2012年7月31日火曜日

120731 ゲソとオクラのバジルパスタ



連日の強烈な太陽光線でバジルの葉もボコボコ。
それにしても立派なオクラ。
いつもありがとうございます。

ゲソとオクラのバジルパスタにしていただきました。




fb-橋本 公成  2012年7月31日 


2012年7月22日日曜日

2012/06/27

http://www.nzu.ac.jp/blog/illustration/archives/1204

2012/04/13

http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=1864

2010 後期

http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=1091

大きいもの

ドローイング(1984)
紙にペイントマーカー
大きいものはどこまで可能か。

たとえば地球の大きさと同じくらいの大きさのものを造るとか。

あるいは地球上の物質をすべて投入して造るものとか。
たとえば地球上の物質をすべて投入しながら造っている途中で削られた地球の質量と、建造中の大きいものの引力のバランスとか。

たとえば、それほどの大きなものを造った時、地球の自転と公転に及ぼす影響とか。



たとえば、月の軌道は年間3.5cmほど外側にずれていっていることとか。
そのことが地球の寿命に及ぼす影響とか。
そういった地球に影響を与える変動を回避するために、月と同等の質量をもったものを軌道上につくるとか。

そんなことをキューブリックの2001年を見た後に、考えたか、考えなかったか。

ドローイング (1984)
紙にラッカー、ペイントマーカー(アルミ)
2枚のモノリスが互いの引力で引き合いながら軌道を運行する。
そんなものを造ることは可能か。

宇宙空間に衛星のごとく、夜空に輝き、確認できるくらいの大きなものを造ることは可能か。

必要な素材はどこから調達するか、とか。

そのために必要な素材と構造を考えること。










2012年7月21日土曜日

今日の補習(今日も授業延長)


型取り、樹脂注型、生地仕上げ、彩色への工程は、生産の現場では分業で行う職人的専門技術を各自演習するため授業時間内では終わらない。
特に型取りからは樹脂の硬化時間と、その日のうちに終了しなければならない工程の関係から毎水、金(2クラス同内容同時進行)の授業時間は倍以上延長の約7時間。
そんな一ヶ月半も今日でほぼ終了。
今期もまた「教師は授業時間をよく守ったか」という授業アンケートに「あまり守らなかった」とチェックがいくつもはいることだろう。

かといって授業内容を変えるつもりはない。

2012年7月18日水曜日

ささやかな実験

梅雨明け後の猛暑二日目。名古屋36℃。現在室温30℃。
湿気がないせいかそれほど暑く感じない。
和合の林のせいか、浅田の田んぼのせいか。
はたまた50を過ぎた肉体が新陳代謝の速度を落とし、発汗機能を低下させ、体感気温を下げているのか。
帰宅後すべての窓を開け放ち、換気扇と扇風機で昼間の室内熱気を放出すれば寝苦しいことはない。
凪+室外機の熱風が逆流してくる大阪の街中とは大違いの熱帯夜。

今年はまだクーラーのスイッチを一度も入れていない。
いつまで耐えることができるか。ずっと耐えれそうな気もする。

節電などではなく単なる節約。
兵糧攻めの状況下、篭城する城主のごとく。
敵から身を潜め、生体の気配を消す忍のごとく。

最小限のエネルギー消費で
最大限に暮らすこと。

これは、ささやかなひとつの実験である。

2012年7月12日木曜日

120712 大葉と蛸の冷たいカッペリーニ



つい、茹ですぎてしまうカッペリーニ。こんな時間に食べる量じゃない。
大葉と蛸の冷たいパスタ。(ほとんどサラダやな~。)それにしても大学に行った日はやたら腹が減る。



fb-橋本 公成 2012年7月12日 

2012年7月7日土曜日

二重人、あるいは


【12月18日 AFP】仏ルーブル美術館(Louvre)は18日、同館所蔵のレオナルド・ダビンチ(Leonardo da Vinci )作の油彩画『聖アンナと聖母子(Virgin And Child ……
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聖アンナの膝の上に乗った不自然なマリアのポーズ。
しかしマリアの顔を隠してみるがよい。
自然なポーズでキリストに手を差し伸べるアンナが現れる。
(アンナのポーズはキリストと相似形になる。)
聖アンナとマリアは一体化した二重人として現されている。
このことはこの作品の画稿の段階でも思考されている。
画稿では一つの胴体から二つの首、頭部をもつ双頭の化け物のような不気味さで現されている。
2011/05/26 04:36

In the hard rain swimming

閃光は目の前を8月の白い空より眩しく照らし
数秒のち、大音量重低音の大太鼓が背中で響く。

道は川になり
タイヤしばしば、池に突っ込む。

対向車のヘッドライトはアスファルトを跳ね返す水煙を反射させ
道路上数センチにスクリーンをつくる。

靴の中は池になり、
顔と前面に痛く打ち付ける直線は合羽を突きぬけシャツから皮膚に染みとおる。

開けていることが困難な眼を直撃する雨棒は
瞼をひっくり返し
全身プールの中

運転は水泳になる。


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120706 22:30-23:00 driving from SETO to NISSIN

言葉の所有と文字の値段

壁に近づいてはじめて文字を読み取ることができるロイヤルブルーの壁のしみは、大きく余白を取って配される。
ここに書かれている言葉は日常生活の戒めのごとく毎朝教訓のように目立つところに貼られた言葉というようなものではない。
その文字が指し示しているものは意味ある教訓や強い主張のメッセージではない。
一度読んだだけでは忘れてしまうようなたよりなげな文字の集まりである。
それはあたかも風景のようなものである。
それは風景を眺めるように記された、もう一つの風景たらんとしている。
日常の、部屋の片隅に、忘れ去られた落書きのようにひっそりとつましく存在していることが似合っている。
何かのひょうしで目にして、その時の気分によってなんらかの感情をもたらすかもしれないといったたぐいのものである。
そういったつましさが似合う文字群である。
しかしここは、何かの表現を目的にした特別な空間である。
文字として書かれた言葉に値段が付けられている空間でめぐらせた言葉の所有と文字の値段。
それは空間を含めた文字の所有のための値段か、意味だけに還元された言葉の所有のための値段か。

白い壁に水性インクの万年筆で書かれた文字は紫外線にさらされゆっくりと退色してゆくことだろう。
書かれた基底材の中にインクを構成している微細な粒子は浸透していきながら消えてゆくだろう。
これを所有する人は空間に配されたインクの滲みを絵画のように所有することができる。
そのためには壁を切り取らねばならぬ。
もし異なる空間にあわせてその同じ文字群を新たに配したとしても、それは別のものになってしまうだろう。
なぜなら、その文字群は一回性の緊張感を持って書かれた出来事の痕跡でもあるからだ。
その場所の特性に合わせて設置されたインスタレーションであるからだ。
もし、同じ文字群を場所を変えても同じものとして提示するならば、その文字群はあまりにも情報を持ちすぎている。
それはペンによる「書」の作品として志向されたものでないかもしれないが、その文字群は「書」というメディアが持つ情報を内包している。
その文字群は個性を持ちすぎている。書かれた時の感情を内包している。
もし同じ文字群が与えられた空間にあわせて配されるものが同じ作品であるというならば、文字は万年筆で書かれることをやめ、活字やレタリングのように無個性であらねばならぬ。

その展示空間に一人で入って、ひそやかなロイヤルブルーの痕跡群を、ざわめきのない状態で体験する時、その作品を所有することができる。
それは体験者にとって空間と時間の所有である。
作者の意図に関わりなく、密やかな展示であればあるほど、空間を構成するあらゆる要素がその作品のために意図された要素として体験者に意識の集中を迫る。
フラットでない床に立ちその滲みを眼で追う時、海岸端のごつごつした岩場に立っているごとく演出されているように感じる。
かすかに、膠から発する獣のにおいは文字に肉体を与えているような錯覚を与える。が文字の指し示す風景はそんな肉体性とは対極だ。
それがたとえ日本画のどうさびきと同じ、書く為の作法であったとしても、この特別にしつらえられた空間の中では意図された要素の一つとして体験者に深読みをさせる。

この密やかで頼りなげな消えてしまうであろう滲みを表示価格によって所有する人は、その滲みが記憶の中の言葉のごとく曖昧に忘却の彼方に消え去る物質としての変化する時間を所有することができる。
時がたち完全にその滲みが消えてしまっても、かつてそこに言葉があったことを記憶として所有することができる。
この作品の値段はそういった時間を意識した値段であるか。

2011/10/26 AM05:31


言葉の所有


言葉はいかにして所有されるか。
 
講演会では一しゃべりいくらで値段が付けられる。
言葉を発する時間によって値段がつけられる。
その人の言葉が内包している意味の深度によって値段が付けられる。
講演者のパーソナリティによって値段が付けられる。
 
言葉は発せられた瞬間から空気中に消えてゆくが、その指し示す意味とあいまってその言葉を聴いた人によって所有される。
言葉は聴覚を介して発した人から聴いた人に伝わって所有される。
言葉を聴いた人は忘却のかなたに消えてしまうことを恐れて文字に書き記す。
言葉は、文字に記された言葉として所有される。
そこでは文字自身を所有することが重要なのではなく、文字がさす、言葉の指し示すその意味を欲するために所有される。
文字はそれが綴られた本として所有される。
弟子たちが口述筆記をもとに書き残した経典のごとく所有される。
視覚から入った文字は聴覚とあいまって見た人に所有される。

2011/10/26 AM05:31