2016年5月4日水曜日

拡大解釈された「構造色」

構造色について

wikiによれば構造色とは以下のように定義されている。

引用>「構造色(structural color)は、光の波長あるいはそれ以下の微細構造による発色現象を指す。・・・それ自身には色がついていないが、その微細な構造によって光が干渉するため、色づいて見える。・・・色素や顔料による発色と異なり、紫外線などにより脱色することがなく・・・」




初めてこの言葉に出会ったのはカワセミの金属光沢の羽根を調べていた時だった。
カワセミの(あるいはカラスの)金属光沢のある蒼は、その羽根を石でたたいて潰すと発色が失われるという知識を、実験した時の興奮が、「この世には青色の物質は存在せずすべて青に属するものは構造で青に見えているに過ぎない」という早とちりにつながった。
そして、レオナルドの「聖アンナと聖母子」に見られるトルコがかったぼんやりと発色している衣部の認識ともあいまって感動したのだった。天然土系の絵具、イエローオーカー~ライトレッド、インデアンレッドにいたる鉄由来の色と異なる波長の色の存在について。
その頃(80年代初頭)は、油絵のチューブ絵具で絵を描くのをやめ、日本画の岩絵の具に興味をもって、その発色を実験していた時でもある。野鳥観察のフィールドワークと、「油彩画の科学」から発展した岩絵の具の粒子の大きさの違いによる発色についての研究。この二つの異なるカテゴリーについて、同時に虜になっていた私は、この「構造色」という概念を、拡大して考えてみようと思うに至る。彩色方法を「拡大された構造色」として観察する。

若冲生誕300年ということもあってか、昨今、若冲の絹本に見られる裏彩色ばかりが超絶技法と紹介されるのに少し違和感を感じるのは、その「金色に見える」という技法が必ずしも絹本の裏彩色だけによるものでないと思うからであるが、「拡大された構造色として」としての彩色方法を見たときに、真っ先に思い浮かぶのは若冲の鳳凰図などの裏彩色であることも否定できない。


■ 若冲の裏彩色
鳳凰図や鸚鵡図に見られる白(胡粉)と金(絹目と黄土裏彩色)
絹本での黄土の裏彩と胡粉の表彩(細い筆による羽根の線描き)による構造色
黄土がひかれた部分とひかれてない部分。黄土がひかれた部分に表から薄墨がひかれた部分とひかれてない部分。それぞれの部分の上に表彩で胡粉で描かれた細い線描。
絹目の隙間から覗く黄土の屈折率と胡粉の屈折率。絹目の点はオフセット印刷における網点のような役割を帯びている。鑑賞者がその絵に対峙して見る時、細かい点描のような黄土と絹目の点は、点として眼に届かず、点がまじりあった面として眼に届く。
この印刷における網点効果が後に、モザイクタイルのような桝目描きに発展していったこと。
絹本の絹目部分を拡大した視覚体験として絵画化すること。そのように考えれば桝目描きによる若冲の絵の効果は唐突なものではなく、また特別な絵画様式でないことが容易に想像できるのだ。


■ 若冲の薄墨をひいた絹本地と未彩色部分(塗り残しの輪郭)

>(以下途中未完)


■ 紙本による構造色~金箔金泥の使用と、金を使用せず金に見える彩色

1)金が使用された部分は何を表しているか?~俵屋宗達筆「住吉図屏風(松島図屏風)」
金は光のハイライトを表す部分に用いられているか。
金は情景の中で記号として用いられているか。

2)金が使用された部分は何を表しているか?~「洛中洛外図屏風」


■ 紙の地色、白(胡粉)、金(金泥彩、金箔、金砂子)
紙の地色と白という色について。光を反射する色について。紙本彩色による薄墨と金泥彩の使用について。


「松島図の波の研究」 和紙に墨彩と胡粉、金色ペイントマーカー(真鍮粉塗料)で描かれたものをスキャン。スキャンによる光源が原稿台の和紙と胡粉で描かれた部分の差をなくしている。下図のデジカメ撮影によるものとの違いに注意。





同上、和紙に描かれたものを 100 mm 望遠で太陽光下でデジカメ撮影したもの。太陽光源から届く光は和紙の地と胡粉の違いを際立たせる。光源からの距離と屈折率。


松島図にみる金泥と金箔の使用(宗達と光琳)。紙本彩色による薄墨と金泥彩の使用について。
鳥の子紙に描くことを行っていた当時に発見したことは、黄味がかった白い紙に薄墨がひかれたところが強い反射光によって金色に見えることだ。
その両側により濃い墨彩がある場合、より一層、金色に見える。しかしこれは相対的なことで、本金泥の彩色の横に並べられればウォームグレイに見える。
金箔地の横にあれば、反射どころか金地よりも奥まったところに後退して見える。
紙の地色のままの部分と薄墨をひいた部分。紙の上にある薄墨は微細な墨の粒子がオフセット印刷の網点のような効果をもたらす。

胡粉の屈折率と金泥の屈折率


紙本に描かれた部分と金箔が貼られた部分を見る
順光で屏風に光が当たるとき、描かれた部分は逆光になり、


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物質の物理科学的な変化が起こるフィールドとして、その時間的経過(変化)が同時に同一平面上で観察できるフィールドとして、その場に立ち会うという体験が絵画であるという考えに至った。

そして私が考える構造色による絵画とは、チューブ絵具をのせた平面にとどまらない、その場で実際起こる、たとえば光琳の紅白梅図屏風の流水文部のように明礬でマスキングした銀の腐蝕工程を見せるようなものも含む、化学変化の「場」と観察者が出会う「時」のことである。