2024年6月5日水曜日

フォトスタット

 


 80年代に仕事先で使用していた製版カメラです。今はTOOと名前が変わったデザイン画材屋 いづみや さんが扱っていたアメリカ製のカメラです。カラーコピー機の無い頃はペンと水彩画で描かれた陶磁器人形の完成イメージスケッチをカラー撮影してアメリカのバイヤーに郵送しデザインの確認をしていました。メインはカタログやチラシなどの製版や陶磁器の転写原稿作成用のものですが、僕はずっとこのカメラの管理を任されていたので、立体撮影に使ったりいろいろ実験的なことをして遊びました。自身のカメラ歴の中ではもっとも長い時間かかわったカメラかも。明室で撮影から現像までできるカメラでした。


Too 100年ヒストリー
II 機材の取り扱いがスタート
1970(昭和45)年〜1987(昭和62)年

いづみや さんはTOOと社名を変えて今もありますが、このアメリカ製のカメラを参考に独自で開発し商品化しました。長くかかわったのはこの日本製の方だったかも。個人用に印画紙とフィルムを買って、作品やドローイング制作に使用しました。デジタル入稿に完全に変わった時、このカメラをもらいました。今世紀初頭の頃です。 

ステッピングモーターやスクリューで50 ~400%?くらい調整でき、ハロゲンライトで露光時間も制御でき、レンズも利用できる。



処分を決めたのでキネティック部品として欲しいという方はメッセまでどうぞ。20数年たってるので現像定着液のサービスは終了してるため製版カメラとしての使用はできません。





2024年6月1日土曜日

「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」からの「なぜみな同じ被写体の写真を撮りに行くのか」


 6月1日 8:04 
6月になりました。堕栗花と鳰の季節です。
リハビリ池では鰺刺のドボンも見られ始めました。
ベビーラッシュの勅使池です。

「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」芭蕉

鳰鳥=カイツブリは万葉の昔から和歌に謳われている身近な水鳥です。今も都市公園なや餌となる生き物がいて潜むところのある水辺で身近に見られます。芭蕉が詠んだこの句の「鳰の浮巣」は鳰の海と呼ばれていた琵琶湖のことを指してるようです。



画像は昨年6/4~6/20のもの。


芭蕉の句について、ここからは引用です。
芭蕉自身この句について「和歌や連歌に使われてきた言葉だけで構成されているけれども、『見に行こう』と行動に移している点が俳諧なのだ」と解説しています(『三冊子(さんぞうし)』)。つまり、伝統的なイメージだけで「鳰の浮巣」を詠んできた和歌とは違い、実際に見に行く物好きな姿勢こそが俳諧だというのです。芭蕉はそうした姿勢を「数寄(すき)」と呼んで尊重しました。(日本古典文学研究者の深沢 眞二先生による)https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09628/
ここまで

上記の芭蕉自身の解説を聞いてなるほど「数寄」なのか、と腑に落ちました。芭蕉はお手本に従って想像の言葉遊びのような、行ってみれば机上の空論のように和歌を詠むのではなく、現場の体験による感覚を重視せよ。そしてあなたも自身の感覚によって句を詠んでみましょうよといっているのです。今の時代でいえば誰かが編集した二次情報に満足するのではなく、一次情報に触れましょうと言ってるようです。

「カイツブリの巣が多くみられる季節になりました」というテレビやネットニュースなどの情報を見ているだけで満足せず「自分も見にゆこう」と行動する鳥見老人たちの姿が重なるります。長玉レンズ+カメラ片手に、みな同じ被写体にレンズを向けシャッターを切る不思議な光景、自分もその中の一人なのですが、その奇妙な行動に自身も疑問を投げかけながらも自分は彼らとは違うと思いつつ、何が違うのかということをはっきりと理屈できないでいるもどかしさがあったのです。このことは40数年前に500mm大砲を担いで撮っていた頃からの自問でもあります。
 40数年前はフィルムカメラでの紙焼きやポジからの製版による印刷物でなければ情報の共有あるいは所有ができませんでした。今では性能の良い高価なレンズで撮影されたプロ並みの写真が多くネットに上がっていて誰でも見れ、共有できるのに、なぜ写真のアマチュアのおまえは安モンカメラでシャキッとしない写真を性懲りもなくわざわざ撮りにゆくのか。
それは所謂、近代的自我の慣れの果てなのか。自分も見たい。見たら残したい。記録したい。自分が、自分が、というどこまで行ってもうんざりするような自分の世界!
プロのカメラマンなぞ目指したことがなかった自分はそれでもプロ並みの技術を身に着けたいと思っていた。しかしいろんなことに興味をもってしまう自分は、これという一つのことに絞って私財を投入するにはあまりにも貧乏だったし、何よりプロの写真家を目指すという気持ちが起こらなかった。わたしを毎週連れ出してくれたとりびとの師匠は「橋本君は絵が描けるんだから絵で描いてください。」というのです。

 いろいろ な ことば の 途中


つまり曲解すれば、現代の芭蕉翁曰く PCや携帯の画面上で得た情報だけで創作するのではなく、実際に自身の体験を通した創作が「数寄」であると。

 途中


転じて、生成AIによる集合知にのみ頼る制作は「数寄」ではないという次第。






2024年5月30日木曜日

2024年5月23日木曜日

2024年5月18日土曜日

240518【リハビリ,子育て,トウヘンボク】

 

雛のための虫をいっぱい銜えるコゲラと1羽残ってリハビリ中?のキンクロハジロ。









オオタカとやりあったのか?尾羽にけがの跡が見えます。
ここで夏を超すのでしょうか?








トウヘンボクの花も終盤












20240518 data :1,908歩 1.4Km,  walking(酸素流量:2.5ℓ/分)

2024年4月24日水曜日

小説「クソみたいな といふ 君へ」

  しかし君は最初の頃、底でのことを結構楽しんでいたではないか。
君のポストにはそれがあふれている。
それを今になって「クソみたいな」というのはあんまりだ。
君が去った後もそこでその仕事をしてる人はいるはずだ。そんな彼らはクソなのかい?

君に何があったのかは知らない。そしてそんなことに興味はない。
だけれども、その吐き捨てられた言葉は聞き捨てならないな。その言葉に深く傷つく人はいないのだろうか?君のポストで君といっしょに楽しく写ってる人、人々はどうだろう?


 自分にはもっと大切なものがあると君はいふ。

みんないつごろから自分のことが大事と思うようになったのだろう?
ひとのことだけのために身を粉にして生きている人は自分語りはしない。自分のことを考えない彼らはクソなのか?


なりわいとは長い年月の中でそうなった結果であり、自分がこうしたいと決めた事だけで成り立っているのではないだろう。仕方なくこうなってしまったということだって自分なのではないか。君なのではないのか。

そもそも私たちは「自分」「君」という主語なしで話してきた国の群れなのだ。
今さら「自分を探せ」と言われる筋合いはない。
そして、もっとも不幸なのはそれを教育の名のもとに行うことだ。
それは時に暴力的である。

自分の無い人はクソなのか?




つづく





2024年4月4日木曜日

アオサギ 婚姻色

 


今の時期、アオサギは婚姻色に変化して美しいです。目元が藤色になり黄色の嘴が嘴元から赤身のグラデーションに染まります。脚も同様に赤みを帯び、虹彩も赤みを帯びるものもいて繁殖羽も立派でゴージャス!春本番




これは2年前の春の写真ですが、コロニー状態だったところに、猛禽に襲われたらしい1羽が出たことによってかなりの数の営巣はすべて放棄され、見事に皆いなくなりました。群れの存続を優先しての社会性、見事なものです。というか、座して餌食になるリスクを取らないのは当たり前か。



虹彩が赤みを帯びている個体。目元から嘴にかけての色の変化はアマサギの婚姻色と同じですね。




2024年4月3日水曜日

今朝の ピントでヒント

レオナルド・ダ・ビンチの空気遠近法の絵画はスフマート技法でぼかしていても、たとえばモナ・リザの絵を見ると近景~遠景までどこもビチッとピントが合っていて、それに比べてマネの筆跡が荒々しく残る絵画はブレやピントが合っていない空気感を捉えた写真のように見えるというところが、写真の影響を受けた印象派というところに考えが至った次第。

つまりカメラオブスクラでトレースしてる時代の絵画は輪郭線をアタリとして追いかけていて、銀塩写真が登場したことで時間に追いつかない光が、いや光に追いつかない化学時間が、ブレやピントという出来事の概念を生み出したということ。その現象が見えるようになったということで、ヒトの視覚認知が更新されたということ。

2024年3月31日日曜日

アメリカ 左

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 アメリカ 左が アメリカヒドリガモ が 直視 池に飛来したという情報を得た それは インターネットの 毎日更新されるブロガーの情報によって得たものである 私は今外出が困難な状況の中で 直接 現実的な空間でそれを観察する頃かできなくなっている そもそも私の持病 COPD が発覚する原因になった出来事 がこのアメリカ 左側も に関わる出来事でもあり 非常に このカモに対する思い入れが強いのである 今から 7年いや8年か前 箱根の 新しい美術館ができてそこで 尾形光琳の鴨の絵が展示されると 聞いてそれを見に行ったのであるが 結局 箱根 の駅を降りてその美術館に徒歩で向かおうとしたわけであるが あまりの坂道の険しさに 途中で断念して帰ってきてしまった しかしこの時は結構 moa美術館とか多くの場所を移動して 非常によく歩いた日でもあった ちょうど帰ってから 非常に肩が 詰まったような状況になって呼吸が苦しくなった その時に初めて自分で救急車を呼んで夜間の救急外来に行ったのである 翌朝 この症状が COPD のステージ4と診断されたのである そういった 今の自分の出来事につながる 出来事が この アメリカ 左側もの 到来と関連しているのである 尾形光琳 はところでこのかもず は通話のカモが水辺で くつろいでいるのであるが その脇に立つ 松の書き方がまた奇妙な ねじれを表していて興味深いのである その画面の真ん中にアメリカ 左鎌が描かれている つまりこの江戸時代の頃に すでにアメリカ 左鎌は日本に飛来していたということが まあこの絵からは わかるということなのであるが 実は 尾形光琳 自身が アメリカ 左側を観察して書いたわけではないというのが一般的な通説になっている 尾形光琳の鳥ばかりを集めた写生町があるが それは実は 尾形光琳 自身が 野鳥観察して書いたのではないとされている 当時 狩野派なりが 持っていた その観察図を集めた写生町 が 教本 となりお手本となり それを映しながら流通していった 写生町ではないかとされているまあ一般的にはそうなっている これは書道と同じように お手本があってそれをもとに書くという日本の独特な日本の というよりもまあ 東洋の と言ってもいいかもしれないが の製作方法に よっている画面を構成するというところでは それは 独自の才能が発揮させたりはするのだが それでも お手本を移す というところはあの存在するのである 今 日本のあるいは東洋の独自な方法と言いましたが 実は そうではないのかもしれないと思ったのがこないだ 見た マティスの初期フォービズムの荒々しい タッチで書かれたラフや男のモデルを使った絵画に現れている 実は私は ずっとその絵は アトリエでモデルを雇って皆で射精を行った時用に書いたものだと思い込んでいただが 実はそれではなくてその当時流通していた人体を取った写真集より 写真集をもとに 手本としてほとんど同じ構図で それは書かれているのである 写真集は当時 まだ 白黒の写真 陣営 写真であるが マティス はそれをそこに新しい激しい色彩 堆肥を持つ 絵の具で書き直しているというところにオリジナルが の部分が見受けられるのである つまり 性を東洋に問わず 二次元から2次元に移す という方法があるということである つまりそれはどういうことかと言うと3次元の現実のものを見ながら 2次元に 二次元に書くという行為は意外と難しく 困難な政策方法なのである 二次元から2次元に置き換えるという方法は意外と簡単なのである このことは自分の子供が図鑑を見ながら書いた絵がすごくうまく書かれていたのに対し 自分が頭の中で浮かんだ 機関車を書こうとした時に書けなかったということを発見した時に気づいた出来事でもある つまり 次元の転換が起こらない状態での絵画制作というのは安易であり 非常に 世界を作り直そうとする絵画制作においては その方が便利な方法なのである


まず インターネットによって直進 池に アメリカ 左鎌が飛来してるということを知る。 それはどういうことかと言うと まあ 少し前まではテレビが世界に向かっての窓という存在になっていたのが今現在では より小さなスマホの画面や あるいは PC コンピューターのディスプレイ あるいは タブレットが世界に向かっての窓になっているということである 実際に建物の窓というのは 今でも存在し そこから世界を眺めることができるのであるが もっと遠くのものを眺めようとすると実際の物理的な窓では限界があるのである そこで 我々は誰かが集めた情報という映像をテレビによってみるということを経験し それが今では特別な テレビカメラによらずとも多くの市民によって取られた 多くの情報画面によって世界が埋め尽くされるような空間に いるということが意識されたということなのである つまり 私は今 物理的に外出が困難な状況になっているわけであるが あるいは この状況というのは 今 多くの人が無意識に体験している 情報空間ということの一つのメタファーとして実際 私が外出できなくなって移動の自由が困難になっているということを 象徴的に表しているようなことでもあるのではないかと思うに至ったのである つまり私は家にいながら数キロ離れた先の直シーケにアメリカ 左がもっと言う 珍しいこの場所に飛来するには珍しいかも が到来してるという情報を得て その画像を見ているのである これは実際にそのかも 現場で見ているわけではないのであるが すでに見た気になっているのである まあこういったこと というのは 美術館に行って本物の作品を見るよりも前にすでにネットの情報によって溢れている画像によって見た 気になるということとも共通した体験ではある 実際に現場に行ってみるという体験で起こる感覚と情報の 中で見ているということを体験するのとでは大きな隔たりがあるというのは十分に分かっているのであるが 一つの時代のくくりとして この情報の上っ面をなぞるような資格。 そして 移動を妨げられた人にとっての資格 体験 遠くを見るということに 大きな示唆を与える出来事でもあると思いこのアメリカヒドリガモの嫌いの興味 深さを改めて実感するに至ったのである
> From:"kiminari"  <kimikimi993312@yahoo.co.jp>
> To:"橋本公成" <kimikimi993312@yahoo.co.jp>
> 日時:2024/03/31 日 22:31
> 件名:


さて、ここからが本編です。
以上が活舌の悪い音声によるAI認識によるテキストであります。音声→言語化テキストの段階で多くの誤訳、誤字や言い直しによって意味が分からない文に見えるが、これはこれでシュールレアリズムが行った自動筆記のテキスト版のようにみえて面白いと思ったのでそのままのテキストを残してみた。「アメリカ左」なんて言いえて妙ではないか、と思った次第。

さて、ここからが本編です。Ⅱ

  アメリカヒドリガモ が勅使池に飛来したという情報を得た。 それは インターネットの 毎日更新されるブロガーの情報によって得たものである。 私は今、外出が困難な状況の中で 直接 現実的な空間でそれを観察する事かできなくなっているのだが そもそも私の持病 COPD が発覚する原因になった出来事 がこのアメリカヒドリガモに関わる出来事でもあり、非常に このカモに対する思い入れが強いのであります。

 今から 10年いや9年か前、箱根に新しい美術館ができてそこで 尾形光琳の鴨の屏風絵が展示されると 聞いてそれを見に行こうと思ったのです。箱根高山鉄道の駅を降りてその美術館に徒歩で向かおうとしたわけであるが、あまりの坂道の険しさに 途中で断念して帰ってきてしまった。しかしこの時はMOA美術館とか多くの場所を移動して非常によく歩いた日でもあった。 ちょうど帰ってから肩が詰まったような状況になって、これは怠けていた身体のせいだと思い込み、逆に粗治療と言わんばかりに腕立て伏せを20回行い、風呂にはいろうとした矢先、両肩を巨人に鷲掴みされたごとくの未経験の感じに襲われ、なおかつ呼吸が苦しくなり息ができなくなって窓を開け放して深呼吸を繰り返すのだが得も言われぬ苦痛は収まらず、その時に初めて自分で救急車を呼んで夜間の救急外来に行ったのである。翌朝 この症状が COPD のステージ4による筋肉の酸欠と診断されたのである。そういった 今の自分の生活変化につながる出来事が、この アメリカヒドリガモの到来と関連しているのである。
 
 ところでこの尾形光琳の鴨図は数羽のマガモなどのカモが水辺でくつろいでいる絵なのであるが その脇に立つ 松の描き方がまた奇妙なねじれを表していて不自然で興味深いのである。 この画面の真ん中にマガモに混じってアメリカヒドリガモが描かれている。つまりこの江戸時代の頃に すでにアメリカヒドリガモは日本に飛来していたということが まあこの絵からは わかるということなのであるが、実は 尾形光琳 自身が アメリカヒドリガモを観察して描いたわけではないというのが一般的な通説になっている。 尾形光琳の鳥ばかりを集めた小西家伝来の写生帖*注1 があるが それは実は 尾形光琳 自身が 野鳥観察して書いたのではないとされている。 当時 狩野派なりが 持っていた その観察図を集めた写生帖が 教本となりお手本となり それを映しながら流通していった写生帖ではないかとされている。絵画制作のネタ本的な意味合い。まあ一般的にはそうなっている。
このようなことは書道と同じように お手本があってそれをもとに書くという日本の独特な(日本のというよりもまあ東洋のと言ってもいいかもしれないが)の製作方法に よっている。画面を構成するというところでは それは 独自の才能が発揮させたりはするのだが それでも お手本をうつす というところは当たり前のように存在するのである。粉本主義といってもよい日本画の伝統でもある。工房政策における事業、生業としての絵師は近代の個人崇拝主義とは異なるのである。
 今 日本のあるいは東洋の独自な方法と言いましたが 実は そうではないのかもしれないと思ったのがこないだ 見た マティスの初期フォービズムの荒々しい タッチと色彩で描かれた裸婦や男のモデルを使った絵画に表れている。 実は私は ずっとその絵は アトリエでモデルを雇って皆で写生を行った時に描いたものだと思い込んでいた。だが 実はそうではなくてその当時出版された人体を撮った写真集(この写真集自体が当時画期的な試みであっただろうと想像できるのだが)をもとに 手本としてほとんど同じ構図で それら絵画は書かれているのである。 写真集は当時 まだ 白黒の写真 銀塩写真であるが マティス はそれをそこに新しい激しい色彩対比を持つ 絵の具で描き直しているというところにオリジナルの部分が見受けられるのである。 
 西洋、東洋に問わず <二次元から2次元に移す> という方法があるということである。それはどういうことかと言うと3次元の現実のものを見ながら 2次元に 二次元に描くという行為は意外と難しく 困難な制作方法なのである。 二次元から2次元に置き換えるという方法は意外と簡単なのである。 このことは自分の子供が図鑑を見ながら描いた絵がすごくうまく描かれていたのに対し 自分が頭の中で浮かんだ 機関車を書こうとした時に書けなかったということを発見した時に気づいた出来事でもある。
 つまり 次元の転換が起こらない状態での絵画制作というのは安易であり 非常に 世界を作り直そうとする絵画制作においては その方が便利な方法なのである。
カメラオブスクラによる現実視界のトレースもまた、この問題と同じような意味を持っている。


 まず インターネットによって勅使池に アメリカヒドリガモが飛来してるということを知る。 それはどういうことかと言うと まあ 少し前まではテレビが世界に向かっての窓という存在になっていたのが今現在では より小さなスマホの画面や あるいは PC コンピューターのディスプレイ あるいは タブレットが世界に向かっての窓になっているということである。実際に建物の窓というのは 今でも存在し そこから世界を眺めることができるのであるが、もっと遠くのものを眺めようとすると実際の物理的な窓では限界があるのである。そこで 我々は誰かが集めた情報という映像をテレビによってみるということを経験し、それが今では特別なテレビカメラによらずとも多くの市民によって取られた多くの情報画面によって世界が埋め尽くされるような空間にいるということが意識されたということなのである。
 私は今 物理的に外出が困難な状況になっているわけであるが、あるいは この状況というのは 今 多くの人が無意識に体験している 情報空間ということの一つのメタファーとして実際 私が外出できなくなって移動の自由が困難になっているということを象徴的に表しているようなことでもあるのではないかと思うに至ったのである。
 私は家にいながら数キロ離れた先の勅使池にアメリカヒドリガモと言うこの地では珍しい鳥がこの場所に飛来するには珍しい鴨が、到来してるという情報を得て、その画像を見ているのである。 これは実際にその鴨を現場で見ているわけではないのであるが すでに見た気になっているのである。
まあこういったこと というのは 美術館に行って本物の作品を見るよりも前にすでにネットの情報によって溢れている画像によって見た 気になるということとも共通した体験ではある。 実際に現場に行ってみるという体験で起こる感覚と情報の 中で見ているということを体験するのとでは大きな隔たりがあるというのは十分に分かっているのであるが 一つの時代のくくりとして この情報の上っ面をなぞるような視覚。 そして 移動を妨げられた人にとっての視覚体験、遠くを見るということに 大きな示唆を与える出来事でもあると思いこのアメリカヒドリガモの飛来の興味深さを改めて実感するに至ったのである。


*注1 
鳥獣写生帖


2024年3月3日日曜日

240303 「平針日記」 その後 / 安静時と労作時の分断

濃縮酸素の助けを借りる生活は、安静時と労作時が分断される。



COPDの症状が進行した者にとっての生活は慢性的な呼吸苦の状態が続く。酸素濃縮装置なしでの生活では、なだらかな呼吸苦である。その状態が普通で平常になると苦を感じるレベルがどんどん下がる。健常者が呼吸苦を感じるであろうSpO2が90%を切る状態になっても苦は感じなくなる。そうなってくるとどこまで我慢すればよいかわからなくなる。

「病気だから苦しいのはあたりまえ。多少の苦しさは我慢しなさい。」
と、育ってきた私たち世代にとって我慢の臨界点がわからないのである。(世代でなく私だけかもしれないが。)

ところが、酸素濃縮器を導入し濃縮酸素の助けを借りだすと、呼吸苦がまったくない安静時の状態に対し、労作時の呼吸苦がはっきり際立つというコントラストが生まれる。以前(濃縮酸素装置なしの時)より労作時の呼吸苦がより意識され苦しいと感じる。


2024年2月19日月曜日

240219 「平針日記」その後

 



久しぶりだねー
♀くんの大きな声で囀り。ベランダ越しの隣のマンションの窓に。09:47


01:15
安静時1.0L/分でもSpO96% CO2 ナルコーシスが心配。
夜中に起きた時測ると97% これでよいのか?Ⅱ型呼吸不全

体重、51.0kg
10:30 助けを借りて風呂 2.5L/分で

03:36












2024年2月12日月曜日

240211 「機能するアッサンブラージュ」と「パッケージ」について

 #機能するアッサンブラージュ*

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*アッサンブラージュ
アッサンブラージュ(アセンブリッジ、英語:Assemblage)とは、コラージュやパピエ・コレの立体版、すなわち、「立体的なもの」を寄せ集め、積み上げる、貼り付ける、結び付けるなどの方法により制作された美術作品(立体作品)およびその技法。「アサンブラージュ」と表記されることもある。wiki


追記 240212 ---------
「機能するアッサンブラージュ」という時、その言葉は大きな矛盾をはらんでると同時に、新しい創造的な行為ではなく、やりつくされた予定調和のデザイン的行為でもある。
テーマなりアイデアがまず先にあって、それに肉付けてゆくのはデザインである。帰納法的な行為である。ゆえにアイデアのままほこりをかぶって10年が過ぎる。出会いの初めに戻ろう。

・分解したカメラの部品にシャッターがついたレンズを見つけた。
・たまたまその部品がちょうどはまる自作陶器の器があった。
関係ない二つのものがたまたま出会った。という発想は何十年も前のシュルレアリズムのアイデアである。「オブジェ(仏)」という概念が芸術分野の「新しい」ありかたとして登場したのもその延長線上のことだ。主体、主題を意味する「サブジェクト(英)」に対する「オブジェクト(英)」。日常の意味がはぎとられ投げ出されたものが「オブジェクト」である。アッサンブラージュの素材であるオブジェ(対象,客体)に機能を求めればそれは反覆反覆を繰り返してサブジェクトに戻る。



話を自作陶器に戻せば、それは自作といってもその形状は自分が創作したものではない。家電か何かを輸送中破損しないよう箱の中で固定するために使われていた発泡スチロールの緩衝材を型取りしたものから作った陶器である。話がどんどん脱線するが、手起こしで陶器を作っていたのは80年代末~90年代初頭、友人たちと窯焚きをしていた頃である。
何故そんなものを陶器で作ろうとしたかを思い出せば久世健二氏の「パッケージシリーズ」という名前を聞いたことにある。氏の「パッケージ」というコンセプトは勘違いかもしれないが、私はこう記憶している。ボリューミーな大型陶器というものがムク(solid ソリッド)な状態では爆発するため、内部を空洞にする。内部に空洞を抱えた表面を、空洞の「パッケージ」と捉えた。
陶器という字に「器」が入ってることも、必ずしも道具としての器ということに限らず「空洞」という意味が内包されてると私は思っている。土の塊を落下させてできた行為の痕跡のようなものが久世氏のパッケージであったが、私は家電のパッケージの中に存在した緩衝材を型取り、緩衝するものが不在になった跡の形状を型取り何重にも反転した不在と実在の象徴としてパッケージと捉えた。いろんな家電の緩衝材の形状に興味を持った私はそれを捨てずにコレクションしていた。
 しかしもう一つ別の意味で「パッケージ」を捉えたのは、ICチップのパッケージがシリコンやセラミックで陶磁器と関係が深かったことにも関連している。私の陶器製の立体はICチップを拡大したパッケージシリーズというものにも展開していった。ICチップを大きく拡大するなんてことは、ICチップが小さく小さく技術進歩していった流れと逆行する。
(途中つづく)


2014  機能するアッサンブラージュ