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2025年4月1日火曜日

「オスは下痢、メスは便秘」の仕組みを自身の恐怖体験をもとに考える。

 
「女性はとにかく便秘が多い。男性はとにかく下痢が多い。」吉野敏明先生のこの話を聞いて、ここ数年の疑問が腑に落ちた。

深田萌絵の政経プラットフォーム 2015/1/16公開済み
「何故、女性は〇〇で死ぬのか? 命を奪う食習慣。 吉野敏明氏 No.211」
00:43から 2. 「男性は下痢、女性は便秘が多い理由」

引用のYouTube番組冒頭で始まる女性と男性の身体構造からくる違い「女性はとにかく便秘が多い。男性はとにかく下痢が多い。」と思いきや、大古より続く生物の雄雌における獲得遺伝から成立してきた資質であることと聞き、ここ数年の疑問が腑に落ちた。
腑に落ちたのは

自分の身に起こる現象である呼吸困難の発作が起きパニック状態になると、失禁しそうになったり、場合によっては便をもらしそうになったりすることだ。
この症状をかかりつけの呼吸器内科の主治医に聞いても「そんなことは、、、?聞いたことがない。」という感じだったのだが、自分で考えたのはこうだ。

死が間近に迫ってくるような呼吸困難の苦しみ、恐怖に直面すると脳が指令を出し苦痛から逃れるために快楽中枢を刺激する。恐怖を快楽で中和すると考えたのだ。
そのために快楽行為(=放出行為)を誘発する。放尿や射精は「快楽」に結び付けられている。排便も放出時、あるいは放出後にえもいわれの解放感がある。その開放感が「快楽」なのだ。恐怖に直面すると、自己防衛のため自身の脳は自身をだますように快楽を誘発する命令を身体の各部位に発動するのではないか。

吉野先生いうところでは

「逃げなきゃいけない。恐怖を感じたら小腸が過活動になって、うんちグチャグチャグチャとなって漏らすんですよ。…とにかくオスは体重を1gでも軽くして早く逃げなきゃいけない。…女性は…ウンチが溜まってると熱がこもる。子宮の温度を絶対冷やさないようできてる…」





 かつて名古屋港保税地区の artport2001で、開催された展覧会 media select 2001 に自身は、前橋工科大学の松本研究室とのコラボという形で「快/不快」というテーマでのやり取りをもとに体験型ウエアラブル・ガジェットを発表した。


しかし今、当時を振り返るとなんと抽象的であったことか。
振り返ると、当時の制作志向は商品企画を行っていた仕事の関係か、問題を見つけて何らかな成果物として結実させるというデザイン思考に因っている。

今、自身が直面していることはそんなのんびりしたことではない。もっと具体的で自身の身体で起こっている症状から反映されている。
自身の身体で進行している行動の制限、不自由、苦痛からさらに進んだ恐怖からくる切羽詰まった状況を日々やり過ごす中で導き出された思考である。





2024年3月3日日曜日

240303 「平針日記」 その後 / 安静時と労作時の分断

濃縮酸素の助けを借りる生活は、安静時と労作時が分断される。



COPDの症状が進行した者にとっての生活は慢性的な呼吸苦の状態が続く。酸素濃縮装置なしでの生活では、なだらかな呼吸苦である。その状態が普通で平常になると苦を感じるレベルがどんどん下がる。健常者が呼吸苦を感じるであろうSpO2が90%を切る状態になっても苦は感じなくなる。そうなってくるとどこまで我慢すればよいかわからなくなる。

「病気だから苦しいのはあたりまえ。多少の苦しさは我慢しなさい。」
と、育ってきた私たち世代にとって我慢の臨界点がわからないのである。(世代でなく私だけかもしれないが。)

ところが、酸素濃縮器を導入し濃縮酸素の助けを借りだすと、呼吸苦がまったくない安静時の状態に対し、労作時の呼吸苦がはっきり際立つというコントラストが生まれる。以前(濃縮酸素装置なしの時)より労作時の呼吸苦がより意識され苦しいと感じる。


2017年11月15日水曜日

2016年10月8日土曜日

about my work: Wearable gadget

"Milking suit" 1997 / silicon rubber, glass, vibrator


【 Wearable gadget 】

身につける奇妙な仕掛け。プロダクツのプロトタイプのようなものでもある。


① "Milking suit" 1997 


 Audio信号のボリュームに同期するバイブレータを仕込んだシリコンラバースーツ

② "Rental body" 1999

"Rental body" 1999 / silicon rubber, microphone, amplifier, speaker



マイク,アンプ,スピーカーを仕込んだ妊婦用シリコンラバースーツ



a still photo of "Good bye Blue sky" video



③ "Vibration gadget" 2001



光センサー,音センサーと併用して使用する、感覚のマスキング効果を身体に強制的に知らせるガジェット。

"Vibration gadget" 2001 / mixed ready-made



"Vibration suit" colabolation with Hiroki MATSUMOTO 2001 exhibition: Mediaselect 2001, Nagoya

[ Modeling of the reactions of human beings to information through the fivesenses ]  especially verifying the question of [ comfort and discomfort ] from the viewpoints of information technology and bioengineering.

This was the starting point of the collaboration of Hashimoto and Matsumoto Seminar, Maebashi Institute of Technology, for this presentation.  Hashimoto  did most of the actual production of the work with  the instinct as an artist, and the Matsumoto Seminar commented on Hashimoto's work with their specialized knowledge, and they opened the process of this collaboration to the public, by using the bulletin board on a website. This collaboration consisted of Matsumoto, who is specialized in information technology and bioengineering and 'considers everything on this planet as systems which use information as their media, and analyzes things and phenomena and constructs new systems', and Hashimoto, who has been creating art works with the theme of 'relationship of media and body'.  Matsumoto "observes the information output especially from human bodies when specific information (stimuli) is given through the senses of sight, hearing, touch  and smell, and models it." Milking Suit (a suit which automatically milks  mother's milk in reaction to AV information of cry of a baby) by Hashimoto attracted Matsumoto's interest, because the work showed their commonality in interest.

The work for this exhibition consisted of appliances (vibration suits) for being put on some parts of human body (back, shoulders, stomach, pelvis and knees), and sound and light sensor modules.  The viewers of the exhibition put on these appliances and modules of their own selection and walked around the exhibition venue with them.  Vibrators were designed to stimulate tsubo (points in human body derived from Chinese medical treatment) of each part of the body.


"We see without watching.  We hear without listening."

We have abilities to become insensitive or block incoming information according to our own convenience.  These phenomena, called "masking" and "cocktail party phenomenon," show our unconscious attempt to pick up necessary information and block unnecessary one.  These appliances and modules would automatically notify our bodies the information we attempt to block unconsciously.  "Is it comfortable or uncomfortable if all the information would stream into us automatically, without blocking or selecting?"  This question implies the critical viewpoint regarding our daily life which is soaked in the information flood from the media.

"Transforming the information through the senses of sight and hearing into one through the sense of touch (vibration to body)."

The sense of touch has been considered as inferior to the senses of sight or hearing.  We can imagine that it has been recognized to be easily associated with sensual pleasures and therefore being less intellectual.  However, it is also a human nature to seek pleasure even by inserting machine into our own bodies.  Using the sexual devices for the vibration appliances was an attempt to show such a human nature symbolically.  Input variances (quantitative variances of sound and light) were not reflected into output (variances of vibration) in this work, because the work focused on the "masking phenomenon," which we do unconsciously when information comes in.

The exhibition venue of media art bustles with various information of sound and light.  This suit makes it even more difficult for viewers to concentrate on the works in the venue, while appreciating art works already requires special effort of concentration.  This casts a question for viewers about the nature of appreciating art works in exhibitions.  Just as other works by Hashimoto, this work has two characteristics of being an art work and being practical item.  Using the container in front of the Warehouse No.20 showed that this collaborative project "Matsumoto + Hashimoto Net Lab" is mobile and does not require any specific location. Correspondences in the bulletin board on the Net Lab, stories up to the completion of this work, and other related visual data were shown on the monitor located outside of the container.


「快/不快」 橋本公成+前橋工科大学松本研究室
<人間の五覚情報に対する反応のモデル化>特に<快、不快>の問題を情報工学、生体工学の立場から検証する。

という設定よりスタートした橋本と前橋工科大学松本研究室のコラボレーションである今回のプレゼンテーションは作品実制作においては美術屋としての橋本がほとんど行い、コラボレーションはそのプロセスをインターネット上の掲示板で公開し、松本が自らの専門的立場からコメントするという内容でした。情報工学、生体工学を専門とし「森羅万象を情報を媒介とするシステムとして捉え、物事や現象を解析し新しいシステムを構築する」松本と、メディアと身体の関係を中心に作品化している橋本とのコラボレーションです。「特に人間に対し、視覚、聴覚、触覚、嗅覚から特徴ある情報(刺激)を与えた時に生体から出力される情報を観察しそのモデル化を行っている」松本が橋本に興味を持ったのは、その作品「MILKING SUIT」(AV情報としての赤ん坊の泣き声に反応して母乳を搾乳するスーツ)に共通点を見い出したからでした。

今回の具体的な制作物は、人間の身体の部位(背中、肩、腹部、骨盤、膝)につける装着具(バイブレーションスーツ)と音センサー、光センサーモジュールの組み合わせを選択した展覧会鑑賞者が、装着したままメディアセレクト展会場を鑑賞するというものです。バイブレーターは身体の各部位のツボの位置を刺激するよう取り付けられています。

「見ているけど見えていない。聞いているけど聴こえていない。」

私たちは都合よく鈍感になったり、情報を遮断できる特性をもっています。<マスキング効果>や<カクテルパーティー効果>というこの現象は、私たちが無意識に必要な情報と、そうでないものを排除、選別していることを示しているわけですが、この装着具とセンサーモジュールの組み合わせで、無意識に排除しようとしている情報を機械的に身体に知らせようとしています。「私たちが無意識に排除している情報が機械的に入ってきたら、それは快か不快か?」という問いは、メディアからの情報の洪水にどっぷり浸かっている私たちの日常生活への批評的な解を含んでいます。

「視覚、聴覚にあたる情報を触覚(身体へのバイブレーション)として認知させる。」

触覚は視覚や聴覚より低い感覚と考えられてきました。それは、触覚が肉体の快楽と容易に結びつき知的なものではないと考えられていたからだと想像することができます。しかし、一方で機械をも身体内部に取り込み快楽を得ようとするのもまた、人間の姿です。身体へバイブレーションをあたえるのに性具をそのまま用いているのはそのことを象徴的に表そうとしたからです。入力信号の強弱(音や光りの情報の量的変化)を出力(バイブレーションの強弱)に反映させることを行っていない今回の出品作は<マスキング効果>という私たちが情報入力時に無意識に行っている現象に気づくということに焦点を絞っています。

メディアアートの展覧会場は光や音の情報で溢れています。このスーツを着け作品を鑑賞することは、ただでさえ神経を集中しなければならない鑑賞行為に、集中できない状況をあたえます。それは、展覧会を鑑賞するということ自体について鑑賞者への問いになっています。他の橋本のスーツ作品と同じように今回の装着具も作品であると同時に実用品にも成るという両犠牲をもっています。20号倉庫の入り口にあるコンテナをサテライトとして選んだのは、このコラボレーション<松本+橋本ネットラボ>が特定の場所をもたない移動可能なものであるということを示しています。コンテナ外ではネットラボでの掲示板でのやりとりや、今回のプレゼンテーションに至るストーリー、関連視覚資料がモニターで公開されました。

Supported by    Nagano Chieko (arthouse): 永野智恵子(アートハウス)
Special Thanks  Nakazawa Masako (web Design):中沢昌子(web制作)Hayashi Ikumasa:ハヤシイクマサ Honma Mayumi:本間真由美

from the catalog of exhibition "Mediaselect 2001"-----------



art-04
https://www.facebook.com/kiminari.hashimoto/posts/797704556975485


2015年1月16日金曜日

Clockwise and Counterclockwise  memo 2014/10/17

「脳認識における右回転と左回転のスイッチはどこでおこるか?」についての考察








2014 Oct.17

2014年9月18日木曜日

ダイオラマについて、再び

私の感覚がおかしいのか?

確かに、実物はすごく良くできていることに異論はない。
実物を見て感じることが必要なことにも異論はない。

しかし、それが模型であることの残念感は、それを写真で見たときの、また、ビデオ映像で見たときの、それとは比うべきもないのだ。
そのことを、問題にしているのだ。
つまり、精巧にできていればいるほど、肉眼で実物を見るそれが、模型でしかないということのリアリティの喪失が、同じものを実物でなく写真や映像で見たときのリアリティよりもおとっているかということをだ。
なぜ、精巧に、細密に作られていればいるほど、それが、視覚的リアリティから遠ざかっていくということだ。



Facebook 2013年12月1日 21:21 -----
https://www.facebook.com/kiminari.hashimoto/posts/566359226776687?comment_id=3746413&offset=0&total_comments=10
この画像の掛け軸は現代美術家の杉本博司氏の写真作品です。アメリカ自然史博物館のダイオラマを写したものです。20数年前、映像の歴史に興味を持っていた私はダイオラマと2つのCCDカメラ、そのライブカメラから取り込んだ観客の映像を出力する2つのブラウン管を遠近法的にダイオラマに合成する装置を発表しました。その装置は両眼視についての思考以外のほかに多くの要素を含んでいたため、その後の私の作品は複数の興味に分散し両眼視については放置され忘れていたのですが、先日この作品を評価してくれていた人から両眼視についてあらためて気付かされたのでした。そんな時に今朝、日曜美術館の展覧会紹介のコーナーで正木美術館で開催中の展示で杉本博司氏のこの作品説明でダイオラマと両眼視、単眼視(カメラによる視覚)のことに触れられ忘れそうになっていたことを又、思い出したのです。


Facebook 2013年12月1日 21:23 -----
https://www.facebook.com/kiminari.hashimoto/posts/566359226776687?comment_id=3746422&offset=0&total_comments=10

杉本博司氏のwiki、下記にダイオラマに関する部分抜粋  
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9C%AC%E5%8D%9A%E5%8F%B8
..最初のシリーズの『ジオラマ』では、ニューヨークのアメリカ自然史博物館の古生物や古代人を再現したジオラマを撮った。片目を閉じた「カメラの視覚」のもとでは、両目で見ると模型だと分かるジオラマが遠近感の喪失によりリアルに見える、という発見からこのシリーズは始まっている。精巧なジオラマを本物に見えるよう注意深く撮ったシリーズは、「写真はいつでも真実を写す」と考えている観客には一瞬本物の動物や古代人を撮ったように見えてしまう。..



http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/05/diorama-of-ehm-1992-01.html

http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/05/diorama-of-ehm-1992-00.html

http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/05/diorama-of-ehm-1992-02.html

http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/05/diorama-of-ehm-1992-03.html

http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/05/diorama-of-ehm-1992-04.html

http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2012/09/blog-post.html





2014年4月5日土曜日

メディアアート ~メディア(媒介)による鑑賞とその誤読~ 切手からの模写「秋冬山水図(冬景)」雪舟筆

4~5歳くらいの頃、鉄腕アトムが始まると紙と鉛筆を持ってテレビの前に座り込みひたすらアトムのイメージを追いかけた。動く対象を線で追いかける熱中。クロッキーと言う言葉を知るのは10年後。
その後、小学生の頃に初めて美術品というものを自発的に写したことが記憶にある。初めての模写。現物は現存しないが、記憶は強い。模写の対象は、雪舟筆「秋冬山水図(冬景)」
模写の元になったのは画集や大きな図版ではなく、発行されたばかりの小さな記念切手。

日本郵便記念切手 第1次国宝シリーズ 第5集 室町時代 1969年2月10日発行
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/philately/tokyo_nm_painting.html


かっこいいと感じて描きたくなった以外に、なぜ模写をしたかの記憶は無い。
1969年2月10日発行だから、たぶん11才頃。学校から帰ってきて、午後に。小さな切手からB5サイズくらいの紙に拡大して描いた。何がかっこよかったか、再度分析。

1)カラー
画面中央のエイッヤッとひかれた垂直の線はかっこいい。
同時に画面を覆う地のグレーのカラー。そのウオームグレーがカラー印刷により、その色にワクワクした。モノクログレーを色として感じた体験。
当時の媒体によるイメージ体験は天然色カラーへの移行期であった。
白黒テレビからカラーテレビへ。白黒写真からカラー写真へ。
見慣れていた白黒イメージがカラーになることでワクワクしたことはなぜか。
身の回りの日常風景は天然色カラーで広がっているのに、そのことにはカラーとして意識せず、媒体メディアになった時、初めて意識するのはなぜか。

2)小さいイメージ
小さい切手からB5くらいの厚紙に拡大して写した。
部分の比率を測って升目拡大したかは記憶に無いが、この頃の私は、小さい図から拡大して模型を作ることに熱中していたからそうしたかも知れぬ。
中公新書だったかの蒸気機関車に掲載されていた100/1くらいの側面図イラストから9mmゲージ用のペーパーモデルを作ることに熱中していた頃。当時はデジタルコピー機などなかったから部分部分の寸法を物差しで測り、想像した正面図から車軸の幅を9mmにあわせて比率を割り出し採寸する。算数で習った比例を実践で役立てることを楽しんでいたかも知れぬ。
小さい印刷メディアによる美術品は日常に在った。美術館に行かなくても、道端に落ちている東海道五十三次の浮世絵を印刷したマッチ箱。お茶漬け海苔におまけでついているカードなどより、道端で踏みつけられ雨にぬれてアスファルトにへばりついている東海道五十三次を見つけた時のほうが所有欲が高まったのはなぜか。

 *ゼロックスコピー機の登場は画期的なものであった。それまでの、升目を切って線をなぞるような拡大縮小作業はわずらわしくもあり、その行為の途中に感覚が入り込むことから、自身の感覚のイメージが信用できない部分が残るのだ。そんな感覚部分を排除し、機械的に一気に2倍、4倍、10倍に拡大したイメージが現前することはそれ自体感動する出来事だ。

3)書法
描いたのは水彩絵具であるが、水墨画、の書法、運筆をを真似るというものではない。
描かれていない紙の部分の色を再現するため、赤を少し混ぜた黒と白の絵具で油絵を描くように不透明の絵具で画面の隅々まで塗りこめた。画面を覆う褐色がかったグレーが何もかかれていない地色との認識は無かったかもしれない。

4)絵画空間
中央の線と、左側のとがった白い山々。中央の線は手前と奥行きを区切る岩の輪郭という認識は無く、遠景の山の天まで続く、とがった奇妙な輪郭と認識していた。だから画面右の筆の腹で刷いたような墨蹟が岩のテクスチャーを表すタッチであることの認識がなく、その部分は奇妙な木を表すタッチであるかと解釈していた。
岩の輪郭の線が中央の上部から始まっていなく、途中から始まっていることによりこの誤読に繋がった。遠景の空と手前の岩の面が画面上部で繋がっている。つまり私の目は絵画空間をではなく、墨蹟の線を追いかけて何が描かれているかの対象物に向いていたのであろう。
その線が、遠景と近景を分ける岩山の輪郭に見えだしたのは、十数年後、同じように画面中心に遠景と近景を分断するように手前の岩を描いたセザンヌの石切り場の油絵図版を見てからである。晩年作であるというこの絵も近景と遠景の色班は細かいタッチで溶け込み、面として見る時に遠景近景の区切りは曖昧である。雪舟の大胆な太い筆のと異なり、振るえるような細かい細い線がその輪郭を作り、その線は遠景近景の分断をたよりげながら表している。
頭の中ではっきり見えているこのセザンヌの図版を、今ネットで検索しても見つからない。あるいは私の脳の中で作り出された記憶によるイメージかもしれない。

5)大きさ
切手になった雪舟筆の原画の大きさは47.8cm×30.2cmというA3を少し大きくしたサイズである。
模写している時はもっと大きなサイズであると感じていた。

6)線
秋冬図山水図の中央の線が記憶にあったかは定かでないが、20年後、茶碗に描いた山中作画の図では山水画の中に入って、空に線を引く自画像を描いた。



「公成仙人山中作画の図」 貫入土に呉須と塩化コバルト(酸化焼成) 1989年頃


誤読と捏造による記憶のリライティング。それによっても時間は進行し、多くの人々が巻き込まれる事態へと繋がることもあるのは世の常。



*秋冬山水図に対する分析は以下に詳しい。
雪舟《秋冬山水図(冬景)》東洋的視座とオリジナリティ──「島尾 新」 影山幸一2009年02月15日号
http://artscape.jp/study/art-achive/1199351_1982.html



2013年11月15日金曜日

光琳の松島 2


から続く



再び光琳の松島図の模型を見ていて、あらためて推測したことは、左三曲と右三曲でイメージの視覚体験が異なることについての発見である。
それは、この屏風の中心に座って見る人の右眼と左眼の視覚、両眼視の視覚について関係するのではないかということだ。

ちょうど中央の折れ線を境に岩の描き方が、左三曲と右三曲で異なるのだが、右三曲の岩は光琳ではない誰かによる加筆であるという説が一般的である。それは左三曲の描き方のように塗り残しの輪郭線によって面が区切られず、面と面が片ぼかしによって接する描き方になっているからであるが、そのことが右三曲が遠景に、左三曲が近景に見える効果を表していることもまた事実であり、塗り残しの輪郭の無い片ぼかしによる右岩山は誰かの加筆によらずとも輪郭をつけない表現であったことが推測される。

座って左三曲を見ると、海岸の砂浜に立って海を見たときのように水平線が視線の上にあり、海が盛り上がって見えるのに対し、立ってこの屏風を見下ろすと右三曲は崖から見下ろした時の遠景の視界が広がる。

そして、この屏風の中央に座って見る時、右三曲と左三曲はそれぞれ右眼と左眼に対応する。
右眼は右三曲を左眼は左三曲を見ている。と思って見ている。
網膜では上下が反転し、脳みその視覚領では再び上下反転する。
それよりも横長のこの屏風を見ている視野が分割された網膜像として右眼と左眼に入った視覚情報が右脳と左脳の視覚領にどう認識されるか。

つまり両眼視で見るこの屏風のイメージは、両眼視における視覚認識を意識したか、していないかに関わらず、左右のイメージ認識についてを実践図解したような絵画になっているのではないか。

両眼視は遠近の認識に効果を発揮するのであるが、この屏風絵は左右に異なる視点で描かれたことにより、より奇妙な遠近認識を生むことになる。


つづく









2013年10月15日火曜日

眼差しのゆくえ

建仁寺の二つの双龍図。
一つは海北友松による障壁画。(建仁寺本坊大方丈障壁画 礼の間「雲龍図」8面)
これは二面が障子でその対角線に二面の襖に描かれている。(重要文化財 京都国立博物館寄託で建仁寺の展示はキャノン「綴」プロジェクトによる)
http://canon.jp/tsuzuri/



南面の縁側から正面と左面の龍を見るとどちらの龍もこちらを見つめている。




また、東面の廊下から正面と右面の同じ龍を見ると、この時も二つの龍はこちらを見ている。
この部屋で修行する僧は、どこからも双龍によって見つめられる。にらまれている。



もう一つの双龍図。
講堂天井に描かれたそれは見上げる私たちに視線を交合わせない。


二つの双龍図の目の描き方が、視る者との眼差しに関係する。
白目の左下に黒目を描かれた龍と、白目の右下に黒目を描かれた龍の二つの龍が配置された海北友松の雲龍図。
白目の左上に黒目を描かれた龍と、白目の右上に黒目を描かれた頭部を近づけて龍が向き合う天井画の双龍図。




>思考の飛躍

言語獲得以前の赤子の視線についての実験報告

言語獲得段階の赤子はモノを指し同時に同意を求めるように人の顔を見る。
この段階で赤子の視覚はまだ完成されていないが、人の顔の目を伺い見ていることが実験で報告された。
顔の中の二つの丸い瞳の動きをピントが合っていない視覚で赤子は追いかけながら他者の同意を得るように言語を獲得する学習を行っている。
ぼんやりした視覚の中で、眼差しの行方とその表情を追うことで、視られることを意識しながら言葉の獲得と認知を学習する。

2012年7月22日日曜日

大きいもの

ドローイング(1984)
紙にペイントマーカー
大きいものはどこまで可能か。

たとえば地球の大きさと同じくらいの大きさのものを造るとか。

あるいは地球上の物質をすべて投入して造るものとか。
たとえば地球上の物質をすべて投入しながら造っている途中で削られた地球の質量と、建造中の大きいものの引力のバランスとか。

たとえば、それほどの大きなものを造った時、地球の自転と公転に及ぼす影響とか。



たとえば、月の軌道は年間3.5cmほど外側にずれていっていることとか。
そのことが地球の寿命に及ぼす影響とか。
そういった地球に影響を与える変動を回避するために、月と同等の質量をもったものを軌道上につくるとか。

そんなことをキューブリックの2001年を見た後に、考えたか、考えなかったか。

ドローイング (1984)
紙にラッカー、ペイントマーカー(アルミ)
2枚のモノリスが互いの引力で引き合いながら軌道を運行する。
そんなものを造ることは可能か。

宇宙空間に衛星のごとく、夜空に輝き、確認できるくらいの大きなものを造ることは可能か。

必要な素材はどこから調達するか、とか。

そのために必要な素材と構造を考えること。










2011年4月29日金曜日

裸の王様は裸にされる。子供達によって、さえも。


























About "Face to Face" 覚書070122-1


Faced 1. communication - "He is faced with a difficult problem."





1) 仕事で忙しいお父さんは明け方に我家にこっそりしのびこみ、子どもの寝顔を見る間もなく、ふとんにそそくさともぐりこむ。朝ごはんを食べる子どもは、寝顔のお父さんしか知らない。たいへんだー。たいへんだー。

2) オフィスでは、みな背中をむけてPCのモニターに一日釘付け。声をだせば届くのに、伝達事項は電子メールでとんでくる。たいへんだー。たいへんだー。

3) 明け方のファミレスにやってきた恋人たち。席にすわるやいなや互いの携帯電話を開き、画面に向かって忙しくメールを打ち出す。見つめあう愛の囁きなしに別々のところにいる2人。たいへんだー。たいへんだー。

4) ひさしぶりの休日、子どもに声をかけるお父さん。だけど返ってくるのは気のないうつろな返事。だって子どもは忙しい。ゲームに夢中。たいへんだー。たいへんだー。


世の中のいたるところで面と向かう時間がどんどんへっている。たいへんだー。たいへんだー。たいへんだー。たいへんだー。
世の中のあらゆる世代で面と向かう時間がどんどんへっている。たいへんだー。たいへんだー。たいへんだー。たいへんだー。


ある日お父さんは『めんとむかう』ことを説こうとアートという名の一つの遊具をつくったとさ。

<2007/01/22> Recalled from broken i-book





http://www.acc-aichi.org/aburabu/34go/syosai.html#02




2011年4月28日木曜日

三次元

「こどもはいつから3次元のものを平面(2次元)におきかえることができるだろう?
ひとは、いつから3次元のものを認識し2次元の平面におきかえることができるだろう?」



5歳の子どもがあるとき上手に魚の絵を描いた。
それは図鑑を見て描き写した絵だった。細かい模様までよく描き込まれた絵だった。そこで私は次の日に子どもと絵を描こうと一個の鉢植えを子どもの前においた。

「きょうはこのうえきばちにうわっているはなのえをかこう」

わたしのよびかけに、こどもは

「そんなのかけっこないじゃん。だって、こう、かみのうえにあるものはかけないじゃん。だってこうえんぴつでかこうとしてもなにもかくところがないくうちゅうにかけっこないじゃん。」

と子どもは植木鉢が描く紙に対して垂直に置かれていることを身ぶりをまじえてわたしにうったえた。私はハッとした。

It is impossible to draw this flower !  Well, because I cannot draw a picture on the air !!

畳や机のうえという平面に置かれた2次元の紙。そしてその上に置かれた植木鉢。紙の上の空間にのひろがっている植木鉢は、かれにとって、空中に鉛筆を走らせて描くということだ。


わたしたちはいつごろから、みのまわりの3次元の空間を2次元の平面に置き換えてえをかくことができるようになったのだろう。
そして、人々はなぜ、みのまわりの3次元空間を写真のようにそっくりに描かれた絵を上手な絵というのだろう。

そんなふうに考えながら、あらためて子どもが描きためた絵をみると、いくつかの種類にわけられる。
一つは2次元のイメージを2次元の紙に描きうつした絵。テレビや本で見るキャラクターの絵などが多い。
二つ目は記憶をもとに頭の中で記号化した絵。これは、母親や父親など人の形をしたものが多いようだ。
そして、三つ目は、自分がこの世界の中で初めて出会った不思議なことや興味をひかれたことを他者に伝えようとして描かれた絵だ。これはことばのようなメディア性をもっている。人に伝えたいというおもいが絵となったものだ。
こう見てくるとなるほど3次元の空間を写生したものは見あたらない。




図2) 概念画としての機関車トーマスの再現



ある日、また息子が描いた奇妙な絵を発見した。
この、ホワイトボードにマジックで描かれた不思議な絵はなんだろうと子どもにたずねたところ、機関車トーマスの絵だという。
線路の上にのっている機関車を描こうとして彼は苦労したらしい。


「だって、せんろがこうにほんあって、そのうえにトーマスがせんろにのっているんだけど、せんろはにほんあって、そのせんろのいっぽんにもしゃりんがのっていて、もういっぽんにもしゃりんがのっているんだからいっぽんのせんろにしゃりんをかいて、もういっぽんのせんろにもしゃりんをかいたらトーマスがふたつになっちゃうんだ。」



なるほど道理である。と、へんに納得する私であった。 

そしてできあがった絵は西洋美術史的観点に立てば、いくつかの視点を同一平面
上に描くというキュービズムのような作品に仕上がったのである。        
  
<0810/2002> Recalled from broken i-book


---追記
以下、制作手順を再現。


図3) はじめにホワイトボードに線路が描かれる。線路は上から見た記号として表されている。息子はプラレールのトーマスで遊んでいて、朝のテレビで見ていた機関車トーマスも見ていたから「せんろ」という記号化されたイメージから概念としての「せんろ」を認知していただろう。

図4) 線路の上に車輪が三つ描かれる。線路が上から見た図であるのに対し、車輪は横から見た図象で表されている。プラレールなどで遊んでいたことから、線路に車輪をのせる、線路から車輪がはずれると「だっせん」する、ということを「しゃりん」という言葉とともに息子は認知しているらしい。

図5) 車輪の上に機関車の輪郭のような図象が描かれる。上から見た線路、横から見た機関車、ここまでの図象は多くの児童画によく見受けられるイメージである。

図6) もう一本の線路に接するように車輪が描かれるが、車輪は横から見た図でありながら、線路の上から見た図に対応させようと上から見た線路の中心から対称になるように線路の外側に描かれている。この後、機関車の輪郭がすでに描かれてている輪郭の鏡像のように外側に開いたように描かれ(図2)線路の上のトーマスは二つになる。



-----------追記171119: 空中や水中に絵を描くことは、フェムト秒レーザーによって可能になることが報告されている。現時点では大掛かりな装置が必要で、日常的に使用できるデバイスが登場するにはかなり時間が必要であるが、そういったデバイスが登場すれば冒頭のイラストにある問題は別次元にアップグレードされるだろう。