9年前の今日の食事、しらす丼ミニ
巨大ショッピングセンターができたので、近隣の海からの魚が充実していたスーパーが店を閉め、駅前のスーパーから魚屋が撤退してコンビニのようになってしまった。
おかげでこんな食事ができなくなった。
9年前の今日の食事、しらす丼ミニ
巨大ショッピングセンターができたので、近隣の海からの魚が充実していたスーパーが店を閉め、駅前のスーパーから魚屋が撤退してコンビニのようになってしまった。
おかげでこんな食事ができなくなった。
レギュレーション変更について
2019年中頃からぼおーっと生きてると気づかないように、世界中で進行していたルール変更。
この状況は、いつか来た道。
ミュンヘンオリンピック後の男子バレーボール、
80年代末の常勝マクラーレン・ホンダを苛めたターボエンジン禁止の日本封じ、F1ルール変更
ゲーム主体者は強いほうにも弱いほうにも援助してゲームをより面白くなるようにテコ入れする。
命を人質にしたルール変更は
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Honda F1参戦の歴史 第2期1983~1992
https://www.honda.co.jp/F1/spcontents2006/history/02/
88年にはマクラーレン・ホンダが16戦中15勝と圧倒的強さを誇ったが、翌89年よりレギュレーション変更でターボが禁止に。この時点でHonda内部では初期目標の達成とターボエンジン開発の終了から、参戦休止という意見も出ていたが、本田宗一郎は「ターボ禁止はHondaだけか? 全チームが同じ条件で戦うのならばいいじゃないか。それでこそ、ヨーロッパの人たちに評価されるじゃないか」と意見した。
「強い者苛めのルール変更」 今宮雅子のF1 Q&A 2003/12/22
https://f1express.cnc.ne.jp/column/index.php?cat_id=50&teiko_id=28884&now_page=10
F1レギュレーション
大統領は4年前から一生懸命、何度も何度も
「王様は裸だ!王様は裸だ!」と叫んでいたんだが、この時の「王様」というのは現代の民主主義的共同体運営社会では「民」のことなんだということにみんな気づいていないということが悲劇的なことだったんだ。
201108 小説「感染」第三章~第三波~選挙投票~
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2020/11/201108.html
裸の王様は寅さんではなく、寅さんこそが「王様は裸だ!」とfake news teams の仕掛けた世紀最大の虚構のオフレコを暴いたのだ。
2018年7月27日
昨日、一昨日と名古屋の気温は37℃を下回って涼しくなりました(気温は36.5℃ですが)昨日は風もあってさわやかです。室温も今、30℃を切って今晩は扇風機を付けていると寒いです。
先々週から24日までの37℃~40℃弱の期間は、連日「命の危険...」が連呼され「室内でもエアコンを我慢せずに。。」の放送をエアコンが壊れている部屋で聞いてましたが、涼しそうなスタジオでコメンテーターが語る「命の危険の暑さ」に違和感を覚えつつ、高齢者の方々がエアコンはあっても電気代を気にして使用しないという発言に、相槌を打ってしまいます。実際のところエアコンが付いていても使用していない部屋で亡くなった老夫婦のニュースなどを聞くにつけ、複雑な思いになりますが。
「今は昔の天候と違うのだから」とか聞くのですが、それでも37-8℃も2,3日過ぎると体は慣れてくるもので、暑さで気分はハイになり小さな原型の仕上げに熱中します。(これもいわゆる熱中症 hahaha )
一人、室外機からの放熱を我慢したところで地球温暖化気候の流れの前には全く無意味なナンセンスな行為と映るのかもしれないのですが、エアコンを使用しないということが、消費経済活動に参加しない公共性のない非社会的で生産性のない行動のように感じられるのには大きな違和感があります。確かに生産性のない生き方をみんなが行えば、今のシステムでは、まわりまわって最低限度のインフラさえ行えない社会になってゆくのかもしれません。しかし、馬鹿と言われても熱帯気候に変わった風土に身体を合わせて徐々に改造してゆくことを選択するのです。これは根性論の旧人類、正常バイアスですか?
あれから(あの事故から)約半年がたって、季節はすっかり冬本番。きょうなどは雪が降るかもと天気予報で脅されて、大学の対面授業が無事できるかとヤキモキ心配していたが、寒いけれど晴れているため気分よく原付を走らせて大草へ向かう。
今日は雪をかぶった伊吹山が、ここ下志段味の台地から良く見える。普段ガスに覆われてかすんでいたりして見えないものが、冬のこの時期に突然はっきりと出現するのはかなり映像的な体験である。明るい日中に空というスクリーンに映し出された雪山。ダ・ビンチ先生が「世界」の論文としての絵画として、人物画の背景などにも遠望する山を描かねばならなかったことがこの風景を見ていると理解できるのである。
それにしても伊吹山を正面に見るこの通り、いつも秋から冬へ向かう時期に通っているが毎年ひと月以上にわたって花をつける四季桜が木としてはちっとも成長しないことが気になっていつ見ても考えてしまう。長久手大草の湧き水横に植わっている桜も同じようにひと月以上にわたって花を散らさないが花は大量につけて健康そうである。それにひきかえ、ここの歩道の並木用に植えられてる木々はパラパラと数花つけているが枝も増えないし幹も細いままでいつまでたっても成長しない。まるで筋肉の落ちた自身の太腿を見ているようで痛々しい。
春から夏に向かう頃の染井吉野や山桜の花をつけている時期は短く、一週間と見ないうちに小さい若葉が出てきたと思ったらいつの間にか緑に覆われて葉桜になってしまう。花が咲き続ける、花を散らさないのは気温と日照時間によると理科の時間で習ったような気もするが、そのメカニズムがどうなってるかまでは教わらなかった気がする。「花を散らすな」という命令をこの木の花はどこから受けて、どのように実行しているのか。それとも脳も持たない木が命令の送受信など行うはずはないのだから、これはいわゆる<絡合>というものか。
この<絡合>ということを意識することが半年前の禍の中で体感したことでもある。
横隔膜と大腸や小腸、直腸付近の筋肉との間で相談して実行されたと思われる十日間にわたる便秘と咳、くしゃみの強制停止。この時の現象は自分の脳が命令していたのではなく、それぞれの器官周辺で互いに連絡しあって実行されたとしか考えられない出来事の体験だった。
僕の肺はと言へば、日常的な呼吸苦は慢性化している。時にひどい発作にみまわれることがありそんな時は死の恐怖を身近に感じたりするのだけれど、たびたび起こるのでそのたびに救急車を呼ぶのもなんだし、椅子に座って呼吸を整え、静かにしていると30分から一時間で平常に戻ったりするので、こんな発作も日常的な慢性化の一つだと考え、自身の身体をコントロールすることに段々慣れてきたりする。
つまりは、個人が苦しさに耐えるという程度というものは、基準が自分の身体でしかなく、他人の苦しさと比較体験ができないのでどこまで我慢してよいものやら分からなくもある。もともとが、病院に行くことなく風邪なども自宅で布団にくるまって汗をかきながら直すという癖がついているので、何とかこの苦しさもとにかく自身の身体と浅はかな経験知による行動で何とかしようと考えるのである。