2024年4月24日水曜日

小説「クソみたいな といふ 君へ」

  しかし君は最初の頃、底でのことを結構楽しんでいたではないか。
君のポストにはそれがあふれている。
それを今になって「クソみたいな」というのはあんまりだ。
君が去った後もそこでその仕事をしてる人はいるはずだ。そんな彼らはクソなのかい?

君に何があったのかは知らない。そしてそんなことに興味はない。
だけれども、その吐き捨てられた言葉は聞き捨てならないな。その言葉に深く傷つく人はいないのだろうか?君のポストで君といっしょに楽しく写ってる人、人々はどうだろう?


 自分にはもっと大切なものがあると君はいふ。

みんないつごろから自分のことが大事と思うようになったのだろう?
ひとのことだけのために身を粉にして生きている人は自分語りはしない。自分のことを考えない彼らはクソなのか?


なりわいとは長い年月の中でそうなった結果であり、自分がこうしたいと決めた事だけで成り立っているのではないだろう。仕方なくこうなってしまったということだって自分なのではないか。君なのではないのか。

そもそも私たちは「自分」「君」という主語なしで話してきた国の群れなのだ。
今さら「自分を探せ」と言われる筋合いはない。
そして、もっとも不幸なのはそれを教育の名のもとに行うことだ。
それは時に暴力的である。

自分の無い人はクソなのか?




つづく





2024年4月4日木曜日

アオサギ 婚姻色

 


今の時期、アオサギは婚姻色に変化して美しいです。目元が藤色になり黄色の嘴が嘴元から赤身のグラデーションに染まります。脚も同様に赤みを帯び、虹彩も赤みを帯びるものもいて繁殖羽も立派でゴージャス!春本番




これは2年前の春の写真ですが、コロニー状態だったところに、猛禽に襲われたらしい1羽が出たことによってかなりの数の営巣はすべて放棄され、見事に皆いなくなりました。群れの存続を優先しての社会性、見事なものです。というか、座して餌食になるリスクを取らないのは当たり前か。



虹彩が赤みを帯びている個体。目元から嘴にかけての色の変化はアマサギの婚姻色と同じですね。




2024年4月3日水曜日

今朝の ピントでヒント

レオナルド・ダ・ビンチの空気遠近法の絵画はスフマート技法でぼかしていても、たとえばモナ・リザの絵を見ると近景~遠景までどこもビチッとピントが合っていて、それに比べてマネの筆跡が荒々しく残る絵画はブレやピントが合っていない空気感を捉えた写真のように見えるというところが、写真の影響を受けた印象派というところに考えが至った次第。

つまりカメラオブスクラでトレースしてる時代の絵画は輪郭線をアタリとして追いかけていて、銀塩写真が登場したことで時間に追いつかない光が、いや光に追いつかない化学時間が、ブレやピントという出来事の概念を生み出したということ。その現象が見えるようになったということで、ヒトの視覚認知が更新されたということ。