2015年5月19日火曜日

ガラスコップがガラスコップでいられる時をすぎても

80年のある日、西日が燦々と差し込むアパートの二階で机の上に置いてあったガラスコップに強烈な西日があたってキラキラと輝き、私はガラスコップがガラスコップである時に出会った。
即悟というようなものがこういうものだというような納得であり、どのような言葉だったか忘れてしまったが、川端康成が何かに記していたことと同じ体験のように感じた。まったくこういった感覚をとらえることに貧弱な私の言葉は無力である。



インテリアとホワイトキューブ

加藤志織氏が『現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展を見て』の中で以下のように記している。

「しかし、ほぼ既製の工業製品そのものである小便器や自転車の車輪を生活空間に置いたとしても、ただ日常の中に埋没するだけのような気がする。むしろレディ・メイドの作品などは、美術館という非日常的な空間にあってはじめてその真価を発揮するのではないか。」
引用元:http://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/?sora=9160   空を描く ≫ 芸術教養


しかしそれは、はたして工業製品のようなものを日常空間から芸術空間にインスタレートしたものだろうか?
私は、日常の中でも埋没しないそのものの存在というものがあるように思うのだ。むしろ、日常の中でこそ、その真価を発揮する、そのものとしか言いようのない存在。
ただそれは、いつもそうであるということではない。夢が醒めるように、一瞬の時が過ぎ去ればもとのガラスコップに戻ってしまい、再び出会うことはまれなことであるのだ。
それは空間の問題だけではない。