2015年5月19日火曜日

ブラタナベ ~ 今川と息長川




一級河川 今川



引用:

奈良時代の(756)天平勝宝八歳丙申(ひのえさる)の朔乙酉(つきたちきのととり)の二十四日戊申(つちのえさる)に、太上天皇(聖武)・天皇(孝謙)・太后(光明)、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信(ふたよあまり)、壬子(みずのえね)をもちて難波の宮に傳幸(いでま)す。三月七日に、河内国伎人郷(くれのさと)馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首。
 4457 住吉(すみのえ)の浜松が根の下延(したは)へて我が見る小野の草な刈りそね
                                               兵部少輔 大伴宿禰家持
 4458 にほ鳥の息長川(おきながかわ)は絶えぬとも君に語らむ言尽(ことつ)きめやも    古新未詳
                                                  散位寮散位 馬史国人
 4459 葦刈(あしか)りに堀江漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)は大宮人の皆聞(みなき)くまでに
                                                   式部少丞 大伴宿禰池主
万葉集巻二十にある記述で題詞の 河内国伎人郷」と4458の歌に詠まれた「息長川」の所在を巡る論争が発端になり、「伎人郷に居住する馬国人が遠く離れた北近江を流れる息長川(現天の川)を詠み込む筈がない当時伎人郷の近くを流れる川に「息長川」と呼ばれる川が存在し、その川は現今川である」 また、「伎人郷」とは「現在の大阪市平野区喜連町である。この町に「北村某の家記」という古文書があり往古に息長氏が居住していた」という伝承がある、といわれています。
昭和三十四年、日本上古史研究会報において大阪樟蔭女子大学教授の今井啓一氏が
『息長氏異聞』と題する論文で喜連の息長氏について論じられ、これに対して大阪大学助手の八木毅氏が『万葉集の息長』と題する論文で反論されています。最近になってこの『息長川』が注目を浴びだしたのは東住吉区の郷土史家の方が『万葉集に詠まれた息長川は我が町の今川だった』と活発な『今川即ち息長川』説を唱えておられます。当初私もこの説に賛同して考察を始め喜連村誌・東成郡誌・大阪府史・市史等の記事内容から往古の息長氏喜連居住説を信じていましたが大阪市文化財協会(現研究所)の発掘調査報告書を読み現地を歩いてみると古代の地形環境や数少ない資料から村郡誌府市にある喜連の息長関連記事や喜連近辺の息長川存在説に多くの疑問があることを知りましたが、信頼できる資料が皆無に近く2次3次資料を参考に憶測することが多く合理的な論理をもって通説を完全に覆すことはできなかったことは残念ですが、発掘調査結果や関連する2次3次資料だけでも『今川=息長』説には疑問が山積することがお解かりいただけると思います。今後とも出来うる限り裏付けとなる資料の収集に努め考察を続けたいと考えております。 

住吉郡の初見史料は平城京跡出土木簡で(表)無位田辺史広調進続労銭伍佰文(裏)摂津国住吉郡神亀五年九月五日勘錦織秋庭と記されているもので、(733)天平五年の右京計帳にも住吉郡田辺郷戸主正七位上田辺史真立の名が見られます。この住吉郡田辺郷も「和名抄」には記載されていない郷ですが現在東住吉区に北田辺、田辺、南田辺。住吉区に西田辺の地名が存在し、この辺りではないかと思われますが古代の田辺郷との繋がりは不明です。下は『伎人郷』を取り巻く地域の古文書による国郡郷名を調べたものです。竹渕・賀美(加美)・三宅の各郷名は現在も実在しますが、百済郡南部郷の所在地については不明です。


東成郡誌北百済村(参照記事)----- 
息長川  
今川の舊河身なり。今川、舊河内川と称せり、河内丹北郡より流れて喜連村に入りて息長川と称せり。今の河身は、往古の流域と頗る異れるが為に、今川と称するなり。
 [万葉集]天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉二十四日戌申、太上天皇、皇太后、幸行於河内離宮経信々以壬子傳幸於難波宮也三月七日於河内国伎人郷馬史国人之家宴歌 にほ鳥の息長河は絶えぬとも君に語らむ言つきめやも   馬史国人


追記引用:大阪市東住吉区ホームページより

018 息長川(おきなががわ)
2022年12月19日

ページ番号:32784

河内国伎人郷(クレサト・現平野区喜連)の豪族、馬史国人(ウマノフヒトクニヒト)が万葉集の巻20-4458番に詠んだ、「鳰鳥(ニホドリ)の 息長川(オキナガガワ)は 絶えぬとも 君に語らむ 言(コト)尽きめやも」に見える息長川は、通説では近江の天野川とされていますが、河内の川という説もあり、私たちは現在の今川がその流れを汲むものだと考えています。
そして「この歌は古今和歌六帖に僅か一文字違いで、『君に語らふ 言尽きめやも』(読み人知らず)と詠まれている、古歌の引用である」とする通説に対して、私たちは国人の歌が本元で、これが詠まれた奈良時代中期(756年)より、150年も後に編纂された、「古今和歌六帖」に載っている歌の方が、万葉集の歌を引用したものであると考えています。
つまり、巻20-4458番に詠まれた「息長川」は、奈良時代末期から平安初期に至る度重なる大洪水で、息長川の水源となる馬池谷筋が埋まってしまったため、この歌が「古今和歌六帖」に詠まれた頃には、豊かな水量を維持していた「息長川」が姿を消し、何処の川か分らなくなったからだと考えています。{大阪春秋(平成20年(2008年)秋号、平成10年(1998年)10月、100~108頁)を引用}


また、源氏物語の夕顔の巻では、初めての道行きに、光源氏が夕顔に対して、何の説明もなく突然に「息長川と契り給ふよりほかのことなし」として、「末永い愛を誓って『息長川』を繰り返した」と「息長川」を引用しています。
文学界の通説ではこの台詞は、古歌を書き写した屏風絵や歌扇に書かれ、また鳰鳥の歌も歌人に広く詠まれていたため、「息長川」と言えば「誠実な恋」を意味するものと考えられていたようです。しかし国人の歌意は恋ではなく、客人・大伴家持の挨拶歌に対する答礼歌であった(鴻巣盛廣説)と考えられ、両方の歌は僅か一字違いで、全く異なった意味の歌であると考えています。