1年前の9月15日、家の前で信号待ちをしてる時、羽化したばかりのような傷一つない美しい羽根のアサギマダラを見た。
信号が青に変わると前のボックストラックを追いかけるようにひらひら飛んで行く。
そうか!南への長旅のためにエネルギーを温存すべくボックストラックで空気抵抗を避けながら飛んでいるのだ!
ちょうどその時は両眼カメラしか作動してなかったので、この出来事を忘れないよう脳みそAIで生成、途中でほっぽり出してた切りバリCGを1年ぶりに完成させた。
そして、つまり、絵を描く動機とはそういったものだと思う。(手動gifあにめ)
am 11:50 |
しかしトラックは北に向かっていた!
この道をまっすぐ行けば愛知池に繋がって、アサギマダラの立ち寄り地のバタフライガーデンがありアサギマダラが好物のフジバカマを植えてるが、まだ花の時期は早く伊良湖の渡りももう少し先の時期だった。伊良湖岬はこの進行方向とは逆の方向だし、西を目指すなら左折しなければならない。
その日も、今日のようによく晴れた日だった。
このように、この日のできごとを言語化してるのだから、生成AIを使えばもっとその時に私が見た光景が、その時のリアリティをもって出現するだろうか?それとも全く見たこともない道の光景が出現するだろうか?それもまためんどくさい作業なので1年後になるだろう。
昨今のデジタル環境は何事につけクイックタイム・レスポンスである。すぐに返事なり結果を強要してくる。何日もかかって完成させていた手描きイメージ図が4,5例をあっという間の数分で作成してくるのだから確かに驚くのであるが、受容する側の脳みそ筋肉を含む身体の代謝スピードとずれていってレスポンスに乖離が生じる。と感じているのは老害年齢を突き進んでるからだろうか。
冷静に生成AIを見れば、長大な人類の集合知を自動検索して組み合わせてるのだから、個人の限られた時間内での直接体験だけによる生成と競争することはすでに結果が知れている。そして集合知と個人知という対立項は、その分け方がそもそも間違いである。個人の脳みそといったところでそこにはすでに無意識の人類全体の集合知が含まれているのだから。
そものも、この切り貼りコラージュになぜそんなに時間がかかったのか。その時の感覚を重視すれば重要なのは主になるアサギマダラではなく、それがその時その場所でそのような状態を表そうとしたからだ。そのため蝶の画像より背景となる場所を生成することが、バイクで信号待ちしてるその時の視覚感覚の再現に時間がかかったのである。背景の画像にリアリティを持たせるべく最初はグーグルストリートビューをちょっとずつ視点を変えてコピペして重ねていたが、主観的両眼カメラから続くバイクの運転ハンドルなどは改めて別日に信号待ちの時に撮影したりした。出来事自体を撮影することはできなかった不在を埋めるために背景の生成に注力したのだ。