から続く
再び光琳の松島図の模型を見ていて、あらためて推測したことは、左三曲と右三曲でイメージの視覚体験が異なることについての発見である。
それは、この屏風の中心に座って見る人の右眼と左眼の視覚、両眼視の視覚について関係するのではないかということだ。
ちょうど中央の折れ線を境に岩の描き方が、左三曲と右三曲で異なるのだが、右三曲の岩は光琳ではない誰かによる加筆であるという説が一般的である。それは左三曲の描き方のように塗り残しの輪郭線によって面が区切られず、面と面が片ぼかしによって接する描き方になっているからであるが、そのことが右三曲が遠景に、左三曲が近景に見える効果を表していることもまた事実であり、塗り残しの輪郭の無い片ぼかしによる右岩山は誰かの加筆によらずとも輪郭をつけない表現であったことが推測される。
座って左三曲を見ると、海岸の砂浜に立って海を見たときのように水平線が視線の上にあり、海が盛り上がって見えるのに対し、立ってこの屏風を見下ろすと右三曲は崖から見下ろした時の遠景の視界が広がる。
そして、この屏風の中央に座って見る時、右三曲と左三曲はそれぞれ右眼と左眼に対応する。
右眼は右三曲を左眼は左三曲を見ている。と思って見ている。
網膜では上下が反転し、脳みその視覚領では再び上下反転する。
それよりも横長のこの屏風を見ている視野が分割された網膜像として右眼と左眼に入った視覚情報が右脳と左脳の視覚領にどう認識されるか。
つまり両眼視で見るこの屏風のイメージは、両眼視における視覚認識を意識したか、していないかに関わらず、左右のイメージ認識についてを実践図解したような絵画になっているのではないか。
両眼視は遠近の認識に効果を発揮するのであるが、この屏風絵は左右に異なる視点で描かれたことにより、より奇妙な遠近認識を生むことになる。
つづく