書きかけ、途中
絵画の見方、大和絵の見方
~屏風絵の作用空間(working space)とその鑑賞方法~
■白楽天図屏風 今回の発見(1)屏風絵の作用空間(working space)とその受容体験
右から左へと観てゆくと絵画の主題、物語がよりスムーズに受容される。また、右側から左へ斜めに屏風を見るとオーディエンスの視線は白楽天からの視線に合致し、住吉明神がかなり小さく見え、絵画空間的距離感がいっそう増す。このことを、考えるに以下の分析から考えてみる。
◎絵巻物、戯画、漫画、アニメと屏風絵の受容体験の違いと共通
●絵巻物(和紙の規格サイズのつなぎ合わせ)
オーディエンス自らが、自身の速度で巻物を広げながら右から左へと時間的移動のなかで鑑賞する。
一度に広げられたスペースに一つの絵が描かれているが、その一つの絵の中でも右から左へと時間的推移が表現される。
絵とテキストが交互に現れ、オーディエンスは、その時間のずれを統合しながら物語を脳内で構築し鑑賞する。
●戯画
オーディエンス自らが、自身の速度で巻物を広げながら右から左へと時間的移動のなかで鑑賞する。
一度に広げられたスペースに一つの絵が描かれているが、その一つの絵の中でも右から左へと時間的推移が表現される。
絵とテキストが交互に現れ、オーディエンスは、その時間のずれを統合しながら物語を脳内で構築し鑑賞する。
●漫画(洋紙縦長の縦位置での製本)
オーディエンス自らが、自身の速度でページを右から左へめくりながら時間的移動のなかで鑑賞する。
絵巻物と異なり、一度に広げられたスペースに細かくコマ割りがなされ、時間の推移、画中人物への感情移入が分割される。
コマワリの流れに沿って右上から下→左上から下へ鑑賞するが、同時に見開きの画面をすでに見ている。
テキストはコマごとにふきだしで表示される。オーディエンスはふきだしのせりふ、テキストを読み、画中人物に同化するよう仕向けられる。
*縦書き和文字は右からはじめ左へと移動する。このことから、物語、絵巻の絵も右から左へと時間推移が行われる。
*絵巻物はイラストレーション(挿絵)とも考えられるが、イラストレーションという時の主体がテキストにより重点が置かれ、絵は補足的なあつかいという印象がある。
●アニメ
時間的推移が上映によって制作者側から規定されている。フレームは固定され(時に分割されるが)時間の長短で(カット数、シーン数)であらわされる。
光琳の作用空間(working space)を意識した屏風絵は、オーディエンスの様々な所作によって異なる視点を仕掛け(立った時、座った時、移動しながら、畳に寝転んで)それぞれで異なる視覚体験を提供していることが見受けられる。しかしこれはキュービズムの多視点絵画とは異なるものだ。西欧絵画において描く、見る視点=主体と描かれたもの=客体という関係で成り立つが、大和絵、山水画においては画中人物の視点になって絵画空間の中を移動するという超主観画である。視線を誘導しながらオーディエンスはその場その時に絵の中に入り込み異なる視覚体験を体験する。
絵画、彫刻、建築など動画、音楽と異なり静止したものである。しかしその静止したものが動いていないのではない。オーディエンスが動くことによって絵画も動くのである。(彫刻も、建築も)視覚のみによって静止しているものが動き、奥行き感をもった空間表現を表す。屏風という装置における図の効果としての作用空間(working space)である。
白楽天図において、描かれた人物に焦点をあてて見る時、主題である謡曲の物語を追尾体験するのに対し、海原や陸地、山に焦点をあてて見る場合はオーディエンスの空間体験に影響を与える。
西欧絵画空間、写真的単眼視で見慣れた視覚体験者が見るこの絵の奇妙さはいくつか確認される。
1)住吉明神の乗った舟が水平なのに対し、白楽天の乗った船が船首は水平なのに途中からポキット折れ45度傾けられている点。<この船の元図がどこかにあると何かに書かれていたが見つけられない。>
背景を抜いて、登場人物と船を見る。それは歌舞伎の舞台を見ている感覚に近い。書き割りの背景(山、浜、波海)=舞台装置。登場人物、船=演者。
2)三人の登場人物に見られる三遠法。東洋山水画の決まりごと(遠近法)である三遠法が三人の登場人物に割り当てられている。
平遠(正面から見た視点)、深遠(上から見た視点)、高遠(下から見上げる視点)による三遠法。山水画の風景で決まり事の絵画文法は北斎の神奈川沖波裏でも用いられている。
白楽天図屏風の前に座って屏風に対峙すると想像してみよう。ちょうど視線の高さの白楽天と視線が一致する。この白楽天は平遠で描かれている。
画中の白楽天の視線の先には住吉明神である。住吉明神は上から見た深遠で描かれている。遠くを遠望するような仕草の画中、住吉明神になりきって視線を見やれば白楽天の船を漕ぐ水夫に行き当たる。水夫は下から見上げた高遠で描かれている。
そして45度に傾いた船の円弧に視線は誘導され白楽天へと戻る円環をなす。
一望に画面全体を平面として視覚に収めようとするとつじつまが合わないような描写は、絵の中に入って描かれた登場人物=演者になってみれば不自然ではない。
背景の描写も、人物周辺のみの視界に焦点を当てている分には不自然でなく、登場人物の置かれた情景をより一層際立たせることに機能している。
* ところでこの三遠法の三つの視点は写真的単眼視にとって特殊な遠近法であろうか?否、人の視覚に近いとされる50mm~35mmレンズ越しに見る対象を、35mm~20mmレンズでとらえた視点に近いのである。レンズに平行な対象は水平に、対象の上部は見上げた視点に、対象の下部は見下ろした視点になる。こういった広角レンズ的視覚を絵画面対象に拡大増幅し、望遠レンズで見た視覚に組み合わせたものが三遠法と考えることができまいか。
■白楽天図屏風 今回の発見(2)波の表現
紙の地を残し、薄墨で線描。繰り返される線描の間を薄墨で陰をつけ立体感を出し、うねるような海原を表現。陰の薄墨は赤みを持つ油煙墨(ウォームグレイ)と青墨のような寒色系(クールグレイ)の交互な彩色部分が見られる。これは墨の違いによるものか、それとも青みがかって見える部分は薄く胡粉をひいた上に油煙墨で彩色したために青っぽく見えるものか。金箔地彩色とあるが、海原の部分は紙地を残し、紙と薄墨の表現で黄金色の海原を表す。陸、山との境界は唐突で、緑青の平面が、立体感のある海原表現の上にペタッと貼り付けてあるような表現。同じ水の表現でも紅白梅図屏風のように、平面的意匠表現が徹底された水流紋とは異なる。
宗達波(平家納経より継承された表現)の継承。松島図屏風でも宗達波は借用されているが、白楽天図屏風の波には線描波の間に金泥の線描は認められず、オプアート的な視覚効果は松島図より乏しい。波頭の一部に胡粉での彩色が認められるが、全体には認められない。この点も、松島図と異なる。これは3百年の間に剥落したことによるものか、それとも当初より、一部にしか彩色されなかったものか。
■白楽天図屏風 今回の発見(3)輪郭の表現
紙(鳥の子紙?)に薄墨で描かれた線は金色のように見える。白楽天の乗る船ではその薄墨による輪郭線が塗り残される。濃密な岩絵具で彩色された明度の異なる三段階のクールグレーの色面にはさまれてよりいっそう金色っぽく見える。(フランクステラのストライプペインティングとの関係)一方、住吉明神の乗っている小舟ははっきりと墨で輪郭線が描かれている。
■白楽天図屏風 今回の発見(4)主題の表現