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2023年6月22日木曜日

鳰鳥(ニホドリ)息長鳥〈シナガドリ)と息長川〈オキナガガワ)

 



「鳰鳥(ニホドリ)の 息長川(オキナガガワ)は 絶えぬとも 君に語らむ 言(コト)尽きめやも」 万葉集・巻20-4458番・馬史国人(ウマノフヒトクニヒト)



冬が去り気温が上昇し日差しが強くなってきてからは、死の恐怖に直結するような酷い呼吸困難の発作は起こらなくなった。それでも動作時の息苦しさは慢性化してるので、健康な時の呼吸がどんなだったか身体は忘れてしまっている。

息苦しさの「息」とは「生きる」に通じる言霊であろうなどと考えてると、ここのところ観察しているカイツブリが、やはり「息」を字に持つことに何か縁を感じ、さらに、私の脳みその迷路はまったく異なる故郷の今川(大阪市では万葉で歌われている息長川オキナガガワは今川説をアピールしている)に繋がってゆく。
そして四天王寺研究の南さんがfbでつぶやいた仮説、「息長(オキナガ)=沖縄難民 ゆえに日本書紀は神功皇后を卑弥呼と比定した。」


水辺の湿地でよく見かける身近な鳥、カイツブリ。万葉集など古くからよく歌に登場する。
それゆえかカイツブリの和名はいくつもある。
カイツブリはカイ=たちまち、ツブリ=潜るときの水音が転じたとされる。
万葉の頃から歌に詠まれる鳰鳥(ニホドリ)は「すぐ水に潜る(入る)」生態を一文字で表す字に当てた大陸由来でないヤマト漢字。
「息長鳥」と書いてシナガドリと読む。またその繁殖状態から「浮巣鳥」(ウキスドリ)ともいう。いずれも和名であり、大陸漢字とは異なっている。

同じ「息長」(息が長い)と書いてシナガとオキナガの異なる読みは漢字が当て字であることを示している。水鳥のカイツブリと渡来氏族のオキナガ氏を区別するための読みに、漢字をあてたのだろう。潜って水中生物を獲るカイツブリの生態から「息が長い鳥」。息(訓読みイキ)(音読みシ)。さすれば息長氏(オキナガウジ)は沖縄由来ということか?
地名 息長川 オキナガガワ は息長氏族の地を流れている川という意味と、息長鳥 シナガドリ がたくさんいる川という意味の両方の意味にもとれる。
一方、文学界では息長川 オキナガガワ は特定の場所を指す地名としてではなく、文学界の通説として象徴的意味として用いられている。
生態観察→象徴的意味
いや、象徴的意味などという大げさなものでなく、東下りの八ツ橋が刈谷のカキツバタという固有の場所から転じて文化人の間でだけ通じる隠語のようなものになったように?
わかる人の間で引用引用を繰り返し、特権階級としての芸術に関わる人たちだけが阿吽の呼吸で理解できるといった。。。
こんな風に考えてると、私の脳みそ迷路はこの脱線が、生成AIやChatGPTにつながりを求め始めていることにもやもやしだしている。
・・・文学界の通説ではこの台詞は、古歌を書き写した屏風絵や歌扇に書かれ、また鳰鳥の歌も歌人に広く詠まれていたため、「息長川」と言えば「誠実な恋」を意味するものと考えられていたようです。(大阪市ホームページ)


230622-勅使池nest04




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ブラタナベ ~ 今川と息長川  (2015年5月19日火曜日)


大阪市ホームページ 018 息長川(おきなががわ)2022年12月19日



2019年11月14日木曜日

「月が綺麗ですね」



2019/11/13  18:30  from KOMAKI OOKUSA Aichi Japan 小牧大草の十六夜

「I Love You」 を日本人は「あなたを愛しています」なんて言わない「月が綺麗ですね」とでも訳しておけ。。と言ったとされる夏目漱石の逸話、僕もドラマ「相棒」で知ったのですが、劇中でも図書館の資料箱の中に逸話の証拠となる学生に送った漱石のはがきがあった!という物語でした。

国立国会図書館サーチ
夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したとされる根拠となる文献はないか。(岐阜県図書館)
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000006-I000149970-00?fbclid=IwAR0ugbQ-lUfDSeXKbbvgEURJz_5znkYaQcISUoR40TmFGGc0yY8q9xiF5nc


2019年11月11日月曜日

久米の岩橋

大納言朝光:
下らうに侍りける時、女のもとにしのびてまかりて、暁にかへらじといひければ

小大君:
いわはしのよるのちぎりもたえぬべしあくるわびしきかつらぎの神

<岩橋の、夜の契りも絶えぬべし、明くるわびしき葛城の神 /拾遺和歌集 1201>




佐竹本三十六歌仙絵巻→小大君のうた→葛城の神(一言主神)と役行者 
からの、「久米の岩橋」
役行者(えんノぎょうじゃ)よりの、葛城山から吉野金峰山への橋を架ける工事依頼を、醜い姿が恥ずかしいから夜しか働かないと断ったため谷底に閉じ込められた葛城の神、一言主神(ひとことぬしノかみ)
この「久米の岩橋」物語を知らねば小大君のうたも佐竹本三十六歌仙絵巻もあじわえない。
現代の美術も、古典も深くあじわおうとすれば勉強が必要ですね。




古事記(712年)では幼武尊(わかたけるノみこと=雄略天皇)より優位に記述されていた葛城の一言主神は、日本書紀(720年)では対等になり、続日本紀(797年)では天皇の怒りにふれる記述へと変化する。
それにしても葛城山から奈良盆地をまたいで大峰山脈まで橋を架けるというビックプロジェクトが実現していたらヤマト文明もエジプト文明に匹敵した大文明だったか?
いや、このひらがなの「情」の深さこそが大和文明の本髄かも。

河内名所図会 6巻[2]25コマ目に工事が中断した久米の岩橋の図があります。
以下の国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。


河内名所図会 6巻(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563472?tocOpened=1



参考、引用元
岩橋山 wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%A9%8B%E5%B1%B1

小大君千人万首
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

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New project of "佐竹本三十六歌仙絵巻"
2019年2月16日
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2019/02/new-project-of.html


2018年3月7日水曜日

翻訳についての記事の機械翻訳

翻訳についての記事の機械翻訳





the repeated question marks next to words; the multiple phrasings to express the same thing (“to reach; to amount to; to befall; to happen to; to extend”); the flying lines across the page. 

機械翻訳> 同じことを表現するための複数の言葉遣い( "到達するために、量に達するために、起こることに、起こるために、"伸ばすために)ページを横切る飛行線。翻訳者の注釈は、強迫観念で深い読者のものに似ています。




Among literary translators, there are two main camps: those who wish to revise a canonical text and those who want to introduce something entirely new. Goto, however, happens to be the kind of translator I identify with the most: one who translates to gain a deeper understanding of the language spoken at home.

機械翻訳> 文学翻訳者の中には、標準的なテキストを修正しようとする人と全く新しいものを導入したい人の2つの主なキャンプがあります。しかし、後藤は、私が一番よく認識する翻訳家のようなものです。つまり、自宅で話されている言語をより深く理解するために翻訳する人です。




“You always know the way to say things is a choice.” Perhaps it is this hyper-attentiveness to language that exacerbates our self-doubt.

機械翻訳> 「あなたはいつも物事を選択する方法を知っています」と言いました。おそらく、自己疑いを悪化させる言語への注意深さです。



At one point, the mom questions the father’s judgment — “His translation doesn’t make sense to me so he’s thinking of another way to say it.” 

機械翻訳> ある時点で、お母さんは父の判断に疑問を呈しています - 「彼の翻訳は私には意味がないので、彼はそれを言う別の方法を考えています」



Back at the panel, Anna Moschovakis, a translator from French, explained the difference between writing and translating: “As writers we distance ourselves, it’s more of a performance. As translators, we step in as actors.” In other words, it’s a different kind of performance, where we attempt to inhabit or reenact another person’s voice. 

機械翻訳> パネルに戻って、フランスの翻訳者、Anna Moschovakisは、執筆と翻訳の違いについて説明しました。「私たちは遠く離れた作家であり、それはもっとパフォーマンスです。翻訳者として、私たちは俳優として踏み込んでいます」と言います。つまり、別の人の声に生きようとするか、あるいは再現しようとする別の種類のパフォーマンスです。



It would seem that Goto has fully embraced the role of translation as performance. Not only does she expose her process — destroying the illusion of a translation as clean, neat, and complete — but she dates each of the pages once she’s finished working on them, as though they were individual artworks.

機械翻訳> 後藤は、翻訳の役割を完全にパフォーマンスとして受け入れているようです。彼女は彼女のプロセスを暴露するだけでなく、翻訳の幻想をきれいに、きれいに、完全に壊してしまいます。個々の作品であるかのように、作業を終えたら各ページの日付を記入します。


https://hyperallergic.com/430559/asuka-goto-translation-tiger-strikes-asteroid/?utm_medium=email&utm_campaign=March%207%202018%20-%20San%20Francisco%20Will%20Remove%20Statue%20of%20White%20Settlers%20Towering%20Over%20a%20Native%20American&utm_content=March%207%202018%20-%20San%20Francisco%20Will%20Remove%20Statue%20of%20White%20Settlers%20Towering%20Over%20a%20Native%20American+CID_92df7c55818126c8970054e410c0a6c3&utm_source=HyperallergicNewsletter






2015年5月19日火曜日

ブラタナベ ~ 今川と息長川




一級河川 今川



引用:

奈良時代の(756)天平勝宝八歳丙申(ひのえさる)の朔乙酉(つきたちきのととり)の二十四日戊申(つちのえさる)に、太上天皇(聖武)・天皇(孝謙)・太后(光明)、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信(ふたよあまり)、壬子(みずのえね)をもちて難波の宮に傳幸(いでま)す。三月七日に、河内国伎人郷(くれのさと)馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首。
 4457 住吉(すみのえ)の浜松が根の下延(したは)へて我が見る小野の草な刈りそね
                                               兵部少輔 大伴宿禰家持
 4458 にほ鳥の息長川(おきながかわ)は絶えぬとも君に語らむ言尽(ことつ)きめやも    古新未詳
                                                  散位寮散位 馬史国人
 4459 葦刈(あしか)りに堀江漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)は大宮人の皆聞(みなき)くまでに
                                                   式部少丞 大伴宿禰池主
万葉集巻二十にある記述で題詞の 河内国伎人郷」と4458の歌に詠まれた「息長川」の所在を巡る論争が発端になり、「伎人郷に居住する馬国人が遠く離れた北近江を流れる息長川(現天の川)を詠み込む筈がない当時伎人郷の近くを流れる川に「息長川」と呼ばれる川が存在し、その川は現今川である」 また、「伎人郷」とは「現在の大阪市平野区喜連町である。この町に「北村某の家記」という古文書があり往古に息長氏が居住していた」という伝承がある、といわれています。
昭和三十四年、日本上古史研究会報において大阪樟蔭女子大学教授の今井啓一氏が
『息長氏異聞』と題する論文で喜連の息長氏について論じられ、これに対して大阪大学助手の八木毅氏が『万葉集の息長』と題する論文で反論されています。最近になってこの『息長川』が注目を浴びだしたのは東住吉区の郷土史家の方が『万葉集に詠まれた息長川は我が町の今川だった』と活発な『今川即ち息長川』説を唱えておられます。当初私もこの説に賛同して考察を始め喜連村誌・東成郡誌・大阪府史・市史等の記事内容から往古の息長氏喜連居住説を信じていましたが大阪市文化財協会(現研究所)の発掘調査報告書を読み現地を歩いてみると古代の地形環境や数少ない資料から村郡誌府市にある喜連の息長関連記事や喜連近辺の息長川存在説に多くの疑問があることを知りましたが、信頼できる資料が皆無に近く2次3次資料を参考に憶測することが多く合理的な論理をもって通説を完全に覆すことはできなかったことは残念ですが、発掘調査結果や関連する2次3次資料だけでも『今川=息長』説には疑問が山積することがお解かりいただけると思います。今後とも出来うる限り裏付けとなる資料の収集に努め考察を続けたいと考えております。 

住吉郡の初見史料は平城京跡出土木簡で(表)無位田辺史広調進続労銭伍佰文(裏)摂津国住吉郡神亀五年九月五日勘錦織秋庭と記されているもので、(733)天平五年の右京計帳にも住吉郡田辺郷戸主正七位上田辺史真立の名が見られます。この住吉郡田辺郷も「和名抄」には記載されていない郷ですが現在東住吉区に北田辺、田辺、南田辺。住吉区に西田辺の地名が存在し、この辺りではないかと思われますが古代の田辺郷との繋がりは不明です。下は『伎人郷』を取り巻く地域の古文書による国郡郷名を調べたものです。竹渕・賀美(加美)・三宅の各郷名は現在も実在しますが、百済郡南部郷の所在地については不明です。


東成郡誌北百済村(参照記事)----- 
息長川  
今川の舊河身なり。今川、舊河内川と称せり、河内丹北郡より流れて喜連村に入りて息長川と称せり。今の河身は、往古の流域と頗る異れるが為に、今川と称するなり。
 [万葉集]天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉二十四日戌申、太上天皇、皇太后、幸行於河内離宮経信々以壬子傳幸於難波宮也三月七日於河内国伎人郷馬史国人之家宴歌 にほ鳥の息長河は絶えぬとも君に語らむ言つきめやも   馬史国人


追記引用:大阪市東住吉区ホームページより

018 息長川(おきなががわ)
2022年12月19日

ページ番号:32784

河内国伎人郷(クレサト・現平野区喜連)の豪族、馬史国人(ウマノフヒトクニヒト)が万葉集の巻20-4458番に詠んだ、「鳰鳥(ニホドリ)の 息長川(オキナガガワ)は 絶えぬとも 君に語らむ 言(コト)尽きめやも」に見える息長川は、通説では近江の天野川とされていますが、河内の川という説もあり、私たちは現在の今川がその流れを汲むものだと考えています。
そして「この歌は古今和歌六帖に僅か一文字違いで、『君に語らふ 言尽きめやも』(読み人知らず)と詠まれている、古歌の引用である」とする通説に対して、私たちは国人の歌が本元で、これが詠まれた奈良時代中期(756年)より、150年も後に編纂された、「古今和歌六帖」に載っている歌の方が、万葉集の歌を引用したものであると考えています。
つまり、巻20-4458番に詠まれた「息長川」は、奈良時代末期から平安初期に至る度重なる大洪水で、息長川の水源となる馬池谷筋が埋まってしまったため、この歌が「古今和歌六帖」に詠まれた頃には、豊かな水量を維持していた「息長川」が姿を消し、何処の川か分らなくなったからだと考えています。{大阪春秋(平成20年(2008年)秋号、平成10年(1998年)10月、100~108頁)を引用}


また、源氏物語の夕顔の巻では、初めての道行きに、光源氏が夕顔に対して、何の説明もなく突然に「息長川と契り給ふよりほかのことなし」として、「末永い愛を誓って『息長川』を繰り返した」と「息長川」を引用しています。
文学界の通説ではこの台詞は、古歌を書き写した屏風絵や歌扇に書かれ、また鳰鳥の歌も歌人に広く詠まれていたため、「息長川」と言えば「誠実な恋」を意味するものと考えられていたようです。しかし国人の歌意は恋ではなく、客人・大伴家持の挨拶歌に対する答礼歌であった(鴻巣盛廣説)と考えられ、両方の歌は僅か一字違いで、全く異なった意味の歌であると考えています。







2015年2月14日土曜日

The letter is not burnt on fire. It returned to earth by ants. ~文字は火に焼かれず、蟻によって土に返る。


My funny Valentine



Episode Ⅰ  ---- 2012/06/03

崩れかけた箱から大量の蟻!
卵のようなものも!
わあーっ!
気色悪く、思わず箱ごと庭に放り投げた。
箱の中身は、特別な書簡を紙箱に入れておいたもの。
大切に保管するために倉庫の本棚の上の方に置いておいた箱が、
雨漏りした部分から、箱全体に水がまわり、紙がふやけ、乾燥し、再び水が染み込みを繰り返し
書簡の束は土壌になり、蟻たちの絶好の住処と成り、書簡の塊に蟻が巣を作った。
いくつかの書簡はボロボロに。
いくつかの書簡は粉々の土のようになり、
原型をとどめている書簡の隙間からも、おびただしい卵。
大切に保管されていた言葉は蟻によって土に返った。

残したいものはなくなり、どうでもいいガラクタが残った。






Episode Ⅱ ----- 2015/01/20

生物学者が図書館で大発見をする。
生物学者は図書館で古い紙箱に入った夏目漱石の書簡を見つけた。
彼はその箱が虫に喰われているのを見つけ、その虫への関心から、その箱を開け、
「月がきれいですね」=「I love you」の日本語訳という伝説の証拠を見つける。
それは漱石が英語教師をしていた時のエピソード。
学生からのハガキに書かれた事実の発見が事件解決の重要なポイントに使用される。

相棒Ⅱ(TVドラマ再放送より)



Episode Ⅲ  ----- 2061/08/15

映像、画像、テキスト、メールのやり取り...デジタルメディアで保管していたものが再生アプリとハードの賞味期限切れ、クラウド上サーバーのサービス終了ですべて消えさった。
彼と彼女の物語は存在しなかったように消えてなくなってしまう。
そして、彼と彼女を取り巻いていたその時代さへも存在しなかったように蒸発してしまった。

Prime Ministers Security によって「架空の歴史ノート」が空白の部分に書き加えられた。


"Google boss warns of 'forgotten century' with email and photos at risk"
http://www.theguardian.com/technology/2015/feb/13/google-boss-warns-forgotten-century-email-photos-vint-cerf?CMP=share_btn_fb




2014年10月25日土曜日

141025 杜鵑草の季節



田辺のせんだいにて


と書いて、「せんだい」とはどんな漢字かと調べたら載っていない。でてくるのはセンザイ
【前栽】
読み方:センザイ(senzai), セザイ(sezai)
1 草木を植え込んだ庭。寝殿造りでは正殿の前庭。のちには、座敷の前庭。
2 庭先に植えた草木。
ダと発音するのは母に多い。故に「ザ」を「ダ」となまるのは大和言葉?かと思ったが、父方の祖母もセンダイと言ってたと思うから難波大和言葉?か
というかどちらがなまったのか?センダイが漢字を当て、関東でセンザイになったという説(僕説w)

田辺の一般的な借家には門塀があり前前栽があり、後ろ前栽(座敷の前庭)がある。
こう書いてみると、「前前栽」とは「馬から落ちて落馬した」的だ。センザイとは前庭のことか?

fb-橋本 公成
2014年10月25日

2014年6月5日木曜日

ポエムについての2つのブログ

memo


『日本のポエム化は中田英寿から始まった!』
ポエム化を助長するのは安倍さんとEXILE
上田 真緒 :東洋経済オンライン編集部 2014年06月03日
http://toyokeizai.net/articles/-/38824



『ボクのおとうさんは、桃太郎に・・・』 
あのコピー誕生のきっかけは、シリア内戦だった
井口 裕右:フリーライター・プランナー
投稿日: 2014年06月04日 16時44分
http://www.huffingtonpost.jp/yusuke-iguchi/momotaro_b_5432825.html

2014年4月12日土曜日

いろはにほへとちりぬるを ~ from wikipedia

メモ:
いろはうたについてWikipediaよりのコピペから整理。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF%E6%AD%8C

===================
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず 

===================
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす京

色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず 

--------------------
古くから「いろは四十七字」として知られるが最後に「京」の字を加えて四十八字としたものも多く、現代では「ん」を加えることがある。いろはかるたの最後においても「京の夢大坂の夢」となっている
京の夢とは朝廷で官位を極める「出世」、大坂の夢とは商売で財を築く「富貴」の夢。夢物語をする前に唱える諺。

====================
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず 

匂いたつような色の花も散ってしまう。
この世で誰が不変でいられよう。
いま現世を超越し、
はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい。

---------------------
文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである。中世から現代にいたるまで各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」などと、仏教的な無常を歌った歌と解釈してきた。

====================
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず

諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽

諸行は無常であって
これは生滅の法である
この生と滅とを超えたところに
真の大楽がある 

--------------------
12世紀の僧侶で新義真言宗の祖である覚鑁は『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は『涅槃経』の中の無常偈(むじょうげ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳であると説明した。

===================
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

以呂波耳本へ止
千利奴流乎和加
餘多連曽津祢那
良牟有為能於久
耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之
恵比毛勢須

— 『金光明最勝王經音義』

------------------
文献上の初出である『金光明最勝王経音義』とは、『金光明最勝王経』についての音義である。音義とは経典に記される漢字の字義や発音を解説するもので、
いろは歌は音訓の読みとして使われる仮名の一覧として使われている。ここでの仮名は借字であり、7字区切りで大きく書かれた各字の下に小さく書かれた同音の借字一つ乃至二つが添えられている(ただし「於」〈お〉の借字には小字は無い)。

2013年6月15日土曜日

「つまらないこと」あるいは「コンセプチュアルアート・ライト」

つまらないことは、興味や意欲、行動や衝動、あらゆる”人”の行動にネガティブに作用するだけでなく感受性さえも枯渇させる。


栗原はるみ氏曰く。

「決めるからつまらなくなる」

「ルールを作ると嫌いになっちゃう」

「作る人がルール」



完全なる自由を獲得していなければならないはずの「アーティスト」と称する人が時に正反対のことを言い、興ざめする。
狭い地域やソサエティー、わずかの時間的経過を歴史と錯覚したルールに囚われた、真面目に、こぎれいに仕上げられた、不自由な成果物。
狭いルールがレギュレーションの内側で生きていくのは自由だが、つまらないモノや事を再生産することは避けなければならない。
言い換えれば、「アート」に成る可能性を持った成果物は言語化される部分がどれだけ整合性を持って完結しているかが重要なのではない。
言語化されえない得体の知れないデモーニッシュなアニマがないものに「アート」と称するものが入り込む余地はない。
それは「コンセプチュアルアート・マイルド」とか「コンセプチュアルアート・ライト」と呼ばれるタバコの銘柄のようなものにすぎない。

2013年5月18日土曜日

我在中国的朋友到了日本



一ヶ月前に来日し日本で働き始めた彼が、今、私の中国語の老師。


彼のことを説明する文を3種書きどれが正しいか検索を受ける。

私が書いた一番目「在中国的我朋友到了日本」の我 (My) の場所を彼は修正し「我在中国的朋友到了日本」とした。

2012年7月7日土曜日

言葉の所有と文字の値段

壁に近づいてはじめて文字を読み取ることができるロイヤルブルーの壁のしみは、大きく余白を取って配される。
ここに書かれている言葉は日常生活の戒めのごとく毎朝教訓のように目立つところに貼られた言葉というようなものではない。
その文字が指し示しているものは意味ある教訓や強い主張のメッセージではない。
一度読んだだけでは忘れてしまうようなたよりなげな文字の集まりである。
それはあたかも風景のようなものである。
それは風景を眺めるように記された、もう一つの風景たらんとしている。
日常の、部屋の片隅に、忘れ去られた落書きのようにひっそりとつましく存在していることが似合っている。
何かのひょうしで目にして、その時の気分によってなんらかの感情をもたらすかもしれないといったたぐいのものである。
そういったつましさが似合う文字群である。
しかしここは、何かの表現を目的にした特別な空間である。
文字として書かれた言葉に値段が付けられている空間でめぐらせた言葉の所有と文字の値段。
それは空間を含めた文字の所有のための値段か、意味だけに還元された言葉の所有のための値段か。

白い壁に水性インクの万年筆で書かれた文字は紫外線にさらされゆっくりと退色してゆくことだろう。
書かれた基底材の中にインクを構成している微細な粒子は浸透していきながら消えてゆくだろう。
これを所有する人は空間に配されたインクの滲みを絵画のように所有することができる。
そのためには壁を切り取らねばならぬ。
もし異なる空間にあわせてその同じ文字群を新たに配したとしても、それは別のものになってしまうだろう。
なぜなら、その文字群は一回性の緊張感を持って書かれた出来事の痕跡でもあるからだ。
その場所の特性に合わせて設置されたインスタレーションであるからだ。
もし、同じ文字群を場所を変えても同じものとして提示するならば、その文字群はあまりにも情報を持ちすぎている。
それはペンによる「書」の作品として志向されたものでないかもしれないが、その文字群は「書」というメディアが持つ情報を内包している。
その文字群は個性を持ちすぎている。書かれた時の感情を内包している。
もし同じ文字群が与えられた空間にあわせて配されるものが同じ作品であるというならば、文字は万年筆で書かれることをやめ、活字やレタリングのように無個性であらねばならぬ。

その展示空間に一人で入って、ひそやかなロイヤルブルーの痕跡群を、ざわめきのない状態で体験する時、その作品を所有することができる。
それは体験者にとって空間と時間の所有である。
作者の意図に関わりなく、密やかな展示であればあるほど、空間を構成するあらゆる要素がその作品のために意図された要素として体験者に意識の集中を迫る。
フラットでない床に立ちその滲みを眼で追う時、海岸端のごつごつした岩場に立っているごとく演出されているように感じる。
かすかに、膠から発する獣のにおいは文字に肉体を与えているような錯覚を与える。が文字の指し示す風景はそんな肉体性とは対極だ。
それがたとえ日本画のどうさびきと同じ、書く為の作法であったとしても、この特別にしつらえられた空間の中では意図された要素の一つとして体験者に深読みをさせる。

この密やかで頼りなげな消えてしまうであろう滲みを表示価格によって所有する人は、その滲みが記憶の中の言葉のごとく曖昧に忘却の彼方に消え去る物質としての変化する時間を所有することができる。
時がたち完全にその滲みが消えてしまっても、かつてそこに言葉があったことを記憶として所有することができる。
この作品の値段はそういった時間を意識した値段であるか。

2011/10/26 AM05:31


2012年5月5日土曜日

文字についてのことば


「よくわからないんだ、ぼくが文字を読んでいるのか、それとも文字がぼくを読んでいるのか。」

ashes and snow 「手紙で綴られた小説」 by gregory colbert  七十四番目の手紙 より
Translated by Yumiko Kotake

http://www.ashesandsnow.org/jp/


ceniza y nieve,magníficas fotografías de Gregory Colbert

http://www.youtube.com/watch?v=f8yttLBmgXY





採集地:The Nomadic Museum, Odaiba, Tokyo
2007/04/05

ことばについてのことば


「目ではなく、ことばでイメージをふくらます」


大道寺将司の俳句に用いられる日常使用されることが少ない言葉を用いることについて番組中に登場する人物によって語られた言葉。

NHK 「失われた言葉をさがして 辺見庸 ある死刑因との対話」

ceron.jp/url/www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0415.html


採集地: NHK  ETV特集  2012/04/22