2015年3月24日火曜日

150308【「記述」されたこと、「記述」されぬもの】「愛知ノート」


【「記述」されたこと、「記述」されぬもの】
私の「愛知ノート」~備忘メモ、「記述」されぬもの~
2015/03/08 愛知県陶磁美術館 "AICHI NOTES" 展にて


●学際的観点からの「愛知陶磁」についての「記述」は、ある意味、今までにないプレゼンテーションではあったが。。

●忘れ去られた産地、「猿投古窯」の記述。なぜ衰退し、中世産地、瀬戸へとってかわられたか。<岩崎、高蔵寺、鳴海、黒笹、折戸、東山など現、東郷町から日進市、三好市、名古屋市緑区にかけての「猿投古窯」中心地について>

猿投古窯、岩崎45号窯
猿投古窯、岩崎45号窯
猿投古窯、岩崎45号窯

●780年頃、黒笹7号窯(東郷町)で須恵器や原始灰釉陶器が焼成される。
●東郷町の歴史;奈良、平安時代、猿投山西南麓古窯跡群の中心として栄えた(都に献上する陶器類の生産が、この土地の生業であったと考えられる)についての記述。
●1957年、愛知用水の大規模工事の開始に伴い、沿線の古窯跡が次々と破壊されるのを憂いた本多静雄、名古屋大学の考古学教室が中心となり大規模な発掘調査。
●結果、それまで瀬戸・美濃の中世窯が発生とされていた灰釉陶窯が次々と姿を現し、空白であった奈良~平安期の陶磁史が一気に埋められる大発見となる。

●「猿投古窯」とはどこか?;
猿投山麓周辺の中世瀬戸系の窯と混同されやすく、紛らわしい名称。<名大、澄田教授、楢崎助教授たちは、黒笹の窯跡に立ち「名前をつけないと具合が悪い」ということになり、澄田教授の「まだ後から後から見つかるかもしれんから、広い名前がよかろう、ここから見ると猿投山の頂上が見えている。あそこから西の方と南の方、猿投山西南麓古窯址群としたらどうか。」との提案により略して「猿投古窯」と命名された。しかし、その後の発掘調査により、窯跡の分布は尾張東部から西三河西部であることが判明し、遠く離れた猿投山麓周辺の中世瀬戸系の窯と混同されやすく、紛らわしい結果となったのは否めない。>from wiki
●猿投古窯の特殊性は、地元の原料を用い、朝鮮半島から5世紀半ばに伝えられた須恵器の技術をもって、大陸から舶載される美しい青磁の国産化を図るという、当時の文化・情報・技術の粋を結集したハイテク窯であり、青磁を模索する過程において、本邦初の高火度施釉陶器・猿投白瓷(さなげしらし:灰釉陶器)を産み出した点である。from wiki
●確かに2点の展示物はあったが、カタログにも「猿投」と書かれているだけで、地名と歴史的産地の誤解、混同をあたえるのではないか。
●愛知用水ルート知多半島から瀬戸へとつながる台地に区切られた東海湖東部=猿投古窯。
●造成で掘り返すと白い粘土層がでてくる、地名に残る「白土」(東郷町)。猿投古窯の中心地での窯業原料産地?「祖母懐」の土はあっても「白土」の土サンプルはない。

祖母懐土と蛙目(ガイロメ)

●地形と技術(猿投古窯);高低差を利用した当時最新ハイテクの窖窯(穴窯)5世紀古墳時代、朝鮮半島百済帰化人とともに須恵器の技術が穴窯と同時に伝わる。
●瀬戸、常滑、高浜といった現在につながる産地中心の記述。

●人の移動;有田からの磁器技術はよく知られるが、他産地からの職人の移動、流通について。
●三階常設で出くわしたなじみある「ひだりうま」の図柄、相馬焼。双葉郡浪江町の焼き物。
●他産地からの職人の移動、流通について;農業との兼業、出稼ぎ、国内流通。知人先祖は会津から瀬戸へ移住した家。愛知と他産地との人の移動。
●相馬焼;縁起物の絵柄「ひだりうま」顔はどっち向き?
●相馬焼;江戸時代元禄、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのが始まり、2011年3月11日釉薬の原料、砥山石が原発事故の放射能汚染により採掘不可能となる。


●20年ぶりのインスタレーション「三重のガラス越しに見る土」。
"THIS END UP 0606-1501" 戸田守宣
●20年前、同じ部屋、同じガラスケース内壁全面に直接インスタレーションされた圧巻の作品との差異。パッケージされた、三重のガラス越しに見る土。








2015年3月24日 3:28 記