壁に近づいてはじめて文字を読み取ることができるロイヤルブルーの壁のしみは、大きく余白を取って配される。
ここに書かれている言葉は日常生活の戒めのごとく毎朝教訓のように目立つところに貼られた言葉というようなものではない。
その文字が指し示しているものは意味ある教訓や強い主張のメッセージではない。
一度読んだだけでは忘れてしまうようなたよりなげな文字の集まりである。
それはあたかも風景のようなものである。
それは風景を眺めるように記された、もう一つの風景たらんとしている。
日常の、部屋の片隅に、忘れ去られた落書きのようにひっそりとつましく存在していることが似合っている。
何かのひょうしで目にして、その時の気分によってなんらかの感情をもたらすかもしれないといったたぐいのものである。
そういったつましさが似合う文字群である。
しかしここは、何かの表現を目的にした特別な空間である。
文字として書かれた言葉に値段が付けられている空間でめぐらせた言葉の所有と文字の値段。
それは空間を含めた文字の所有のための値段か、意味だけに還元された言葉の所有のための値段か。
白い壁に水性インクの万年筆で書かれた文字は紫外線にさらされゆっくりと退色してゆくことだろう。
書かれた基底材の中にインクを構成している微細な粒子は浸透していきながら消えてゆくだろう。
これを所有する人は空間に配されたインクの滲みを絵画のように所有することができる。
そのためには壁を切り取らねばならぬ。
もし異なる空間にあわせてその同じ文字群を新たに配したとしても、それは別のものになってしまうだろう。
なぜなら、その文字群は一回性の緊張感を持って書かれた出来事の痕跡でもあるからだ。
その場所の特性に合わせて設置されたインスタレーションであるからだ。
もし、同じ文字群を場所を変えても同じものとして提示するならば、その文字群はあまりにも情報を持ちすぎている。
それはペンによる「書」の作品として志向されたものでないかもしれないが、その文字群は「書」というメディアが持つ情報を内包している。
その文字群は個性を持ちすぎている。書かれた時の感情を内包している。
もし同じ文字群が与えられた空間にあわせて配されるものが同じ作品であるというならば、文字は万年筆で書かれることをやめ、活字やレタリングのように無個性であらねばならぬ。
その展示空間に一人で入って、ひそやかなロイヤルブルーの痕跡群を、ざわめきのない状態で体験する時、その作品を所有することができる。
それは体験者にとって空間と時間の所有である。
作者の意図に関わりなく、密やかな展示であればあるほど、空間を構成するあらゆる要素がその作品のために意図された要素として体験者に意識の集中を迫る。
フラットでない床に立ちその滲みを眼で追う時、海岸端のごつごつした岩場に立っているごとく演出されているように感じる。
かすかに、膠から発する獣のにおいは文字に肉体を与えているような錯覚を与える。が文字の指し示す風景はそんな肉体性とは対極だ。
それがたとえ日本画のどうさびきと同じ、書く為の作法であったとしても、この特別にしつらえられた空間の中では意図された要素の一つとして体験者に深読みをさせる。
この密やかで頼りなげな消えてしまうであろう滲みを表示価格によって所有する人は、その滲みが記憶の中の言葉のごとく曖昧に忘却の彼方に消え去る物質としての変化する時間を所有することができる。
時がたち完全にその滲みが消えてしまっても、かつてそこに言葉があったことを記憶として所有することができる。
この作品の値段はそういった時間を意識した値段であるか。
2011/10/26 AM05:31