2011年4月30日土曜日

a day in 2002 July

@◆07/20/2002 AM9:00 KASUGAI st. "Field Art" Bus tour~19:30
@◆07/21/2002 AM10:30- Fishing at ASUKE masutuliba ~ 16:00 →18:30 back home
@◆07/22/2002 AM KK → PM NZ4 13:00~guidance summer time, comments 14:30-16:00 ~17:00 out NZ to KANAYAMA st. A.Sato art work →19:00 KK~19:45 out → home

@◆07/23/2002 → 07/26/2002 stay at CHINA

@◆07/27/2002 AM8:00 wake up
Edit. VIDEO "Work 1999-2001" ~ 13:30 /Compmart
14:00- 名古屋大学情報文化学部、人間情報学研究科公開講座
■「純結晶について」森 昌弘
■「芸術と自然~中国思想から考える」神塚淑子×幸村真佐男
■16:00-17:30「無用の用ーシュミレーションとデザイン」北 栄輔×橋本公成
●エンジニアからみたデザイン(北)Vsアーティストからみたデザイン(橋本)
●遊びと最適化について
●アートは「無用の用」か
というふうに考えると、単にアートは最適な事柄に付け足された装飾的なものと考えるふうになってしまう。そうではなくて、問題の設定自体の枠組みを問う。そのためには、最短距離を求める「最適化」から見れば「無用の用」と思える問題設定自体がアートの役割の一つである。それは既成概念を打破するといった力がアートに含まれる重要な要素の一つであるからである。
●遊びを作る上で最適化、セルオートマンシステム等は使える物だ。
●「最適化」はある条件下では最適であっても異なる条件下では必ずしもそうではない。
オフ会:そば家(秋庭、木村、赤井、茂登山、古池、橋本)~pm8:00  
9:00帰宅、風呂、寝る
@◆07/28/2002 13:00-
■「CMの芸術性?ーテレビの美学とメディアリテラシー」藤木秀朗×石井晴雄
■「感性の数学と理性の音楽」佐藤潤也×津田佳紀
■「電子芸術の思想」秋庭史典
オフ会:そば家(秋庭、木村、赤井、茂登山、藤木、津田、橋本、....)

<0728/2002> recalled from broken i-book

2011年4月29日金曜日

『みみずだいさくせん』

Plan : EXPO2005 ( 5/2- 5/15/2005 )  For Children

「つち」を「たべて」いきてきた「せと」のひとたちは「みみず」とよばれたりします。


じっさいに「つち」を「たべて」いるのではありませんが、「つち」をほって「かたち」をつくり、「かま」にいれて、やきます。「やきもの」でさかえた「せと」のひとたちは「つち」を「たべる」ように「つち」を「しょうひ」してきたことのたとえです。「かとうとうくろう」という「とうげいか」のひとは、よい「やきもの」の「つち」をもとめていろんなところへいき、じっさい「くち」にふくんで、「した」でよい「つち」かどうかをたしかめていました。


『みみずだいさくせん』は「つち」を「たべる」ぷろじぇくとではありません。 


が、「みみず」のように「つち」を「たがやし」てちょっとちがった「つち」にします。それを「こうさく」とよびます。ふつう「こうさく」というとなにか「どうぐ」をつかいますが、この『みみずだいさくせん』では「からだ」が「どうぐ」です。「じぶん」の「て」と「て」をあわせて、そのあいだに「つち」をいれ「にぎる」と「て」と「て」にはさまれた「かたち」の「つちのかたまり」ができます。その「かたち」は「つち」の「かたち」ではなく「て」が「かたどられたかたち」です。「じぶん」と「じぶんでないひと」の「て」と「て」をあわせて、おなじようにしてできた「かたち」は「じぶん」と「じぶんでないひと」の「て」と「て」があわさった「かたどられたかたち」になります。それはじぶんの「て」だけで「つくる」ときよりちょっと「つくりにくい」かもしれません。こんなふうに「なにかをつくる」や「なにかのかたちをつくる」という「こうさく」でなく、「ちょっとちがったつちのじょうたい」を「こうさく」します。

09/03/2004 AM 03:56
* マンモスよりミミズがえらい
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Review 0728/2002

サイトスペシフィック、メディアインスタレーション
Art work of C.Drew , A.Sato & K.Takasu



メディアインスタレーションにおいて鑑賞者との何らかのインタラクションを作品に反映させようとする時にセンサーを用いることは、一般的である。光センサー、赤外線センサー、音センサー、私達をとりまく環境を電気的な信号に置き換え、それをトリガーとして電気的な仕掛けを動かす(スィッチングする)。手動のスイッチでなくセンサーーリレー回路を用いることはトリッキーな環境を作品に反映させるとともに、私達を取り巻く環境が情報として電気的信号に変換できるということを気付かせてくれる。

ところで、このセンサーを用いて何らかのインタラクションをアート作品に応用しようとすることは一般的になり過ぎたために私達はメディアアートの展覧会において、多くの作品がセンサーで展示空間や鑑賞者からの情報を検出し作品を動かしているということがすでに了解されている。こうなってくるとノベルティーとしてのアートの要素が希薄になり私達はしばしばどこにセンサーが隠してあるのか、なんの情報を検出して作品を動かしているのかなどといった謎解きにはしってしまい本来の作品体験とは別の関心でもって作品を鑑賞することがしばしばおこる。多くの作品においてこの部分だけが記憶に残る作品(仕掛けの謎解き)はその用いられたテクネがハイエンドであればあるほどそちらの方(テクネ)の芸術性(創造性)に関心が移ってしまうのである。そして、とってつけたようにセンサーが鑑賞者に作品鑑賞を強いるとき私達は時々しらけてしまうのである。「ああ、手をこうかざしてセンサーが反応しているのね」といったぐあいに。

"ART FIELD"という学生自主企画による展覧会が7月の暑いさなか行われた。これは名古屋造形芸術大学総合造形コース3年次の授業(中瀬講師ゼミ)の一環として行われ、たった1時間しか展示されない作品もあるテンポラリーな作品発表会である。美術を目的にして作られた展示会場以外の場所(日常空間)を参加者自らが見つけてその場所の所有者、管理者などと交渉し展示まで自主管理で行うことを主旨としている。この中で電気的仕掛けを用いた数点の作品についてコメントすることは、先に述べたセンサーを用いた作品についてのある視点を示すことになるだろう。と同時にサイトスペシフィックなメディアインスタレーションの可能性について言及できるだろう。 

C.Drewの作品は春日井文化フォーラムの中の図書館の入り口付近に展示されたメデイアインスタレーションである。アメリカから短期留学で来日している彼が今回の作品のテーマに選んだのは「同時多発テロ以後のアメリカでの検閲システム、特に図書館での指紋照合による閲覧システムが個人のプライバシーの侵害である」という、表現者にとっても、避けて通れない問題についてをテーマにしている。
 ここで彼が用いているのは磁界によるタッチセンサーとリレー、タイマーIC555によるスイッチングでサーボモーターを制御するというキネティックにとってはわりと基本の仕組みを用いたものである。具体的には鑑賞者(体験者)が手形と指紋が描かれたコントロールデバイス(インターフェース)に手をかざし、指を動かすことで、その前に乱雑にインスタレーションされている本がページをめくりだすというものである。
 この作品のインターフェイスが成功しているのはオーディエンスが手をかざすという行為がセンサーを反応させるという仕掛けであると同時に作品の目的である指紋照合というテーマと一致していることである。オーディエンスは自分の手をかざすだけで本がページをめくるというトリッキーな仕掛けを体験すると同時にその手形に描かれている指紋の記号に思いをめぐらせることになる。実際に指紋照合システムが何らかのセンサーを使っていることは想像できる。この作品のセンサーが指紋を照合するものでないとしても私達が個人情報を監理、監視されていることへの想像をこの作品は示唆しているのである。一方でこのシステムは作品を一定時間所有するシステムでもあり、また指紋照合システムを使用すればより個人的にこの作品を所有することが可能であるかというセキュリティの問題に転化させることも可能である。

佐藤綾香の作品は7/22の夕方5:30-6:30一時間だけ金山駅のジャンボモニターを用いて行われたインスタレーションである。この作品はまず、場所の設定において通勤客が多く往来する駅のコンコースを用いたということが成功している。いやがうえにも、ここを往来する人々は日常性の中に仕掛けられたちょっとした異化(de-familiarization)に意識するしないに関わらず直面せざるお得ない。 ここで佐藤が用いた仕掛けは駅にある既存のジャンボモニターにDVビデオカメラからのライブ映像を映し出すというものであるが、DVビデオカメラが備えている静止画ショットを用いることで映し出されたライブ映像に異化を仕組むことに成功した。静止画に切り替えるスイッチを赤外線センサーーソレノイド、カウンターと連動させることでジャンボモニター前を通過する人々を静止画にフォーカスする。
 既存の電子機器が備えている機能を組み合わせることで一つの作品環境を作り上げた。シャッター音と画面の切り替えが通過する人々を一瞬立ち止まらせる。
 佐藤はこの作品において何気なく過ぎていく日常の時間を意識させるという目的で作ったというが、この作品はそういった意図と同時にDrewの作品が示唆していた監視とメディア環境の関係を結果として明示することにもなった。

高須の作品にはセンサーは用いられていない。明治村近くの入鹿池を作用空間に用いた作品である。バスツアーで入鹿池に近付くにつれ、この広大な場所をロケーションとして使用する作品がいかに物量的に大きな物であっても作品は陳腐なものになってしまうのではないかと勝手に想像していた私の心配はもろくもはぐらかされた。
入鹿池のボート乗り場にある桟橋に10人限定で体験可能なこの作品は、その桟橋の先端にある腐りかけた竹筒を不安定な桟橋先端にしゃがんで鑑賞(鑑聴)するというものである。池の中を覗き込むような格好で竹筒を耳にもっていけば、そこからはノイズまじりの犬のなきごえや、日常的な街なかの音が聞こえてくる。
 高須はこの音を、この人工池が作られることになり池の中にしずむことになって離散した5つの村の、そのうち4つまでの移転先をつきとめ、その場所に足を運んで採集した音を現在水中にあるであろう過去の街の上で再生したのである。密やかで、視覚的には作品として何もないに等しいこの作品は、それゆえにこの場所の空間、この場所にまつわる時間を取り込んでモニュメンタルな作品となっている。視覚でなく音をメディアに用いているが故に私達体験者の想像はより刺激され、体験後に桟橋をゆれながら戻って再びこの池を見る鑑賞者の視覚体験に影響を与えたのである。

以上、3つの作品は何らかの電子メディアを用いていながら、そのメディア、テクネだけが意識されず、その作品が設置された場所と結びつくことで始めて作品として良質なものとなっていたのではなかっただろうか。

Kiminari HASHIMOTO / 28.July 2002      Recalled from broken i-book

映像にむきあう





























About "Face to Face" 覚書070122-3

映像にむきあうー映像装置による映像体験の変化



映像体験において一般的には映像面をオーディエンスが向き合って見つめる。

映画の登場=オーディエンスはコンサートの体験のように劇場空間で多数のオーディエンスが映像投影面(スクリーン)を向き合って見つめる。
劇場空間は映像内容に注視させるよう闇の環境が作られる。

テレビの登場=日常空間でオーディエンスが日常空間の一部としての映像を眺める。
初期段階では一台のテレビを街頭で大勢のオーディエンスが見るという環境があった。オーディエンスはそれを見ながらオーディエンスどうしでコミュニケーションをかわすことも可能であった。
環境:映像注視のための闇空間ではなく、オブジェ(箱)として映像が日常空間にある。
   放送受信機

ビデオ、多チャンネルの環境の中でテレビ(テレビモニター)はパーソナル化する。
テレビは放送受信機の役割に付加された機能と、受容する側の多様化により家族でそろってテレビを見るという体験が変化する。世帯の中で1台のテレビでの同一情報を共有→受信する情報が世帯の中の個人で異なるようになる。

パソコンの登場→普及で放送受信以外の映像に向かう環境ができる。

RPG(ロールプレイングゲーム)の登場によってテレビモニター以外の映像受容も可能になり、ハード面でもよりパーソナル化がすすむ。

テレビは情報を受信するメディアという一元的な目的のオブジェから、RPGのための画面、好きなときに好きなコンテンツ(ビデオソフト)を見る画面。という複数の用途が利用できるようになり、体験(テレビに向き合う)という時間の制約から開放される。=多くのオーディエンスが同時に同じ時間に見なければならないという環境はなくなる。

パソコンの普及とインターネットの登場=

モニター付携帯電話の登場=

テレビという携帯不可能なオブジェから携帯可能なモニター(情報端末)の登場により、いたるところ、あらゆる時間が映像鑑賞可能な環境ができる。

以上のような映像鑑賞の変化がもたらすコミュニケーションの変化。=人と人とが面と向かってコミュニケーションする時間、環境の変化を考察、検証。

<2007/01/22> Recalled from broken i-book







http://www.acc-aichi.org/aburabu/34go/index.html
http://www.acc-aichi.org/aburabu/34go/syosai.html#02



Face


























About "Face to Face" 覚書070122-2



Face 1) 表面
水中(海中)から見た水面ー見上げる
水の外からみた水面ー見下ろす
上空から見た雲面ー見下ろす

映像撮影時のカメラの視点が、インスタレーション時に投影される空間環境に一致する。
視点の移行がオーディエンスの身体行為を誘発する要因となるような仕掛け。

Face 2) 面
オーディエンスどうしの顔
魚の顔(映像内容)=顔の映像を集める。

Face 3) 映像の表面
スクリーン(オーディエンスの視線に対し垂直に位置)
絵画の表面(支持体=板、キャンバス、紙、絹+絵具の層、顔料の粒、+反射光 としての現象)

<2007/01/22>  Recalled from broken i-book





http://www.acc-aichi.org/aburabu/34go/syosai.html#02

裸の王様は裸にされる。子供達によって、さえも。


























About "Face to Face" 覚書070122-1


Faced 1. communication - "He is faced with a difficult problem."





1) 仕事で忙しいお父さんは明け方に我家にこっそりしのびこみ、子どもの寝顔を見る間もなく、ふとんにそそくさともぐりこむ。朝ごはんを食べる子どもは、寝顔のお父さんしか知らない。たいへんだー。たいへんだー。

2) オフィスでは、みな背中をむけてPCのモニターに一日釘付け。声をだせば届くのに、伝達事項は電子メールでとんでくる。たいへんだー。たいへんだー。

3) 明け方のファミレスにやってきた恋人たち。席にすわるやいなや互いの携帯電話を開き、画面に向かって忙しくメールを打ち出す。見つめあう愛の囁きなしに別々のところにいる2人。たいへんだー。たいへんだー。

4) ひさしぶりの休日、子どもに声をかけるお父さん。だけど返ってくるのは気のないうつろな返事。だって子どもは忙しい。ゲームに夢中。たいへんだー。たいへんだー。


世の中のいたるところで面と向かう時間がどんどんへっている。たいへんだー。たいへんだー。たいへんだー。たいへんだー。
世の中のあらゆる世代で面と向かう時間がどんどんへっている。たいへんだー。たいへんだー。たいへんだー。たいへんだー。


ある日お父さんは『めんとむかう』ことを説こうとアートという名の一つの遊具をつくったとさ。

<2007/01/22> Recalled from broken i-book





http://www.acc-aichi.org/aburabu/34go/syosai.html#02




2011年4月28日木曜日

三次元

「こどもはいつから3次元のものを平面(2次元)におきかえることができるだろう?
ひとは、いつから3次元のものを認識し2次元の平面におきかえることができるだろう?」



5歳の子どもがあるとき上手に魚の絵を描いた。
それは図鑑を見て描き写した絵だった。細かい模様までよく描き込まれた絵だった。そこで私は次の日に子どもと絵を描こうと一個の鉢植えを子どもの前においた。

「きょうはこのうえきばちにうわっているはなのえをかこう」

わたしのよびかけに、こどもは

「そんなのかけっこないじゃん。だって、こう、かみのうえにあるものはかけないじゃん。だってこうえんぴつでかこうとしてもなにもかくところがないくうちゅうにかけっこないじゃん。」

と子どもは植木鉢が描く紙に対して垂直に置かれていることを身ぶりをまじえてわたしにうったえた。私はハッとした。

It is impossible to draw this flower !  Well, because I cannot draw a picture on the air !!

畳や机のうえという平面に置かれた2次元の紙。そしてその上に置かれた植木鉢。紙の上の空間にのひろがっている植木鉢は、かれにとって、空中に鉛筆を走らせて描くということだ。


わたしたちはいつごろから、みのまわりの3次元の空間を2次元の平面に置き換えてえをかくことができるようになったのだろう。
そして、人々はなぜ、みのまわりの3次元空間を写真のようにそっくりに描かれた絵を上手な絵というのだろう。

そんなふうに考えながら、あらためて子どもが描きためた絵をみると、いくつかの種類にわけられる。
一つは2次元のイメージを2次元の紙に描きうつした絵。テレビや本で見るキャラクターの絵などが多い。
二つ目は記憶をもとに頭の中で記号化した絵。これは、母親や父親など人の形をしたものが多いようだ。
そして、三つ目は、自分がこの世界の中で初めて出会った不思議なことや興味をひかれたことを他者に伝えようとして描かれた絵だ。これはことばのようなメディア性をもっている。人に伝えたいというおもいが絵となったものだ。
こう見てくるとなるほど3次元の空間を写生したものは見あたらない。




図2) 概念画としての機関車トーマスの再現



ある日、また息子が描いた奇妙な絵を発見した。
この、ホワイトボードにマジックで描かれた不思議な絵はなんだろうと子どもにたずねたところ、機関車トーマスの絵だという。
線路の上にのっている機関車を描こうとして彼は苦労したらしい。


「だって、せんろがこうにほんあって、そのうえにトーマスがせんろにのっているんだけど、せんろはにほんあって、そのせんろのいっぽんにもしゃりんがのっていて、もういっぽんにもしゃりんがのっているんだからいっぽんのせんろにしゃりんをかいて、もういっぽんのせんろにもしゃりんをかいたらトーマスがふたつになっちゃうんだ。」



なるほど道理である。と、へんに納得する私であった。 

そしてできあがった絵は西洋美術史的観点に立てば、いくつかの視点を同一平面
上に描くというキュービズムのような作品に仕上がったのである。        
  
<0810/2002> Recalled from broken i-book


---追記
以下、制作手順を再現。


図3) はじめにホワイトボードに線路が描かれる。線路は上から見た記号として表されている。息子はプラレールのトーマスで遊んでいて、朝のテレビで見ていた機関車トーマスも見ていたから「せんろ」という記号化されたイメージから概念としての「せんろ」を認知していただろう。

図4) 線路の上に車輪が三つ描かれる。線路が上から見た図であるのに対し、車輪は横から見た図象で表されている。プラレールなどで遊んでいたことから、線路に車輪をのせる、線路から車輪がはずれると「だっせん」する、ということを「しゃりん」という言葉とともに息子は認知しているらしい。

図5) 車輪の上に機関車の輪郭のような図象が描かれる。上から見た線路、横から見た機関車、ここまでの図象は多くの児童画によく見受けられるイメージである。

図6) もう一本の線路に接するように車輪が描かれるが、車輪は横から見た図でありながら、線路の上から見た図に対応させようと上から見た線路の中心から対称になるように線路の外側に描かれている。この後、機関車の輪郭がすでに描かれてている輪郭の鏡像のように外側に開いたように描かれ(図2)線路の上のトーマスは二つになる。



-----------追記171119: 空中や水中に絵を描くことは、フェムト秒レーザーによって可能になることが報告されている。現時点では大掛かりな装置が必要で、日常的に使用できるデバイスが登場するにはかなり時間が必要であるが、そういったデバイスが登場すれば冒頭のイラストにある問題は別次元にアップグレードされるだろう。