2023年6月2日金曜日

「Kとの会話」その5

  一点透視図的な奥行きを強調しようとしてまっすぐな一本道の並木的な絵がつまらないのは、その図法が目的になっていて表現に直結してしまってることなんです。



すぐれた作品というものは、その図法が目的として前面に出てこなことによって、その作品が発するもやもやとした複数の問題を探そうと何度も何度もその作品に向き合って立ち会おうとすることを強いるのです。つまり何度も見たいという欲求を誘発しないものはすぐれた作品と言えないのではないか。
 まあこういったことで、僕はKの作品にそれほど興味を惹かれないということなんですよ。
面と向かってあなたに言うのは失礼かもしれませんが。
この感覚はトリックアートという見世物にも通じるのですが。
いや、見世物が悪いと言ってるわけではありませんよ。
緊張の連続で疲れきってる時に難しいことを考えたくなくなるじゃないですか。そんな時、大声で笑わせてくれる芸能というものは確かに必要ですよ。だけど面白いかと言われれば面白くない。まあこの二つの日本語の曖昧さがあるんですが「おもろー」と「実に興味深い」という違いでしょうか。
そんな風な感覚なんですよ。





 面白くないと言えば、僕の根本的な問題についても話さなければならないでしょう。
ええ、発表活動を行わなくなった理由についてです。
自由な提言を作品として提示し他者の意見を聞く、あるいは反応を見るということなんですが、それは一方で売るためのアートワークを作る、注文に応じて製作するということと、別なアマチュアな行動でもあるのですが、そのあいまいな状況下にもやもやして折り合いを付けられなくて今に至るわけです。

 97年の三つの展示発表。
ええ97年というのはこの国の経済がポキッと折れた有名なグラフが示すあの年です。
その頃社会を賑わせていたのは、ポリコレとかジェンダーフリーとか耳慣れない言葉が飛び交うようになった頃です。
海外由来のアートニュースでもホイットニーバイアニュアルとかでそういった類のテーマによる作品が多いとか伝聞されていたあの頃です。
まあ、それはいいんですが、それ、この日本に持って来て扱う問題?という疑問があったのは一旦措いておいて、自由な提言を謳っているリベラルアーツというものが、その実、左巻きの思想が当然の前提のようにふるまうことに「ええーーっ」となるわけです。
リベラルアーツ、コンテンポラリーアートというものが左巻きの思想を前提として存在しているということの片寄り。それって辞書的な意味の「リベラル=自由な」とは異なることじゃんてなるわけです。右巻きの保守とかそういったことは初めから存在しないように排除されてるような振る舞い。
ああこれが共産革命だったのかとようやく今になってはっきり理解実感したのですよ。以前 よりはるかにポリコレとかジェンダーとか言う語が身近に聞くようにこの国の社会に浸透していって、法律さへ作ろうとしている、今。

当時も、「抽象絵画は偶像否定したあの人たちの思想から始まってるんだからアメリカの現代美術というものも、いわゆる一つのフォークアートですよね。」と一世代上のポジション作家の人たち数人の集まりで発言してひんしゅく買ったりしてたんですがね。
まあその時はそれほどでもなかったんですが。そのあと数年して、自分がそういった展示会に出品するようになった頃のことです。

芸大の先生が学生数人を連れて展示会場に来てくれて、感想を述べたのですね。
ジェンダーフリーの流れの中で性差を強調した表現は時代に逆行していると。

いやぁ、僕としてはポリコレよりもバイオロジカルコレクトネス biologically correctness の方に興味があったわけで、、、
ポリコレで強調しなくても生物の世界では♂が♀になったり♀が♂になったりすることはなんら不思議ではないし、、
何よりこの国の文化(源氏物語や歌舞伎)を見ても、今さら海外から耳慣れない横文字にして改めて「世界標準から遅れているこの国・・・」と詐欺的に強調して輸入することに???となるわけですよ。
それ時代の流れとか関係ないじゃないですか。
アッ、ついつい脱線が過ぎました。
つい昨今の状況が当時を思い出させてくれたんですよ。


つづく


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