civilized human society all the sudden as hideous nature. Sometimes our confusion about how to communicate with life comes up to the surface as incidents like abandonment of mothering and child abuse.
Provided that "motherhood" is invested originally and biologically from the beginning, the secondary motherhood can be considered to be inprinted artificially and a posteriori by information. It is possible to say that it is the history of paternal society (= culture) that prewires women that female is the gender which born and raise children. The presentation of this work metaphorizes such messages.




②映像を巻き取る


"CLOTHO" Kiminari Hashimoto 1995;スライドプロジェクター,100カットの35mm ポジフィルム,綿ロープ,木,鉄,下駄

 体験者はロープを巻き取りながら投影映像を変化させる。奇妙なアニメーション装置。




③映像の中に入って見る


"Face to face"  Kiminari Hashimoto 2007;ビデオプロジェクター,VTR,布   写真撮影:青木孝夫



写真撮影:青木孝夫





【for image experience / 映像体験のために】


19世紀末(1895年)リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフに始まるスクリーンに向かって大勢で一つの動画を見る映画館。
箱の中に入った一台のテレビを家族全員で見た昭和30年代。
VTRの登場で独りで見る映像体験が主流に変化し、やがて、深夜のファミレスでは、恋人たちは向かい合って座りながら、お互いスマホをいじって異なる映像を見る。
そんな20世紀末~21世紀初頭の仕事。

installation view at Nagoyako(Nagoya port) subway station: Kiminari Hashimoto 1999





art-05
https://www.facebook.com/kiminari.hashimoto/posts/798837823528825