2016年9月23日金曜日

Shwebo





Shwebo
https://www.google.com/maps/@22.5740739,95.6850744,14z?hl=en

Shwebo, Kyauk Myaung city
https://www.google.com/maps/@22.6106336,95.7683501,47153m/data=!3m1!1e3?hl=en

Kyauk Myaung city
https://www.google.com/maps/@22.5891546,95.9412908,2948m/data=!3m1!1e3?hl=en

Shwebo factory 01
https://www.google.com/maps/@22.5845117,95.9506054,184m/data=!3m1!1e3?hl=en





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Shwe Daza Paya
https://www.wanderant.com/#/items/89834-shwe-daza-paya/overview

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Shwebo
https://www.wanderant.com/#/items/30001-shwebo/overview

Shwebo is a city in Sagaing Region, 110 km northwest of Mandalay between the Irrawaddy and the Mu rivers. The city was the origin of the Konbaung Dynasty, established by King Alaungpaya in 1752, that was the dominant political force in Burma after the mid-18th century. It served as Alaungpaya's capital from 1752 to 1760.


シュエボはザガイン地域マンダレーの北西110キロにある都市、イラワジとムー川間のです。
市は、18世紀半ばの後にビルマの支配的な政治力となったこと、1752年に王アラウンパヤーによって確立されたコンバウン王朝の起源でした。
これは、1752年から1760年にアラウンパヤーの首都を務めていました。



歴史
1752年までは、シュエボは約300家屋のMoksoboという村でした。これは、翰林の古代ピューの都市国家の部位の近くに位置しています。
1752年2月29日、村アウンゼーヤ川のチーフは、下ビルマベースHanthawaddy力の今後の侵略に抵抗するコンバウン王朝を設立しました。
またアラウンパヤーの王室のタイトルを想定アウンゼーヤ川は、46周辺の村の忠誠を獲得し、防御柵を構築し、Moksoboの周りに堀を掘っを開催しました。
彼は彼の村、シュエボの名前を変更しました。次の8年間で、アラウンパヤーは彼の首都としてシュエボとビルマの統一を主導しました。

シュエボは1760にアラウンパヤーの死の後Naungdawgyiが近いイラワジ川にザガインへの資本を移動後継者を首都としての地位を失いました。
それにもかかわらず、シュエボはコンバウンの軍隊で提供していた兵士の不均衡な配分を提供し、コンバウン時代を通じて重要な地域であり続けました。
領域は通常、ほとんどのシニア諸侯、通常皇太子によって扶持として開催されました。
それはMindonの王子が彼の腹違いの兄弟パガンを打倒するために彼の落札で反乱の標準を高めるために1853年に行ったことシュエボにしました。


地理気候
シュエボは、それは過去48年間、10月の24時間以内の降雨を記録破りだった2011年10月19日に降雨量の4.37インチを受けました。
従来の記録は1993年10月24日の3.84インチでした。

輸送
シュエボはミャンマー国鉄のマンダレー - ミーチーナ鉄道線で提供しています。
マンダレーとモンユワからの道路はかなり良好な形状であるとして都市は最高のピックアップトラックやバスが到達します。
ヤンゴンからシュエボへの高速道路急行バスがあります。

経済
モンユワと同じように、都市はムー川とエーヤワディー川の間、周囲の平野からの農産物、特に豆、米、ゴマのための貿易の中心地です。
いくつかの観光客が旅をすると施設が非常に限られているが、シュエボの主要な観光スポットには、数多くの仏教寺院、およびアラウンパヤーの宮殿の再建です。
市はまだ古代の堀に囲まれています。このようなShwetaza仏のイメージとMyodaungパゴダのような多くの仏塔があります。
非常に暑い夏には、シュエボに住んでいる人々は、人々は町の周りShwetaza仏のイメージを持ったときに雨が来ると信じています。

教育
シュエボで3基礎教育の高校があります。町はシュエボ大学とシュエボ政府科学技術大学に家です。
政府技術大学は、それは約3マイル、シュエボの北東に位置し、シュエボ-ミーチーナMahabyuha道路の東に、約1.14マイルされている1月20日、2007年に設立されました

有名な場所
シュエボ市を構築する時には、キングアラウンパヤーは7ヶ所を建てました。
キングアラウンパヤーが生まれた場所に建てられShwechatthoパゴダ

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「ミャンマーの歴史」

https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Myanmar


ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。
遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11世紀 - 13世紀)以降である。
ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。
ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の氐族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池が隋の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。
四散した氐族は、中国雲南省大理にあった烏蕃氏の六詔の傘下に入ったと考えられている。後に六詔が統一されて南詔となった。


驃国・タトゥン王国
パガン王朝の都、バガン。バガンとは広くこの遺跡群の存在する地域を指し、ミャンマー屈指の仏教聖地である。
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人がピュー(驃)を建国した。
832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤーワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間に渡って王朝がなかった。
9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国(9世紀 - 1057年)が建国された。


ビルマ族の南下
1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤーワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。
王統史の言う「44代目」のアノーヤター王(在位1044年 - 1077年)が初代国王とされる。1057年、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。
パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受け、1287年のパガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。
下ビルマには、モン族がペグー王朝 (1287年 - 1539年)を建国し、上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が、ピンヤ朝(1312年 - 1364年)とアヴァ王朝(1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。
1385年から40年戦争が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。
1486年、タウングーに流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によってタウングー王朝が建国された。
タウングー王朝はポルトガルの傭兵を雇い入れ、タビンシュエーティーの治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次のバインナウンの治世には1559年には現東インドのマニプールを併合し、アユタヤ王朝やラーンナー王朝などタイ族小邦や、チン・ホー族が住む雲南のシップソーンパーンナーを支配した。
しかし1612年にはムガル皇帝ジャハーンギールの下で、プラターパーディティヤが支配していたチッタゴンを除く現バングラデシュ地域がムガル帝国の統治下に入り、1666年にはさらにムガル皇帝アウラングゼーブが現ラカイン州に存在したアラカン王国支配下のチッタゴンを奪った。
17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝を興した。
1752年3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。
1754年にビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。清に助けを求めたシャン族が乾隆帝と共に興した国土回復戦争が清緬戦争(1765年 – 1769年)である。
しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。
タイはアユタヤ王朝以来ビルマの属国だったが、1769年にタークシン率いるトンブリー王朝(1768年-1782年)が独立し、その後に続くチャクリー王朝(1782年-1932年)は、ビルマと異なった親イギリスの外交政策をとって独立を維持することに成功した。



2016年9月22日木曜日

day #21431: 160905 from Yangon to Mandalay, Shwebo



人が横断する
犬が横断する
自転車に乗った人が脇を走る


ほとんど走行車と出会うことのない高速道路
エーヤワディ平原を北へ北へ
時速120kmで約11時間

肩にもっこり骨が浮き出る灰色の牛
頭と足先が黒い山羊の群れ
高い山はほとんど見えず

エーヤワディ川と平行に川をさかのぼる
ヤンゴンからマンダレー、シューボへの旅は
文明の時間を遡る旅?
40年前の映画ならそんなストーリーがあったかもしれないが
そんなに単純なもんじゃない
家は葉っぱでできていても、入口には太陽電池パネル
人々は携帯電話を持っている

雨季になり水が氾濫すれば何もかも流し去ってしまう地で
頑丈な家はかえって無駄な抵抗と
そんな風に考えるかもしれない、と思ったりする
棕櫚の葉っぱの屋根に、葉っぱを編んだパネル
葉っぱでできた高床の家

それでも、棕櫚の木陰、家の前に寝そべる
吸い込まれそうな優しい目をした灰色の牛を見ていると
えもいわれぬ安寧を感じる










ほとんど走行車と出会うことのない高速を走ってると思いだすのは
20世紀末の中国福建省
泉州から福州まで、未完部分のある高速道路を
運転手がフロントガラスに国賓の看板を立て
黒塗りベンツは120km以上でぶっ飛ばす
あの時も、走行する車にほとんど出会わず、前へ前へぶっ飛ばした

雑草の茂った空き地にサーカス小屋のテント
露店ひしめくぬかるんだ道
夜の休憩時間中の工員達、あてもなくブラブラぞろぞろ
裸電球と点滅するLED
懐かしい昭和30年代の生活風景が時速120㎞の空間移動と同居する

そう、あの時は台湾人資本の工場に
ローカル工場の福建人 Xiao Yang を連れて行き勉強させたのだった
生産ラインの作り方、工場のしつらえ、工員たちの動き、等々
スパイというと聞こえが悪いが
台湾系の工場にもローカルな工場にも注文を出していた日本メーカーからすると
二つの柱となるサプライチェーンの道として
教育的意味合いもあった
今ではどちらの工場もなくなってしまったが
陶磁器より設備投資がかからず、技術的にも安易なポリレジンの工場が
雨後の竹の子のように中国沿岸地域あちこちでできていた頃
欧米輸出経験の豊富な台湾系工場とローカルな工場とでは品質管理に大きな隔たりがあったのだ
値は張るが品質の良い広東省の台湾系工場、
安価だが品質管理に難がある福建省のローカル工場
そんな時代だったころのお話





西尾昭貞社長の依頼でミャンマーの陶磁器工場の視察リサーチ。この地で日本国内向けノベルティ陶磁器商品生産は可能か?可能性のある生産拠点はあるか?
通訳は日本に滞在しているモウモウ。
マンダレーからさらに北。シュエーボのホテルで宿泊。シュエーボはミャンマー英雄の故郷の街。ホテルはヤンゴンからの長距離バスのターミナル前。町一番の中心地?ホテル横の小川で朝、沐浴をする人が数人。ただの水浴だろうか?
シュエーボの中心からさらに東に行ったエーヤワディ河の近くに数件の陶器工場がある街に行く。
一軒目はかなり敷地が広い、ザーサイ壺くらいの大きな壺を作っている工場。ちょうどトラックに出来上がった壺をのせて出荷するところに出くわす。壺はそのままトラックに乗せ緩衝材は藁。載せれるだけのせてロープで縛るプリミティブな方法。
トラックの行き先は川の船着き場だろうか?二日後に行くことになるヤンゴンからさらに海の近く、エーヤワディ河下流の陶器産地近くの船着き場近くに大きな壺を野ざらしで置いてある場所に出くわしてそう思った。エーヤワディ河は水運路として機能している。


2016年9月4日 Sheung Wan  arrived YANGON !



2016年9月5日 ceramic village 場所: Shwebo (ミャンマー・ザガイン管区)



Thanakha @ Shwebo













Thanakha





















http://www.meso-intl.org/j-fairtrade-shop.php

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★「メソープ・タナカ」がお肌に良い理由(参照:「メソープ」リーフレット)

①日差しの強い東南アジアの女性の肌を守ってきた天然成分「タナカ」
②90%以上が天然由来成分
③自然の恵みをそのまま生かす低温製造(コールドプロセス)
④すべての工程を2カ月かけて作っているため、生産数には限りがあります
⑤ダブル洗顔で、メイクもきれいに落とせるので、経済的


「タナカ」の効果

①皮膚の病気を治してくれる
②香りがとてもいい
③体の熱をとってくれる
④毛穴を引き締めて吹き出物を防ぐ
⑤日焼け止め
⑥オイリー肌を防ぐ



2016年9月20日火曜日

day #13291: 940524 Prior Park Landscape Garden/ Bath

https://www.nationaltrust.org.uk/prior-park-landscape-garden/features/our-work-from-opening-to-today

1994年5月24日、ひどい時差ぼけでバースに到着した翌日、訪れたプライヤー・パーク。
Palladian Bridgeはまだこの記事の写真のようにすっぽり服を着て、改修中だった。
遠望する橋を左に見ながら公園内の小径をなだらかに下る小雨降る中。傘を差し、ぬかるんだ道に足を取られたその拍子にハンディカムが落下し撮影不能に。
旅のはじめに起こったこの出来事のショックでこの場所の記憶があいまいだ。

何年か後、洋書屋でパラディン橋が表紙の造園家 Capability Brown の本を見つけ、その場所の記憶がぼんやりと像を結んだ、という記憶。

今日、再び出くわして、像を結ぶ何度目かの書き換えられた記憶。
画中人物になって絵の中を歩くことができる山水画のような、
その中に入って回遊可能なダイオラマのような、
風景式英国庭園と橋。
今ではすっかりこの橋を見た記憶になっている。





*将来性(Capability) というニックネームを持つ造園家、ランスロット(ケイパビリティ)ブラウン。
造園家 Capability Brown のホームページ
http://www.capabilitybrown.org/

wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3


Prior Park Landscape Garden /Bath
https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g186370-d213444-Reviews-Prior_Park_Landscape_Gardens_NT-Bath_Somerset_England.html#MAPVIEW

住所: Landscape Gardens (NT) Ralph Allen Drive, Bath BA2 5AH, England

なだらかな丘の上にある Mansion(英国の郵便網を整備した実業家 Ralph Allen の邸宅)から下を見下ろすと、スリバチの底に Palladian Bridge、そしてその上に一望できる Bath の街。
ネットにアップされたいくつかの写真で、そこまで歩いて行ったかさだかでない Mansion からの眺めもすっかり体感したような気になる。
https://www.nationaltrust.org.uk/prior-park-landscape-garden




2016年9月15日木曜日

a morning religious service





day #21431: 5 Sep. 2016
am5:30 ホテルをチェックアウトしヤンゴンからマンダレーへ
天気は雨、あたりはまだ暗い
運転手はモーモーのおじさん62歳
片道11時間の行程
ヤンゴン市内~高速、2時間半走ったドライブインで朝食
チャーハンと豚バラ肉を甘辛く煮たもの
朝のお勤めがテレビから流れる

Electric Buddhism

TV Buddhism

テレビからお経、新鮮
そういえば「テレビ仏陀」というのもあったな

http://www.fjnet.com/fjlw/201108/t20110803_183323.htm


いや、「芸術作品」などではない
やはり大乗仏教でないスリランカでも感じた事だが
生活のすごく近いところに浸透している「仏教」
国宝、文化財とか保存の対象として奉られる古寺院などではなく
絶えず現在に引き寄せられ、現在の技術でもって更新されている
LED電飾された仏像
テレビからお経の放送
スリランカで見た岩窟の仏教壁画は絶えづペンキで塗り直されてるように鮮やかな色で
詫び寂の保存ではない


Electric Budda


Shwe Daza Paya




















いや、「芸術作品」などではない
やはり大乗仏教でないスリランカでも感じた事だが
生活のすごく近いところに浸透している「仏教」
国宝、文化財とか保存の対象として奉られる古寺院などではなく
絶えず現在に引き寄せられ、現在の技術でもって更新されている
LED電飾された仏像
テレビからお経の放送
スリランカで見た岩窟の仏教壁画は絶えづペンキで塗り直されてるように鮮やかな色で
詫び寂の保存ではない




2016年9月2日金曜日

160902 メトメト大作戦 2016



2002年1月2月以来、センターでの3度目の実施。
身体的不安多少ありながらパンクマンやりました。声をだし汗をかき心地よい疲労感の翌朝、爽快に目覚め、小さい子と遊ぶことの高齢者にとっての健康的効果(笑)を実感。
このプログラム、簡単に言えばチーム対抗のジャンケン大会なんですが、コミュニケーションの基本である「目と目を合わせて..」「見ず知らずの他者に声をかける」ということが仕掛けられてる。
「全員参加」は児童総合センターに入国した大人、こどもの中で遊ばれるというところに、このプログラムの企画時点での問題意識を感じます。昨今あちこちの大型施設で大規模展開されるパッケージ化された超デジタル某チームとは対局な超アナログなパッケージプログラム。
ビデオのバックに流れている「メトメト大作戦!!のテーマ」(作詞作曲:檜垣智也)は大空間、大勢で遊ぶにとって不可欠な音環境とあらためて感じました。
様々な環境で利用可能な遊びのプログラムとして開発されたこの遊び、公開され使用されてるのかな?
*↓↓テーマ作曲した檜垣さんのアクースモニウムリサイタルが9/10県芸であります。


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愛知県児童総合センターのfacebookページより
2016年9月2日 
全員参加のメトメト大作戦、大成功で終了しました!
800人を超える参加者で、アトリウムは大賑わいでした。
15年前のあそびではありますが、子どもたちはいつの時代も変わりませんね。
初めて出会う子どももおとなも一緒になって目を合わせ、
「メトメト!」
ほんとうにココロあたたまる、ステキな光景でした。
当日パンクマンとして活躍してくれたゲストスタッフのみなさま、
あそびを生み出してくれたCAFEメンバーのみなさん、
参加してくださった多くの親子のみなさん、
ほんとうにありがとうございました!
当日の様子はコチラで見ることができます。




 fb橋本 公成
2016年9月2日 

day # 21427: 160901



九月一日、
瀬戸では干支置物の荷造りが始まっている

それを見て、、
うかつだった!

干支は酉

そう
五廻り目の暦!
早生まれだからと、
あと二年先と
呑気に構えていたら
いきなり目の前に突きつけられる
最期もこんな風にいきなりやってくるか



Stg 4 を友に
あと40年、
覚悟の朝



電線を巻き込んで 硝子戸の隙間から屋内へ アンコールトム状態の蔓 今夏も茂る

梅雨明けした一月半前は
カナ カナ カナ とひぐらしの哀愁
そして 今日
つくつくぼーし





それにしても、この紫に腫れ上がったのは何だ
いつの間に、?

百足?