2013年6月15日土曜日

横長の大きな絵画 (映像体験としての絵画~曾我蕭白の雲龍図)

視線に対し垂直に対峙する横長に広がる大きな絵画。

大きいという基準は、平面に垂直に対峙した時に、視界に歪まず納まりきらない大きさ。
渋谷にある岡本太郎の「明日の神話」のような、
ボストン美術館所蔵、曾我蕭白の雲龍図(襖絵)しかり。

それは、その平面、イメージが描かれた面自体が遠近法の影響を受けるほどのもの。
横長の中心に立って右側を見る時、
横長の中心に立って左側を見る時、
それぞれからの視点によってイメージは大きく変化する。

蕭白の龍の大きな顔、その漫画的な大きな目とその間の鼻筋。正面と側面が同一画面に描かれているキュービズム的という見方もあるこの顔はどうか。
この顔の正面に立ち、龍の左目を隠すと側面の龍の顔のイメージが立ち現れるが、両目と鼻面だけに視界のピントを合わせれば側面図から正面図に移動する。
里帰りしたボストン美術館展(名古屋)で展示された状態は、この襖絵のすべてのパーツを制作された当時の展示空間に忠実に展示されたわけではないため、より違和感を覚え、焦点は龍の顔のみがクローズアップされる。
しかし、この襖が製作された当時の空間配置で展示されたならばどうだろう。
この想像は、欠落した他の屏風を補完しなければならないが、少なくとも顔の部分についての想像を働かせるなら、この襖を正面から近づいたり遠のいたりという鑑賞法だけでなく、歩きながら正面から側面から移動しつつ鑑賞しなければ本来のこの絵の体験でないことがわかる。
そうすれば、前述の龍の顔が側面図から正面図に移行していく状態が違和感なく受け入れられるのだ。
正面だけでなく対象の側面からの視界の重要性。


私たちは正面から画面全体を視るという西洋近代絵画(タブロー)としての鑑賞方法にあまりにもとらわれすぎている。
特に、蕭白の雲龍図のような日本の、壁に掛けられることを前提としない、タブローでない絵画、を視る作法は西洋近代絵画のそれと異なる。
それは西洋のいう「絵画」というものと別の「視覚体験装置」といってよいものである。


映像の世界ではテレビが登場した時の画面、スタンダードサイズ 3:4 アスペクト比 1.33
その後、テレビに対抗するように映画業界から登場したワイドスクリーンとシネマスコープ。
ワイドスクリーン(ビスタサイズ)は 3:5.55 アスペクト比 1.85
シネマスコープ(スコープサイズ)は 3:7.05 アスペクト比 2.35

映像装置という要素だけを取り出して見るならば、古典的テレビが家庭内空間での額縁に囲われた西洋近代絵画の延長としてのオブジェクトであり、映画は暗闇の中で視界を覆う現実に近づこうとした映像体験装置であった。
その体験は日常空間から出かけて行き、意志的に非日常体験を望む環境で体験される。
映像が投影されるスクリーンからオーディエンスまでの距離にもよるが、オーディエンスの視界は映像の中の出来事を注視していく中でそのフレームの縁は意識されなくなる。
映画の世界ではその中で起こっている映像内時間の体験に注視しながらオーディエンスは静止した視覚での体験を要求される。

しかし、映像投影スクリーンに近い大きさ、比率の絵画の場合、私たちはそれを、一点に静止し鑑賞するのではなく、また、近づいたり遠のいたりして見るだけでなく、行ったりきたりしながら側面からも見なければならない。立ったり屈んだりしながら見なければ本当の制作者の提供しているイメージの体験を共有することはできない。

それは、立体物を正面から鑑賞するだけでなく、その周りをぐるぐるまわることで静止した対象が動き出すという体験に近いものである。