2012年8月6日月曜日

1945年7月26日




60年代の遊び場

3年生になって教室は学校の北側校舎に移った。
窓の外には建物が建たないマンション一棟くらいの土地がトタン塀に囲まれていたが、校舎の三階窓からは盛り土されたその空き地がよく見えた。

空き地の向こうには公設市場があり、肉屋の店先の鉄板でホルモンを焼く臭い。
その前の道を南海平野線の田辺駅に向かって行く途中の角はイカ焼き屋、その二軒隣にはプラモデル屋があり、その少し先には友だちんちのペンキ屋さん。店先でいっと缶の注ぎ口にこびりついたゴム系の接着剤を集めては練り、丸め、大きくしてスーパーボールのようなものを作って投げあったり、ちんちん電車の線路上に釘をおいてぺちゃんこになるのを隠れて見たり、
とにかくそのあたりが当時の遊び場だった。



「あそこは昔、爆弾が落とされたんや。今でも不発弾が埋まっているから空き地のままなんや。」

「ふーーん」


そんな空き地は他にもあちこちにあったし、その空き地もそんな一つにすぎなかった。









1945年7月26日、田辺小学校、北に直径数10mの巨大な穴ができた。


写真中央黒い池の右下がグランドゼロの料亭『金剛荘』。その下が田辺小学校。左下から上に向かって国鉄阪和線(左下南田辺駅)
米軍資料による





ワシントンの電報

「第509部隊は…日本に対する一連の空襲を始めた。その目的は搭乗員を目標地域と最後の任務遂行のための戦法に慣れさせ、又一方日本人に高い高度を飛ぶB29の小編隊を眺めることに慣れさせるためである。」*1



8月6日の11日前、8月9日の14日前。

1945年7月26日午前9時26分。

「高知付近より進入せるB29一機は愛媛県東部、淡路島北部、大阪府を経て奈良県に入り、生駒東北部において反転して大阪市内に投弾の後、大阪湾を南進した。」*4


原爆投下目標都市 NIIGATA の所在確認とその周辺での爆撃演習のため第一目標 TOYAMA に向かったB-29 7303号機は富山市が雲に覆われていたため第二目標の臨機の任意市街地目標、大阪に向かう。
第20航空軍の命令にもとづき特殊爆撃任務を与えられた第313爆撃航空団所属の第509混成群団(暗号名"8888")



暗号名"8888"

その目的は高度30,000 feet (9,000m) からの原爆投下訓練。
爆弾は投下後飛行機の進む方向に落ちてゆく。
爆発まで50秒かかるとすれば投下した飛行機も爆発に巻き込まれ放射線から逃れられない。
そのため、投下後すぐに150度急旋回して逃げなければならない。
アメリカ軍は原爆と同じ形・重さ・弾道特性の爆弾(模擬原爆)を使って練習をくり返した。
アメリカ本土や南太平洋で練習をくり返した後、7月20日からは日本各地を使って実際に空襲し練習を行った。


「実際、搭乗員たちがしてきた訓練の頂点だったから、たいへんに役立った。彼らに訓練用爆弾を与え、彼らを一つのピンポイント目標に送り出し、結果を写真に撮り-われわれは彼らに目視条件のもとに投弾することだけを許した」*3


#29
date:1945.7.26
Mission no.9  
V(目視)
爆撃高度:29,000feet
J.T.G(目標コード)90:26-Urban
損害評価"None"


「結果は報告されなかったが、写真は爆弾がほぼ町の真ん中に命中したことを示した。照準点が不明のために、爆発点はプロットできなかった。結果は良好」*2







1991年11月
愛知県の「春日井の戦争を記録する会」が国立国会図書館で、機密扱いが解除された米軍の資料を閲覧していて「模擬原爆」投下の事実を発見した。


2001年夏
お盆に帰省したとき、谷町線田辺駅に向かう途中、真新しい石碑と掲示板*5に貼られた資料によって60年代の遊び場が田辺のグランドゼロだということを知る。



1945年8月9日に長崎に落とされたプルトニウム型の原爆「ファットマン」を模した模擬原爆は、ファットマンとほぼ同じの形。長さ3.5m、直径1.5m、重さ4.5トン、通称「パンプキン爆弾」。

その日、多分、父は九州の陸軍士官学校におり、母は奈良で少女時代をすごしていただろう。
ただ、本家はグランドゼロから数百メートルのところにあり、模擬爆弾でなく原子爆弾であったなら父母は生存していただろうが、父は帰ってくる家をなくし、今の自分は存在していなかっただろう。
このことが自身の原爆に対する身近な想像力である。






























*文献、資料 ---------------
「あれから57年 7.26田辺の模擬原爆証言集」2002年7月26日改訂版
発行/7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会
作成/北田辺のまちづくりと歴史を考える会

吉田守男「京都に原爆を投下せよ」 角川書店 1995年

*1,*2 「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」東方出版(奥住喜重・工藤洋三・桂哲男/訳)1993年

*3 米軍資料「原爆投下の経緯」(東方出版刊行)ポールW・ティベッツ・ジュニア准将(エノラ・ゲイ機長)のインタビュー回答

春日井の戦争を記録する会編
『5トン爆弾を投下せよ!』(91年刊)/『模擬爆弾と春日井』(95年刊)

*4 「東住吉区史」P508(東住吉区役所 昭和36年3月

http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/hs-mogi.html
http://www.nnn.co.jp/dainichi/kikaku/genbaku/
http://hiranogou.cocolog-nifty.com/blog/cat48836276/index.html
http://tamutamu2011.kuronowish.com/mogigennbaku.htm
http://www.oml.city.osaka.jp/net/osaka/osaka_faq/71faq.html

*5 このページ画像は模擬原爆で亡くなった村田繁太郎さんの子息で村田保春さんが建立した石碑わきの掲示板を撮影したもの。