2022年1月29日土曜日

ミコアイサは珍鳥か?

 
40年近く前の探鳥会で牧野が池のミコアイサを見に行った。しかし実際に見た記憶がない。
その時からミコアイサは珍しい冬鳥と記憶される。
しかしはたしてそうだろうか?
あれから40年近く、歩くための口実で再び始めた野鳥の観察。
いとも簡単に近所のあちこちの池で、見かけるミコアイサ。
勅使池、荒池、牧野が池、大堤池、、、





牧野が池





♂とペアでない♀はホシハジロ♂と行動している。頭部の色が近いから群れているのだろうか?











荒池


220109  15:50 @荒池 ミコアイサ♀


道路に面したところは樹木で自然のブラインドになっているから樹木の根元には鴨やカワセミなどが潜んでいる。しかしこの道路の歩道を歩くと、岸の樹木下に休息する鴨たちは警戒して池の中央へと泳ぎ移動する。マガモが多いがその中に、この日ミコアイサ♀2羽を確認。




勅使池

220109  14:32 @勅使池

220110  12:37 @勅使池 カイツブリとミコアイサ♀
今期は護岸工事で池の水が少ないため、例年よりミコアイサは少ないという。潜むのに都合よい場所が少ない?















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220110 ミコアイサを見て改めて考える「見る」「観察する」こと。
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2022/01/220110.html





2022年1月20日木曜日

2022年1月10日月曜日

220110 ミコアイサを見て改めて考える「見る」こと「観察する」こと。

 





ミコアイサは珍鳥か?

珍しい冬鳥で、純白の羽毛にパンダのような目の周りの黒斑で愛くるしいため人気があるミコアイサ。そんな珍鳥が、ビルや住宅に囲まれた街なかの近所のそれほど大きくない池に二つがいが人知れず騒がれずに悠々と餌をとって泳ぐ姿を見れば、ここの近くの野鳥観察として有名な勅使池で望遠レンズを片手に大勢で同じ被写体を追っている野鳥撮影バードウォッチングとは一体いかなる現象か?と改めて考えるのですね。と言いつつも、やっぱりミコアイサを見つけた時には興奮して同じように”図鑑写真”を撮っている自分がいるのですが。


望遠レンズを構えて珍鳥を狙う。とは?

僕は仕事で野鳥の精密な磁器置物デザインを受けたのが始まりで、望遠レンズを買って観察を始めたわけです。500mmの望遠にテレコンつけて1000mmにして撮ったりしたのですが、なかなかどうして簡単な作業ではない。40年近く前のアナログのフィルムカメラの時代。

まず、動くものをファインダーで捉えるのが困難。

ファインダーに入ったところでタイミングよくシャッターを押すのが困難。

シャッターを切ったところでブレずに捕えることが困難。

そもそも、大きくて重いレンズを手持ちで構えることが困難。

1本のフィルムで36枚しか撮れないし現像が上がってくるまでちゃんと写ってるか確認できない時代ですから、とにかくバシャバシャシャッターを押してその場で確認、トライ&エラーを繰り返すデジカメのようには撮影できない。自転車と徒歩でアサヒビール工場裏あたりの庄内川河川敷周辺~対岸の春日井市松河戸周辺を通勤途中の日課で始めた観察だったわけです。

それにしても毎日観察しているとそれなりに鳥が見えてくるもので、今までもそこにいたものが、以前は気づいてなかったため見えてなかったものが見えてくる。例えば大雨で増水した翌日は魚が見つけられず川の真ん中で何度もホバリングしている点のように小さいカワセミを堤防の上から肉眼で見つけられたりといったように。こういったことに気づくだけでも高い望遠レンズを買った意味があったわけだと自身を納得させていたわけですね。見るということをより意識的にするための道具としての望遠カメラ。

それでも写真としては相変わらずひどいものでボケボケの写真ばかりだったのですが、なにせ野鳥写真家になるなんてことはつゆほど思ってなくて、あくまで写真は観察のための道具、ピンボケ写真を基にピントの合ったペン画で描き起こすための下絵くらいにしか思ってなかったので、そんな風だから、まあ、相変わらず写真としてはひどいものだったのです。写真として技術を極めようとは考えなかった。高校生の頃は雑誌アニマに掲載された宮崎学氏の樹上高くブラインドを張ってその中で何日も暮らし、巣立ちまでの記録を捕らえる鷲鷹撮影の記事を見て凄くあこがれたことはあったのですが。。それは宮崎氏の写真自体に憧れたというより撮影に至る行為全体に対する興味だった。

今回のミコアイサはキャノンパワーショットSX430 IS HD 45x optical zoomで手の中に入る小さなプラスチックのバカチョンですが、40年前に比べれば雲泥の差のまあまあそれらしい写真が撮れるのには驚くばかりです。(ピンはまだ甘いのでデジタル一眼が欲しくなります)ちょっと前からリハビリウオーキング中、40年ぶりに始めた野鳥観察ですが、まあデジカメ、スマホカメラといった半導体の進化やSNSの浸透した日常が、勅使池などで見られるバードウオッチングブームの背景にあるのです。それでは、なぜみんな同じ被写体の同じ鳥を撮ることに熱中するのか?同じような写真が大量にSNS上にアップされる状況とは何なのか?ということを考えてしまうのです。
私も見た。私も獲った。



水面の反射光によって意外と目立たなかったりする♂


「狩り」と「撮影」

そもそも私が仕事で課せられたデザイン、精密な野鳥の磁器人形は瀬戸地方で作られた欧米への輸出品(『瀬戸ノベルティ』と呼ばれていた)で、欧米では需要があったわけです。自然の中の野鳥の姿を「永遠に身近に置いて愛でたい」「所有したい」といった欲求は磁器人形が登場する以前は銃で撃った獲物を「剝製にして飾る」だったわけです。狩猟は命をいただくという「食」から切り離された「ハンティング」「狩り」というゲームとして貴族のお遊びになったわけですが、いみじくも望遠レンズでファインダー上に捕らえてシャッターを切る=「撮影」の英語はシューティング shooting=「射撃」なんですね。また、自分のとった獲物を見せびらかすといったある意味芸術作品の所有とも近いものを感じるのです。保存が困難で劣化する剥製が廃れて代替物としての磁器人形の登場という流れが一般的に言われることですがロココ時代からの宮廷を飾った装飾陶磁器の流れもその背景にあるでしょう。動物愛護の観点から見るまでもなく獲物=死体としての剥製はあまりにも直接的に「死」を身近に突き付けるため、有機物から無機物の人工物としての磁器に置き換えられていったと見ることもできます。一方で生態の再現としては剥製はあまりにも生気が失せ「生」の一瞬を切り取った写真の立体再現のようにはいかないといったこともあるでしょう。

まあこういうことに思いを巡らすきっかけは野鳥観察を始めて、へたっぴな写真をネガから選んで紙焼きしてもらってた写真屋さんがやっぱり野鳥写真を撮る人で毎日曜日に誘っていただいて撮影に同行していたという日々の体験があります。当時は野鳥の会の人や、野鳥撮影の人々の情報網で「どこどこに珍鳥がでた」といった情報が回ってきて、確実に撮影場所を絞って4WDで出かけるという、まあこの時も珍鳥=「希少」が価値をもつわけです。

印象に残ってるのは、冬の鍋田干拓にコミミズクを見に行った時。田んぼの畔という畔に4WDに乗って大砲を窓枠から出す「鳥屋さん」が、獲物を追い詰めるようにそろそろと一斉に車を移動する光景。その光景はまったく「狩り」としか言いようのない光景です。
今回のミコアイサ撮影中もシャッターを押しながら射撃しているような気分になります。水辺の冬鳥、カモ類の撮影はハンティングをより連想させます。



ホシハジロ♂(左)とミコアイサ(右端は♀)

狩りという観点から見ればミコアイサの♂は他の鴨、アイサ類にあまり見られないような全身真っ白です。曇天で順光の条件によってはほかの種類の水鳥の群れの中に紛れていても非常に目立つ存在です。ということは猛禽類からも狙われやすいということですが、一方でこの写真撮影時のような良く晴れた逆光状態の環境では意外と目立たないということが発見でした。


手前、ホシハジロ♂



ミコアイサ(巫女秋沙)は40数年前にやはり撮影仲間の人と一緒に、飛来情報を受け牧野が池の探鳥会に参加した時に見ているはずなのですが、まったく記憶に残っていないのは借りた双眼鏡の中の小さな映像でちょっと確認しただけだったからかもしれません。デジカメの液晶画面でその場で確認できるという今日の状況とは大いに異なります。
前日行ったこの写真の池近くの荒池にもミコアイサ♀が二羽いました。写真に写ったのが二羽だっただけで、道路際の木立の岸から池中央へ移動していった中に♂もいたかもしれませんが確認はできませんでした。
勅使池でも♀は見つけられやすいのに♂が見つけられないというのは、個体数で♂が少ない?(猛禽の餌食になって少ない?)のでしょうか。