なぜ好きになれないのか?なぜならだまされてるという思いがあるからです。
ところで騙されているのは何か?
私の両目か?
私の脳みそか?
私の脳みそと合いまった身体感覚か?
私の三半規管か?
私という人格か?
しかし、絵画に関わった者ならだれもが直面する透視図法や遠近法。平面なのに奥行きが見えるということから避けられない目の欺き。そこから逃れられません。
視覚的イリュージョンとトリックアート
これはブリジットライリーのオプアートを連想させますが、ライリーのそれが壁にかかった絵画であるのに対し、床に展開されたこの部分的に歪んだ市松模様はより身体に関わってきます。足元に展開され、壁に垂直視線で対峙するといった絵画鑑賞体験よりも、空間という実際の遠近感に合致させられているからです。
https://www.boredpanda.com/wavy-floor-optical-illusion-casa-ceramica/?utm_source=bp_art&utm_medium=link&utm_campaign=BPFacebook
Judd on the road, but trick art.
http://gigazine.net/news/20171003-3d-crosswalk/
これはステラのHad Gadiaシリーズを思わせます。
ところで、"What you see is what you see."「あなたが見ているものが、あなたが目にしているものです。」と言ったフランク・ステラが1958年ころから始まるブラックペインティングで見せたストライプのイリュージョン(これはまったく一つの科学的発見のようでした)と、1980年代のHad Gadyaシリーズ(*1)で登場する円柱や円錐のあからさまな立体感のシャドーを記号化した図象、その頃から多用される切り抜かれた歪んだ平面に導入される歪んだワイヤーフレームの間にはイリュージョンに対する大きな隔たりがあると感じます。
70年代後半からのステラの物理的な奥行きを持った彩色されたレリーフは実際体験すると奥行きを持ったイリュージョンが体験できないというアクチャルな体験をアメリカに行った時に経験しました。同時期にシカゴのアートインスティテュートで行われていたキーファーのオシリスとイシスなどの初期絵画を集めた回顧展で抱いた体験とは大きく異なるものでした。いずれも1987年の12月のことです。(*2)
ステラの物理的なコンストラクションはそれが設置されている壁が行き止まりであり、氏が " working space " で語ってるようにカラバッジオの絵画作用空間のごとく壁から突き出しているも、そこにはイリュージョンがない、あるいはあえてトリッキーなサブジェクトを導入しつつもそれはトリックと逆の効果で使用されているように見えます。
切り抜かれた形がより複雑になり、それぞれにワイヤーフレームが腐蝕刻印された線による空間の歪みが顕著なサーキットシリーズでも実際、作品の正面に立って見るアクチュアルな体験と、それを撮影した写真図版を見る体験とで大いに異なります。写真図版で見るほうが、イリュージョンの効果が顕著なのです。これは写真という一点から撮影されたものが平面である図番に印刷されていることで絵画的空間に収束されるのです。
このことの似たような体験は、精巧なダイオラマを見る体験とそれを撮影した写真を見る体験にも近いのです。
実際、円柱と円錐の立体記号を印刷し切り取られた絵画的レリーフは、アクチャルに再現した立体の両方を作成しています。
*1) エル・リシツキーの「ハド・ガドヤ」に対応してステラが制作したシリーズ
Frank Stella, Illustrations after El Lissitzky's 'Had Gadya': 1985
https://www.waddingtoncustot.com/exhibitions/91/
Had Gadya (Tale of a Goat)
エル・リシツキーが1919年の伝統的なユダヤ歌謡『Had gadya』を視覚的にした絵本。
http://thejewishmuseum.org/collection/1960-father-bought-a-kid-for-two-zuzim
エル・リシツキー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
*2) この時(1987年)私が見たステラとキーファーには共通する点がありました。それは形を描かなくてよいという自由を獲得したことです。ステラは切り抜かれた形として、キーファーはその巨大なペインティング画面の下にモノクロ写真が存在し、それをなぞっているということです。