2021年10月31日日曜日

「古い3D」と「新しい3D」(その0)

今日は、白地に黒一色によるドローイングをメインにしたインスタレーションを二つ見た。


クレメンス メッツラーさんによる「運河に描く」(中川運河)と、伊藤千帆さん、小川友美さんによる交換制作「hokakara」(ガルリ ラベ)だ。


クレメンス メッツラー「運河に描く」ビューポイントから見た風景(中川運河)

ビューポイントが設定されている

クレメンス メッツラーさんは名刺にはイラストレーションと明記されていることからも「イラストレーション」を表現のフィールドとして活躍されてる、一方、中川運河に関するいくつかのプロジェクトにもその始まりの段階から精力的にかかわりのある活動をされている。

数年前はコンピュータによって描き起された中川運河が活発に機能していた時代の水際風景を綿密な取材と現在の風景や写真を合成した写真イラストレーションとしてプリントアウトして展示されていた。

その時の印象は平面的なイラストレーションという印象である。

画面が垂直水平にカチッと構成され、斜めの線が、倉庫群の屋根やクレーンなどに見られるものの、奥行きを表現するために用いられているのではなく、あくまで四角いフレームに平行な面のレイヤーが破綻することなく目に届くという意味で画面分割として用いられ、圧倒的な奥行き感を強調するといった消失点を持たないすごく浅い画面の印象だった。

そして今回のインスタレーションもまた、圧倒的な平面性を示していた。


今回は古い時代の中川運河の写真などから取材した労働者や船がペン画によるイラストレーションで制作され、その線画を現実風景のスケールに拡大トレースされ(小学校児童参加によるプロジェクトとして実施されたらしい)、時を超えた現代の風景に合成されるといったインスタレーションである。

プロジェクト系のアート表現、サイトスペシフィックインスタレーションなど近年のアート状況のお約束はすべて盛り込まれているが、私が気になったのはその作品がビューポイントを設定していることである。そのことにおいて、この展示は絵画であるということだ。というか古くから現在まで続く絵画の根本的な問題を扱ったものであることを示している。

指定されたビューポイントから見る時、現実の3次元空間の風景が、イラストレーションの線画によって一層強調され、圧倒的な平面性を示していた。僕が見た日がピーカンに晴れた日であり、風もなく運河の水面が鏡面のように倉庫街の風景を映していたことも影響するかもしれないが、現実風景を見るという体験が、美術館の壁の前に立ち絵画を鑑賞しているような奇妙な感覚に襲われたのである。


私たちは街の中に仕組まれるアート作品を見る時、現実空間に介在する異物としてそれを見る癖がついてしまったが、今回のメッツラーさんの作品は、本人の意図はわからないが、いみじくも街の風景の中で「絵画の構造を見ろ!」というようなメッセージをその作品は発していたと感じたのである。









XYZ軸空間に投げ込まれる

まずこの展示のDMが届いて詳細情報とガラス張りのギャラリーウインドウからの展示写真を見たときに、鉄のような硬質な黒く塗装された線材と同じく黒く塗装された木の枝による立体物を二人の作家が交換制作したものかと想像したのであるが、現実の空間に入るとその思い込みは裏切られる。

白い壁、天井ガラス張りの窓、ショウウインドウのような空間。

伊藤さんは近年、インスタレーションを制作するとき展示空間をCADによるシュミレーションで綿密に検討していると聞く。今回の交換制作も、CADによるシュミレーションで小川さんとの「交換」で展示が検討されたとのこと。




展覧会DM


シュミレーションと現実空間

シュミレーションを仮想空間と呼んでもよいが、メタが提示しているアバターによる仮想空間での体験を体験するような、実際の現実空間がモニター中のXYZ箱に投げ込まれたような錯覚を覚える。それはあくまでCADによるシュミレーションが行われた空間であると知っているからにすぎないが。

白い空間で黒い線によるテープドローイングや黒く塗装された枝や角材は、それ自身の奥行やボリュームを持たないように感じられる。


シュミレーションは現実を体験するためのメタ空間である。

メッツラーさんの現実空間が絵画平面に置き換わったような体験を強いているのに対し、ここでは絵画的な要素としての線によって
そして二つの作品体験を構成しているのは白地に黒い線であるということに共通点がある。


(途中ミカン、つづく)