2017年5月30日火曜日

170528: watering test 大鮱噴、泥の河につかる













making of OOBORAFUKI (大鮱噴)

ボラの研究と制作












170522/ 21:20

170522/ 22:18

170523/21:12


170525

170525/ 04:33

170525/ 05:32

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170525/ 21:12



170525/22:51

170526/01:10

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170526/ 09:06

170526/ 22:41

170517/ 02:43

170527/ 03:14



170527/ 04:06 temporary watering test








設計から一週間弱、とりあえず中川運河での進水試験にこぎつける。
コバルトが少量だったため硬化時間がかかってしまい焦ったが。。















2017年5月18日木曜日

170303 時の対価



「この星に恋愛なんてものはない」時々「きみ」と「わたし」の存在は無意味で、その間に存在する「好き」「きらい」「やさしい」「かっこいい」というそれだけが大切なのではないか。。 人間の存在が無意味で、その時の感情だけが大切で。。 「夜空はいつも最高レベルの青空だ」 死んだあと、その感情は太陽に吸い込まれ、たくさんの「好き」が地球の周りを回っている。<さいはてさんの詩>


断片的な言葉につい聞き入ってしまい仕事の妨げになる。言葉はその人だけの記憶の旅に即、連れ出してしまうため今、ここを生きねば、無心に生きねば、今日こそは、この日に集中せねば、という気が萎えてしまう。そして、その時の気持ちを記してなどしてしまうに至っては、今、ここを、今日、無心に生きるという気持ちは、すっかりあさっての、過ぎ去った”時”に絡め取られるのである。こんなことをやっていると”時”はあっという間に過ぎ去ってしまい、せっかく春分の日が近づいて明るい日差しが差し込む壁の時間が7時過ぎから、7時前になって、早くに目が覚める日々になっても、あっという間に気がつけば10時半になってしまっている。


さいとうひでさぶろう(英和辞典)日本人が日本語でわかる英語、さいとうメソッド、西洋音楽を日本でできるシステムを作るさいとうひでお/ さいとうひでお記念オーケストラ


感受性が豊かな人はこまったものだ。
「お母さんは感受性が豊かだから、話していてもすぐ他の事に目がいってしまい、全然ちがう話に飛んでしまうんだね」弟が言った。感受性が豊かな人はこまったものだ。
そう、やっかいなのだ。一つのことに集中せねばならないのに、すぐ身の回りのあらゆることに反応して脳みそが、その新たに飛んできた情報にとらわれてしまう。結果どうなるか。やり遂げねばならなかった事は忘れてしまい、何をしたらよいか迷子になってしまうのである。こんな時に単純労働はよいのかもしれない。何も感じず、何も考えずに時が過ぎれば資本主義経済の社会ではその時の対価として賃金に変換される。しかし、感受性豊かな人の仕事は多くの時を奪い、その奪われた時が賃金に変換されることはない。





140107  23:41

資本主義の社会では時間をお金で買うという便利な方法がある。
特急で2時間かかる道のりを、1時間でゆく超特急は特急よりも金額が高い。コストがかかる。
目的地に到達する事、移動距離は同じだけれども1時間早く目的地につくことができるので、目的地での1時間をお金で買うことができる。

目的地に到着しなければならない時間が、切羽詰って優先する場合、お金で時間を買うという選択は容易だ。
しかし目的地に到着する時間が1時間早くても、遅くてもどちらでもよい場合はどうだろうか。移動にかかる1時間に対する価値。
移動にかける1時間の余分な時間自体に価値を置く人はどうだろうか。

移動にかかる時間をあらかじめ考えずに金額、コストのみで判断する場合はどうだろうか。
もちろんコストがかからない方が良いという選択に行き着くのはなぜか。
現実的には1時間余分に時間がかかる以上に、突発的にさらに2時間余分に時間がかかることになる場合もある。
安心していた1時間早くつく移動時に突発的な事故が起こり、5時間足止めをくらうこともある。

時間とコスト。時間はコスト。
あるアイデアを具現化する場合についてはどうだろう。
アイデアは浮かぶが、それを成果物として具現化する具体的な経験が無い場合はどうだろう。
アイデアを具現化できそうな人に相談し、その人に発注する。
アイデアを具現化するにたる技術と経験を持った人に頼むことで、その人の経験という時間を買う。
短時間で多くを費やした経験を金銭と交換する。

現実的に、今、手持ちに百円しかなく、それで何らかの成果物を提示しなければならない場合はどうだろう。
百円で可能な最大限の方法。
金銭は無いが自身の肉体はある。





一液型RTVゴム
http://www.silicone.jp/j/products/type/one_rtv/index.shtml

硬化時間に関すること
http://www.silicone.jp/j/searchresult.shtml?q=%E7%A1%AC%E5%8C%96%E6%99%82%E9%96%93
の二段目「電気・電子・一般工業用RTVゴム」(PDFファイル参照=硬化特性の項)
一液型縮合反応型は空気中の水分と反応しながら硬化するためゴムの厚み、硬化時の気温、相対湿度が硬化速度を左右する。厚さ2mmで24時間....


170316 「フクロウの背中を削って、サンタの髭に付ける」




魔法使いのお婆さんの夜中の秘儀のよう
言葉にしてみるとメルヘンな行為に見える。


「フクロウの背中を削って、サンタの髭になすり付ける」


サンタの髭のボリュームを増やすこの場面を粘土ではなく、実写で、そのもので映像化するとハリーポッターの映画のようになるな。
粘土の可塑性を活かす彫塑という行為は、改めて意識してみると魔法使いのようなものだ。


「フクロウの背中を削って、サンタの髭になすり付ける」


この何気なく口から出た言葉から物語を展開すると面白いのではないか、などとへらを動かし、つぶやきの中で、頭の中をこの言葉が支配してゆく。
粘土から実物のようなもう一つのキャラクターを作るというのは創世神話に繋がる物語でもあるな。


「フクロウの背中を削って、サンタの髭になすり付ける」







2017年5月15日月曜日

双葉のうなぎ









今でもその香りを思い出す双葉のウナギの折。

幼少の頃、飲みに行った帰りに父がお土産によく買ってきた。祖母と食べた時の記憶は折の木の香りと合わさったウナギのにおい。記憶は匂いとともによみがえる。







 折を開けるとたれのかかったご飯だけ。双葉の並折。ウナギはご飯に埋まっていて中から出てくる。
上折はご飯の上と中に。

中学生の頃、田辺の商店街でウナギを買って、初めて母の誕生日のプレゼントにした。

そして45年後、今年のお祝いは双葉の鰻。


余った長焼きを母の炊いた豆ごはんにのせて。



追記---------
双葉は阿倍野筋商店街にあった。チンチン電車の走る阿倍野筋である。
そこは中学に上がって天王寺のYMCAに通ってた頃からの寄り道地帯だった。鉄道模型の雑誌が積み上げられた古本屋、畑正憲氏にサインしていただいた旭屋書店。ステーションビルの写真屋と模型屋などなど。思春期の少年の遊び場だったが、西に入る筋が上町台地の崖に繋がっていてその先が赤線街に繋がるとは当時まったく知らなかった。
阿倍野筋にあった双葉は、商店街再開発でキューズモールビルの地下に移転して営業を続けている。




ンガビ 発酵食材の文化









 高野秀行氏によれば「日本の納豆は遅れている」。


マイノリティ、山岳民族の辺境食、納豆。ミャンマーでは納豆を使った料理の方法が多種豊富にあり、日本の納豆の料理がほとんどバリエーションなくその意味で氏は日本の納豆は遅れていると言っているのだ。
「俺X達」見てまた思い出したミャンマーでの食事。
ミャンマー滞在中にシャン州の納豆せんべいみたいなもんは全然食べなかった。




おかずを頼むと自動的に出てくるゆで野菜とドロドロしたペースト状の薬味。モーモーが言っていたのは何て名だったか調べてみる。


「ンガビ」
ミャンマー語で、ンガは魚、ピは圧するという意味らしい。


塩辛みたいなもので小海老、小魚を塩漬けにして発酵させたペースト。一緒に出されるゆでた野菜(というより葉っぱ)をつけていただく前菜。
ミャンマーの魚醤ンガピャーイェーはンガビ製造過程で得られるらしい。ナマズ類の魚の内臓やウロコを取り除き、塩をまぶして、水切りし、さらに塩を混ぜて木箱につめ、発酵熟成させたンガピガウンや、ンガピと呼ばれる塩辛のペーストの製造過程で得られるのが、魚醤ンガピャーイェー。
スタンダードな魚を発酵させたンガピ、海老を発酵させたンガピ、トマトのンガピなどいろいろ種類があるらしい。




以下引用>
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多少臭みがあるが、ミャンマーの食卓に欠かせない「ンガピ」
出典:http://tabimeshi.com/blog_shokuzai/?p=395
小海老、小魚を塩漬けにして発酵させたペースト状の調味料であり、塩辛みたいなものです。ミャンマーの食卓には欠かせない調味料であり、ご飯にのせたり、スープに入れたり、和え物にも欠かせません。さらに、ンガピガウンというナマズ類の魚をペースト状にせずに塩漬けして発行させたものや、ンガピャーイェーというンガピを作る過程で出た魚醤もあります。ンガピャーイェーは、ミャンマーカレーに入れる一般的な調味料です。


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http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54015207.html
食の文化史3 ウッショとエンバイ、クサヤ 塩と魚醤記事
書庫食いしんぼの世界
2011/8/7(日) 午後 7:51


伊豆諸島で調味料と言えばウッショとエンバイである。ウッショは潮、つまり海水、塩。エンバイは塩配(塩梅)でウッショをベースにして・・・「魚をたたき塩を入れ、肉醤をつくり貯蔵し、その上澄みの汁をとって、醤油とし、下層に沈殿し、凝集したもの」『伊豆諸島東京移管百年史(上)』東京都町村会編1981 どちらかというと味噌のような固形物である。こういう上澄み以外の沈殿物まで使う習慣は、世界では魚醤と同様の製法で作られ、液体を漉した後の物を固めたペースト状の調味料も用いられている、インドネシアのトラシ (trassi) や、マレーシア、ブルネイのブラチャン (belacan) 、フィリピンのバゴオン (bagoon)、カンボジアのプラホック (ប្រហុក、prohok)、ミャンマーのンガピ (ngapi) などがある。トラシやブラチャンはオキアミのペースト。マカオ周辺でもオキアミを用いた蝦醤(ハーチョン)などがある。例えば地中海のカタクチイワシを使ったアンチョビなども使い方は調味料で、熱調理すると溶けてなくなるから味噌、エンバイだといえる。
古代からあったのは中国・ベトナム・日本そしてローマだけである。
「◆日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用されている。主なものでは、秋田でしょっつる(塩汁)、能登でいしる(魚汁)、香川でいかなご醤油が製造され、地元を中心に使用されている。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている(新製法の項目参照)。また、伊豆諸島でくさやを製造する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。また90年代以降のタイ料理やベトナム料理の普及に伴い、後述の東南アジアの魚醤が比較的容易に入手可能になっている。
◆東南アジアでは、タイのナンプラー (น้ำปลา、nam pla) 、ベトナムのヌックマム (nước mắm ニョクマムとも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス (patis)、カンボジアのトゥック・トレイ (ទឹក​ត្រី、tuk trey)、ラオスのナンパー (nam paa)、ミャンマーのンガンピャーイェー (ngan-pya-ye) 、インドネシアのケチャップ・イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロウ)も地元で広く使われている。これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州では𩸞露(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。」
「◆歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われていた痕跡である。またイタリア南部アマルフィ周辺では、ガルムの流れを引くカタクチイワシの魚醤、コラトゥーラが今も作られている。ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっているが、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚醤をさす言葉であるとする説が有力である(ケチャップを参照)。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E9%86%A4


伊豆諸島のエンバイはシュウデ、ショッカラ、シオカラなどとも呼ばれ、アジ・トビ・サバ・カツオなどの頭・腸・身を叩いて、一斗(18リットル)に対して塩水(ウッショ)を煮詰めてとった塩、三升から三升五分を加え、桶に入れて蓄える。この上澄み液を「イル」という。いわゆる「ひしお」である。伊豆諸島の名物といえば、カメノテやマツカサ貝でとった出汁にこのイルを入れ込んで煮込んだ「オジヤ」だ。アシタバ・里芋・芋の茎(イモジ)・粟・かぼちゃ・海藻のはじっこなどを具に入れてぐつぐつ煮た雑炊である。八丈島以外では戦争までは稲作がなく、粟・ヒエ・イモが中心だった。◆クサヤ三宅島の大久保浜が有名である。ここの魚醤はクサヤ生産の副産物としてクサヤ汁が使われてきた。干物にする魚のはらわた、一斗樽八分目に対して塩2㌔で塩辛にする。このときクサヤ菌が混じらないように注意。混じると臭くて喰えなくなる。一ヵ月後、天日に当てて発酵させる。天日に干しながら棒でかきまぜる作業は、ベトナムのニョクマムがまったく同じ行程で作られる。やはり海からやってきた文化なのだろう。20世紀以前から魚醤を作ってきたのはベトナム・中国・日本だけだと石毛直道は書いている(1986)
◆木簡に書かれた魚醤奈良・平安時代の木簡では、平城京で「ふなのししびしお」というのが出ている。フナの塩辛であろうという。平安時代の神饌記録『延喜式』には「鮭背腸」(サケの血合いの塩辛)、「腸漬蝮」(アワビのワタに漬け込んだアワビ塩辛)がある。特に腸漬蝮は絶品であり、同じものは種子島に「福多求フクタメ」がある。

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高野秀行著 「謎のアジア納豆(そして帰ってきた〈日本納豆〉)」についてのページ
http://holeout88.blog.fc2.com/blog-entry-194.html



170514 石切





参道は占いだらけ










birthday 母の日に石切神社へ。
以前は毎月お参りに来ていたというが、父が入院してからご無沙汰し、亡くなってから5年ぶり。
それでもなじみの参道にある魚やさんは母の顔をおぼえてたらしく、
残り一つになっていたむきエビなど多種の乾物もとめて、帰路に。

石切駅からの急な坂道往復もなんのその。八十一の健脚、ついてゆくのが大変。
まだまだいける。





2017年5月11日木曜日

1970年のマラソンコース



セルリアンブルーの薄い生地のTシャツにベージュの綿パンと坊主頭。
それが中学生になった少年のランニングスタイル。

股が池の前、ゆるやかにはじまる阪和線高架下の街工場を覗き見ながら走りだす。
美章園の駅前には小さな鉄道模型店、ショーウィンドーに飾られたHOと9ミリゲージの蒸気機関車や車両をしばしながめ、再び走り出す。

やがて到着する阪和線と環状線、関西本線をまたぐ高架道路下
天王寺駅から上町台地のなだらかな坂を下ったところで線路をまたぐ高架道路は大きく西へS字カーブし、歩行者も寺田町側へ大回りせずに行けるようにビル4階分以上の高さに達する歩道橋。
グレートな階段
その階段を一気に駆け上がるのが少年のランニングコース。

自身を痛めつけるように一気にその階段を駆け上がる少年。
疑いなく信仰していた根性を養うという70年代の一方の美徳。思春期特有の、身体を鍛え、ブルース・リーのような筋肉を獲得したいという幼い願望
平岡公威と重なるアポロン的精神。

ゼエゼエしながら駆け上がった上で脇腹に手をあてながら見る風景は
遠く生駒山脈を望み、その先にある奈良の風景がひろがっていた。

阿倍野、天王寺界隈は庭のようなものだ。

英語塾に到着する頃には、セルリアンブルーのTシャツは噴出した汗で透き通り、教室の冷房の風が冷ややかに身体を満たしていた。

その日もこんな風に二駅走って到着した英語塾。
地階に続く螺旋階段に座って号外を読みいる長髪の上級生を上から覗き込んだ。
紙面に大きくおどる「割腹自殺」



お荷物小荷物と割腹自殺、祭りのあとの70年代の幕開け



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「お荷物小荷物」
製作:朝日放送(ABC)
放送:1970 10/17- 1971 2/13
脚本:佐々木守
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%8D%B7%E7%89%A9%E5%B0%8F%E8%8D%B7%E7%89%A9

http://news.diwproducts.com/2012/06/tv1970260.html

中山千夏
1969年9月にビクターレコードより発表されたポップス「あなたの心に」(自作詞 / 作曲:都倉俊一)
1960年代に放送されたNHK総合テレビ『ひょっこりひょうたん島』の博士役が声優としての初仕事。
1970年9月に公開されたアニメラマ(劇場用アニメ)「クレオパトラ」(虫プロダクション)のクレオパトラの声優。



1970 11/25
三島由紀夫、割腹自決
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

自己犠牲と自己表現

三島の自決の決心に決定的に影響を与えたのは三島の自決の前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決であった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において、「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し、ここからは江藤青年の至誠と壮絶な自決が三島の出処進退に多大な影響を受けたことが読み取れる。


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1970年のマラソンコース (fb版)
天王寺のYMCAに通うことになった1970年、親父からもらったカメラのフイルム代を捻出すべく、国鉄阪和線二駅分を走って稼ぐことにした。
片道約8km、往復約16km、マラソンとはいえないが、途中もっとも高低差のある(人工的だが)天王寺バイパスの階段を一気に駆け上がるという難所をコースにいれた。
当時公開されたブルースリーの肉体にあこがれたこともこのマラソンの目的の一つだったからだ。(まるでヒラオカキミタケのようだ。w)
11月25日、その日も汗だくになってYMCAに着き、地下の売店に下りようとすると肩まで長い髪の青年が号外を開いて階段に座りこみ行く手を阻んでいた。
誌面には割腹自決の文字。その一月ほど前10月17日から始まった伝説の土曜ドラマ、佐々木守脚本の「お荷物小荷物」で中山千夏のファンになった。
その頃から三島と中山が頭の中でケンカしているのか。中一病の頃。 
写真は54歳になった2年前の正月二日、42年前のコースを歩いた時のもの。
2014年7月1日、記

田辺と文の里の中間あたり、桃ヶ池付近。地下を谷町線が走り上は阪神高速14号松原線。1970年当時,高速道路はなく、チンチン電車の南海平野線が走っていたところ。


国鉄阪和線高架下美章園手前。1970年当時、桃ヶ池付近では町工場もあった。





阪和線をまたぐ近鉄南大阪線。1970年当時、近鉄線は高架ではない。近鉄河堀口駅付近。

阪和線美章園駅。1970年当時、左手の自転車置き場あたりにあった鉄道模型店、休憩地点。
阪和線美章園駅
天王寺駅をまたぐ天王寺バイパス。「桑津4東」交差点で南に分岐した国道25号線はここまで。
左手になだらかに登る上町台地。天王寺交差点へ至る。この階段を一気に駆け上がる。
この階段を昇りきったところから線路をまたぐまで歩道が併設。生駒山脈から登る初日の出のスポット。





1970年当時、右の阪和線から環状線に直接乗り入れの線路は無い。中央、関西本線。(現在の大和路線)

天王寺バイパスより。左にカーブするのは環状線。




バイパス上からまっすぐに降りる階段。ビル4階高くらいか。


天王寺バイパス終了。南河堀交差点付近。右、巨大になったYMCAビル。折り返し地点。